第2話「キャラバン隊」
砂の匂いがする。
カサカサに乾いて、水一滴も含まれない、混じりっけ一つない、大地の匂い。
わずかに覚醒を始めた皮膚感覚が、ごわごわとした毛布の肌触りを捉えた。うっすらと目を開け、薄明の世界を見渡す。
まず、そこには眼があった。僕をのぞき込む一対の眼、びっくりするほど大きい。黒光りする瞳孔、長くて綺麗なまつ毛、好奇心旺盛の可愛らしい眼差し。
そして−、キノコみたいな巨大な鼻。
ヒゲの生えた口元がぐわり、と開き、黄ばんだ犬歯に僕は対面した。
「うわぁあああ!!」
思わず絶叫、毛布をはねのけ、起き上がろうとする。だが、その前に奴の口が僕に迫ってきて−
「って、え?」
大きな鼻を僕の頬にすり寄せ、ふんふん、と鳴らす。凶暴さ、というより人懐こっさを感じさせる動きに毒気を抜かれた僕は、あらためて奴の図体をまじまじと見つめた。
ちょっと間の抜けた顔に、長い首、白い毛並みと背中のこぶ。
「ラ、ラクダ?」
「あ、眼が覚めたみたいっスね」
半ば身体を起こし、ラクダと見つめあう形となった僕に、浅黒い肌の青年が近づいてきた。「よかったっス、自分で立てるっスか?」
ちょっと訛りが強くて、あまり上品な喋り方ではないけど、快活に笑って、分厚い手を差し伸べる姿からは、善良さがあふれ出ていた。キャラバンの人足だろうか。
「大丈夫です、っ、痛たたっ」
自力で立とうとするも、胸に鈍い痛みが走る。慌てて肩を貸してくれた人足に恐縮しつつ、僕は辺りを見回した。砂漠の夜、うっすらと目視できる闇には、何頭ものラクダがじっと佇んでいる。人の姿はない、どうも僕は隊から少し離れた場所で寝かされていたらしい。
「少し歩けるなら、隊長に挨拶したほうがいいっスよ。あの人、義理とか礼儀にはめちゃくちゃ厳しいっス」
叱られた時のことを思い出したのか、大げさに怯えてみせる人足の姿に、つい破顔する。ラクダの番を任されているので付きそうことができない、と申し訳なさそうに言う彼に、あらためてお礼を言いつつ、僕は傷にさわらないよう、ゆっくり歩き出した。
「それじゃお前、岩トカゲから逃げてきたっていうのか!?」
「まあ、はい。その……頑張りました」
キャラバンの本隊は、岩陰で暖をとっていた。ただでさえ砂漠の夜は恐ろしく冷えるのに、毛布一枚で地面に寝ていたため、ほとんど凍えそうになっている僕は、ありがたく焚き火に当たらせてもらうことにした。隊長に助けてもらったお礼を言いつつ、車座に混ぜてもらって、簡単に事情を話す。
「こんな小さなガキ、いや、少年、がねえ」
「運が良かったんです」
アリさん−隊長の息子で、会計係らしい−の驚きぶりに恐縮する。
「……いや。岩トカゲは運の良し悪しでどうにかなる相手ではない。儂の知り合いだけでも、奴の爪の犠牲になった数は計り知れぬ」
焚き火の向こうで沈黙を守っていた隊長が、初めて口を開いた。鷹のような眼に、ギロリと睨まれて、僕は思わず姿勢を正す。
「……若いの。名前は?」
「マルコ。フリーの『地図屋』をやっています」
返答を聞き、隊長は軽く顎を手でさする。なんとなく、ベテランっぽい手つきだった。
「マルコ? ここらでは聞かない名前だ」
「偉大な冒険家の名前を借りています。その人に近づくために」
隊長は得心したようにうなづく。
「『地図屋』のマルコ殿、歓迎しよう。儂のキャラバンにようこそ、貴方に神のご加護を」
そう云った隊長は、左右の隊員に目配せする。彼らはうなづくと、僕に向かって頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
慌てて、お辞儀を返す。
「皆もまずは食事にしよう。マルコ殿も空腹のはずだ」
実際、僕も相当空腹だったし、何より喉が渇いていたので、願ったり叶ったり。食事係と思しき人が、荷物から大きな堅焼きパンを取り出すと、均等に割り、配っていく。それから、羊肉を鉄串に刺して、焚き火で焼く。ほのかに漂う肉と油の匂いに、僕は頬を緩めた。程なくして焼きあがった肉が配られ、隊員たちが、神に祈りを捧げる。僕も手を合わせて、
「いただきます」
砂漠のささやかな晩餐を、夜空の星が見守る。それから、僕とキャラバンの隊員たちは、お互いのことを話しあった。彼らは、古くから、砂漠の岩塩を都市に運び、都市の布や織物を砂漠に運んでいるという。もう初老にもなる隊長の、お祖父さんの代からだというので、100年近く続けているということになる。その途方もなさに、くらっとした。
「まあ、俺たちにとっては、これが生活みたいなもんだしな。慣れてくれば、危険、というわけでもないし」
むしろ、未知の場所に進んで飛び込んでいく『地図屋』の方がよほど危険だろう、アリさんの言葉に、僕は苦笑した。
この世界、『ウル』と、元の世界との違いは、魔法があったり、精霊がいたり、異種族がいたり、とまあ色々とあるけれど、何より大きいのは、ときどき作り変わることだ。文字通り、作り変わる−例えば、もともと砂漠だった場所が森林に変わったり、山間の街が海岸に移動したり、大山脈の麓にいつのまにか洞窟ができていたり−、そんな信じられない出来事が、数年単位で起こる。まるで、ジグゾーパズルのピースをばらばらにして、もう一度並べ替えるかのように、見えざる何者かの手で、世界のつながりが再構築される。
もちろん、ジグゾーパズルのたとえのように、ばらばらになると云っても、ある程度の限度がある。同じピースの中では、このキャラバンのように、何十年間も交易を続ける人たちもいる。しかし、大抵の貿易や、国同士の交流は、数年間で白紙に戻ってしまうもので、だからこそ、正確かつ迅速な地理の把握が必要となる。
結果、生まれたのが、僕たち『地図屋』。未知の世界を探検し、既知の地図へと変える、冒険者たちだ。
「でも、なんていうかなあ。俺の中では『地図屋』っていうと。こう、もっと屈強そうなイメージがあったんだけど」
「……あははは。それ、よく言われます」
『地図屋』というと、学者のようなイメージがあるけど、実際のところ、『地図屋』の大半は無骨な荒くれ者たちだ。安定した職業につける選択肢があるのに、わざわざ未知の世界に飛び込もうとするものはそうそういない。
小柄で細面、なま白い肌に、カラス色のコートと帽子。おまけに金縁眼鏡を身につけた僕のいでたちを見て、アリさんは胡乱げにうなった。
「もしかして訳有りとか? それで『地図屋』に……」
「不要な詮索は慎め、アリ。客人に失礼だ」
隊長の鋭い叱責がとび、アリさんは身をすくませる。
「いえ、そんな大した事情はありません。ただ、その、この目で世界を見てみたいんです」
僕の返答に、隊長は少し興味を惹かれたのか、ほう、とうなる。
「異なる地、異なる人たちの、風俗や文化は本で知ることができる。でも、彼らが普段から何を食べ、何を話し、何を思っているのかは、実際に会ってみないとわからない」
たとえどんな危険が待ち受けていたとしても、未知の世界への探究心、憧れ、は止められない。それは『地図屋』になる前からの、偽らざる本心だった。
「変わった客人だ。それで、これからの行き先は?」
「とりあえず、どこかの港町まで。そこで船を探そうかなって」
そもそもテテ砂漠の向こうは、まだ知らないことが多い。キャラバンくらいしか行き来するものがいないこと、そして、作り変わりのせいで、曖昧な返事をするほかなかった。
「では、サライの街がいいだろう。クスプス大塩湖のほとり、ここから半日もかからなぬ距離にある。近くまで送って行こう」
「え!? わざわざ、そこまでしてくれなくても」
恐縮する僕を、隊長は穏やかに制する。
「砂漠を生き抜く秘訣は、助け合いだ。貴方と会ったのも、神の御意志だろう。ここで貴方を捨て置いたとなれば、我々にこそ神罰がくだる」
それに、もともと補給のために街には立ち寄る予定だった、と付け加えられては、断るわけにもいかず、ありがたくご厚意に甘えさせてもらう。
「あと、食料と水もないだろう。持って行きなさい」
「あ、ありがとうございます」
どうしてそこまで、と口から出かかると、隊長は顔を砕けさせて笑った。
「貴方のことが気に入った。……儂とて、世界の果てを夢見たときもあったからな」
ぱちり、と焚き火が音を立てて燃える。火影に照らされた老人の顔には、少し寂しげな影が差していた。
「ちゃんと見てきます。隊長の分も」
そう答えると、隊長はにやっ、と笑って、そのままコートに包まり寝てしまう。それにつられるかのように、他の隊員も微睡みはじめ、すぐに僕にも睡魔がやってきた。
初めて知り合ったばかりの人と過ごす夜は、しかし、不思議と、懐かしい感じがした。
《《《《》》》》
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