第8話 予想外の余波

 体育の時間。更衣室の中はこの上なくむさくるしい。これが授業後だと、汗と熱気で地獄と化す。


 隅っこの方に場所を確保して、俺はのろのろ着替えていた。毎度のことながら、体育は億劫で仕方ない。


「おい、楠。お前、すっごいアザできてんぞ?」


「……え、マジ?」


 教えてくれたのは、クラスメイトの古嶋こじま。出席番号の関係上、始業式初日に仲良くなった。


 首を回して、身体を捻って何とか確認しようとする。そのうちに、おおよそ伸びるべきじゃない筋肉が悲鳴を上げた。


「ぎゃーーーっ!」


「何してんだ、お前は。自分の尻尾を追いかける猫か」


「ヤバいヤバい、変なとこ痛めた」


 着ようとしていたシャツを手に、床に膝をついて身悶えする。少しでも首を動かせば、すぐにでも痛みが走る素敵仕様。


「ったく、大丈夫かよ。保健室行くか?」


「こんなアホな理由で恥ずかしすぎる。それに追試は面倒だ」


「じゃあ早く着替えろ。今のお前、すっげぇ気持ち悪いぞ」


「んなこと自分でもわかってるわ!」


 気持ちマシになったので、静かに立ち上がる。人体が意外にも脆いことをよく思い知らされた。


 気を取り直して着替えを続けようとした時、背中に誰かが触ってきた。


「……いきなりなにすんだ、古嶋」


「きれいな青タンだからきっと痛いだろうなぁって」


「とんでもねえな、お前。やめてくれよ、男に触られて喜ぶ趣味はないぞ」


「そんなもん、俺だって同じだ。誰が好き好んでお前の背中に」


「でも好奇心には負けてんじゃねえか」


 ホント気持ち悪くて仕方ない。しかも驚いた余波で、待た変に首筋が痛んだ。これはこの後地獄が待ってるな。


 しかし、背中のアザか。実は選ばれし者にだけ刻まれる特別な証、とか。

 ……な、わけないか。古嶋の反応を見る限り、ただの打撲跡みたいだし。おそらく、昨日――深夜に落下した時の影響だろう。


 そんな風に思い返していると、突然背中に痛みが走った。あの時の痛みが蘇ったかのようだ。ふざけて痛めた首なんかとは比べものにならない。


「大丈夫か? 顔、真っ青だけど」


「あ、ああ。なんとか。ええと、背中に変なところないよな」


「別にアザ以外は普通だが。はぁ、しかし何が悲しくて男の背中をまじまじと見つめにゃいかんのだ」


「悪かったな」


 古嶋に気取られないように、静かに息を整える。ぐっと堪えていると、じんわりと汗が噴き出してきた。


 これはキツイ……とても体育なんてやってられない。しかも今日は陸上だ。


「やっぱり保健室行くよ。ちょっと気分が悪くて」


「……そうか。付き添うか?」


「いや、平気だ。サンキュー」


「ん。委員には俺から伝えとくわ。お大事にな」


 てっきりもう少し軽口をたたいてくるかと思ったが、古嶋の反応は真剣なものだった。

 どうやら、しんどさは全く抑えきれてないみたいだ。


 後はこの原因をどうやって、保健室の先生に説明するか、だけど。

 結局、上手い言い訳を思いつかないまま、俺は制服に着替えなおして、更衣室を後にした。



        ◇



「ねっ、一つ頼みごとがあんだけど」


「やだね。昨日付き合ったろ」


「そういうのじゃないんだって。今回のは緊急事態!」


 普段とは違う紗由希の様子に、俺はちょっとだけ話を聞いてやる気分になった。形だけで、頼み込むような仕草を取るとは、こいつらしくない。


 一日の全過程が終わり、時刻は午後四時過ぎ。窓から見える風景には、ほのかに夕焼け色が見て取れる。


 今日は本当にしんどかった。今でこそ背中の痛みは引いたが、昼休み辺りは絶望を覚悟したものだ。

 よく乗り切れたな、俺。まあ今。謎の危機が眼前に迫っているんだけど。


「今日さ、園城えんじょうさん休みだったでしょ」


「ああ、そうだったけ」


 曖昧に言葉を返しながら、俺は再度黒板を確認した。

 欠席者の欄に、確かに園城と記されている。

 だが、それを見ても俺はあまりピンとはきていなかった。同じクラスだが、日頃から接点があるわけじゃない。


 それでも、他の女子よりかは印象に残っている。

 園城はクラスの男子からの人気が高い。すらりと背の高い大人びた美人、というのが共通認識になっている。


「珍しいよね。去年皆勤だっと思うけど。それに、なんか連絡がなかったみたいでさ」


「へぇ」


「それでね、プリント届けなきゃなんだけど」


「ああそうか。お前、クラス委員だったっけ。ホント世も末だな」


「うっさいよ。でもね、あたしちょっとこの後外せない用事があって」


 言いにくそうに顔を逸らした紗由希に、頼み事とやらの中身に検討がついた。


「俺に代わってくれと。なんで俺なんだ。悪いけど、園城とは一ミリも親しくないぞ」


「うん、それは知ってる。でもほら、みんな忙しいみたいだし。それにね、園城さんの家、シュンちから近いのよ」


「んなめちゃくちゃな。お前が頼まれた仕事なんだから、ちゃんと自分でやんなきゃダメだろ」


「アンタにしちゃ珍しく正論ね……どうしてもだめ?」


 こんなもの、いつもなら二つ返事で断る。

 だが、俺はちょっと悩んでいた。たまにはこの幼馴染に貸を作っておくのも悪くない。


 それに、ちょっとだけ園城のことが気になっていた。

 突然休んだ真面目なクラスメイト。俺の記憶が確かなら、園城は赤っぽい茶髪。


 なぜかあの赤髪女のことが頭に過った。

 ぼやけた園城のシルエットに、赤髪女の像が重なる。


「……はぁ。今度なんか奢れよ」


「そうこなくっちゃ。さすが、シュンね」


 何がさすがかは聞かないでおくことにした。

 それについては、おおよそ予想ができていた。

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