第19話 トマールの戦い 魔人の侵略

 夜が明け、太陽は敵陣より陽光を注いでいる。

 天幕から一人の女性が敵陣を見回す。敵情の視察などではない。

 彼女が見てもライオネル王国軍が既に陣形を組み、野戦陣地の構築すら完了していることは理解出来た。

 自軍は朝日に向って突撃を掛けなければならず、地の理は完全にライオネル王国軍にあると言えた。だが、そんな王国側の努力も彼女ことシンクレアにとっては何の意味もない。

 戦闘を早期に終了させる最も効率的な方法は上級魔人であるシンクレアの【殲滅魔法】でトマールごと焼き尽くすことだ。魔力抵抗のない人間は彼女の中級魔法で容易に消し去ることが出来る。だが、それは彼女の本意ではない。


「見事な稲穂を焼くなど、興醒きょうざめですわね。せめて、刈入れが終わるまで待てば良ろしかったかしら」


 金色に染まった大海に魅せられたシンクレアは最悪の場合、多少は刈入れの為に人間達を千人程生かしておくのも良いかもしれないと考えた。

 そして、愛しいクリームの御馳走を用意する為に側近のカーネルに命令する。対峙する人間達に対する宣戦布告をする為だ。


わたくしはスフィーリアを治める【爵三位貴妃シンクレア】と申しますわ。私の目的はこの子達と一緒に狩りをすることなのですが、貴方方はどうやらそれを邪魔されたい御様子。しかるにこの子たちと遊んで頂くか、私と遊んで頂くかのどちらかを選んで頂きたく思います。どちらを希望なされますか? ちなみにこの子達が負けたならば、狩りは諦めますので御安心下さいね」


 銀細工の施された黒甲冑に身を包んだシンクレアの側近であるカーネルが、一字一句違えることなく、ライオネル王国軍に拡声魔法でシンクレアの言葉を伝える。

 内容だけなら丁重だが、要するに自分の玩具おもちゃか三位の魔人である自分のどちらに殺されたいかの選択をライオネル王国軍に与えているに過ぎない。

 豪華な輿に横たわり、薄い桃色のドレスを身にまとって優雅に扇子を広げて口許を隠しているシンクレアはきらめく金髪を腰まで延ばし、翡翠ひすい色の瞳は見る者を魅了する。戦場にいることが場違いだとしか思えない。

 全軍の前では彼女の愛竜であるクリームが雄叫びを上げてライオネル王国軍の士気をくじいていた。

 ライオネル王国軍の答えは最初から決まっている。しかし、意外だったのは返答の代わりに、シンクレアの方に向かって一矢いちやが放たれたことだった。

 矢は黒竜に当たるが、竜の鱗を貫くには距離があり過ぎる。

 黒竜に矢が当った瞬間、気分を害した彼女は秀麗な眉をひそませる。


「どちらか、分かりかねる返答ですわね。まあ、良ろしいですわ。それでは、皆さんに相手をして頂くことに致します。では、褒章ほうしょうは特に変えませんのでいつも通りに。唯、あの矢を放った無礼者は必ず生かして連れてくるように。半年程時間を掛けてゆっくりと反省して頂きますから……それと、タカユキをここに」


 突然の呼び出しに戸惑いながら、隆之はシンクレアの前で跪いて礼を取る。


「構いませんからおもてを上げなさい、タカユキ。貴方は此度が初陣になります故、しっかりと励みなさいね。貴方にはせめて、爵七位にはなって頂かないとクラリス様に目通りも叶わないのですから。貴方の血は至高の甘露かんろ、クラリス様にこそ相応しい最高の美酒なのですから。わたくしだけが口にするのは、僭越せんえつに過ぎるというもの。彼奴きゃつらの血を浴び、思う存分魔力を高めて下さいね」


 主人自らの激励げきれいに対して隆之はシンクレアの言葉に返ことが出来ないでいる。それ自体が無礼であるにも関わらずだ。静かに握り締めた右手から血が滴り落ちる。


「あらっ……勿体無いですわね。戦の前に負傷する等、恥ずべきことでしょうに」


 屈辱に耐える隆之から歯軋はぎしりの音が聞こえた。しかし、シンクレアに気にした様子もなく、続けてカーネルに指示を出す。


「カーネル、分かりましたね。決して【魔王ビス美酒ケス】を死なせることの無きよう、配慮なさい」


「御意」


 カーネルの返答に満足したシンクレアは口元を隠していた扇子を敵陣に向ける。薄く紅を着けた唇は魅力的で多くの男を惑わす魔性の物だった。


「では、カーネル。始めて下さいな」


 シンクレアはそう告げると、輿を降りた。天幕へ向かう際に黒竜クリームを撫でながら後方へと下がっていく。

 奴隷軍の中で唯一帯剣しているカーネルは、おもむろに抜剣し、振り下ろし叫んだ。


「全軍、吶喊とっかんせよ!」


 ときの声を上げて、魔人軍がライオネル王国軍に無防備に突撃して行く。策など魔人には必要が無い。ひたすらに蹂躙じゅうりんし、むさぼり喰らうだけだ。

 こうして、後のライオネル王国史に【トマール防衛戦】と名付けられた戦争という名の虐殺の火蓋ひぶたが切って落とされる。

 隆之にとっての初めての戦場は想像していたものとは全く違う物であった。

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