奴が落とした証拠品は何なのか
彼女の身体を包んでいたカーディガンもスラックスもカットシャツも、全て散り散りになった布切れと化した。代わりに彼女の身体は艶のある体毛で覆われている。その姿はもはや、人間とは似ても似つかず、悪魔と呼ぶに相応しい。
巨大な翼を持つ怪物と、鉤爪を引きずる怪物は互いに睨みをきかせた。
間合いを取りながら円を描いて、お互いに出方を伺う。
仕掛けてきたのは、鉤爪を操る怪物だった。しなる触手が空気を割る音を鳴らす。かまいたちが起きるほどの速さで繰り出される斬撃を、彼女は鋼鉄の翼で身を包み、防いだ。翼には鋭利な刃先が直撃したにもかかわらず、傷一つすらついていない。その頑丈さは、相手に恐怖を与えるのに充分だった。
怯み、のそのそと後ずさりをする怪物に、銃弾が撃ち込まれる。
彼女は慌てて、翼を閉じる。銃声がした方を振り返ると、建物の影に身を潜めながら銃を構える須藤の姿があった。
「須藤、何をしている! 逃げろと言っただろ」
「へえ、その姿でも喋れるんですね。てっきり、意思の疎通も出来なくなったのかと思いましたよ」
相変わらず小馬鹿にしてくるような言い方で腹が立つ。が、『侵蝕』の能力は、文字通り、使えば使うほど使用者の理性を侵していく。彼が言うように、意思の疎通さえできなくなるときもやがては来てしまう。
だから彼女は、逃げろと言ったののに、須藤は聞き入れなかった。
「これは怪物同士の戦いだ。普通の人間が介入していいものじゃない!」
それでも尚、彼を説得しようとする彼女の背中を、鋭利な刃が切り裂いた。
「うぐっ!」
いかなる刃も貫かせない鋼鉄の翼も、ただ背中についているだけでは意味をなさない。須藤を説得しようとするあまり、防御が疎かになってしまったのだ。
よろけて地面に蹲ったところで、また銃声が響く。
「怪物が人間に手助けされちゃっていいんですか?」
「お、お前……怖くないのか? 相手だけじゃない。私までもが怪物になってしまったのに、どうして逃げない?」
「九十九さん、あなたは元からヴァンパイア、紛うことなき怪物でしょうが。怪物についていくと決めたからには、最期までお供しますよ」
九十九刑事は、須藤の聞き分けの無さに半分呆れつつも、頼り甲斐を感じずにはいられなかった。
怪物に向けてひたすら銃弾を撃ち込む須藤には、恐れの表情は一切ない。もとより彼は、表情が顔に出るタイプではないが。
頼もしくはあるけれど、相変わらず、銃撃は相手に決定的なダメージを与えられていない。それどころか相手の灰色の表皮を見ると、着弾して血が噴き出たところから、立ちどころに傷が癒えていくのが見てとれる。常人がその光景を目の当たりにすれば、絶望のあまり立ち尽くすような光景だ。
(おそらく、私の爪も効かない。それに、奴は事件とかかわりがある以上、生け捕りにしなければならない。どうすれば――)
思案していたところで、相手のある挙動に気づく。
銃声が轟くまさにその瞬間、相手の肩が僅かにだが、びくりと反応しているのだ。さらに、注意深く観察すると、一瞬の怯みに続く形で長い腕が悶えているように見える。
(奴の頭部には、目にあたるものがない。ということは、聴覚で空間を認識しているのか!)
そう直感したと同時に、九十九刑事は自分の怪物としての能力にひどく感謝した。
仕掛けるならば、相手が次に腕をしならせてその刃を振るった瞬間だ。神経を研ぎ澄ませ、彼女は、奴が振りかぶる寸前の僅かな肩の動きを見逃すことなく捉えた。
(今だ!)
強靭な脚で跳躍し、翼で風を捉えて、目にもとまらぬ速さで奴の懐に潜り込む。あまりにもの突然のことで、奴はのけ反った。
「須藤! 耳を塞げ!」
言い終わるまでに奴の至近距離で超音波を放つ。本気を出せば、周囲の壁に亀裂が入り、窓ガラスが粉々に砕け散るぐらいの威力も出せるが、流石にそれはしなかった。そんなことをすれば、相棒の須藤が耳を塞いでいたとしても、無事では済まないからだ。
彼女の目の前で、怪物は明らかに苦しみを表す。腕は激しくのたうち回る蛇のよう。脚はがくがくと痙攣している。そのまま、ふらふらとよろめいて、アスファルトの地面に倒れ伏した。
(やはり、発達しすぎた聴覚が弱点だったか)
改めて奴の姿をじっくりと観察してみる。頭部に人間のそれに近い頭髪が残っていて、見ていると何故か、「もともとは人間の姿だったんじゃないか」なんて思えてくる。それは人型のヴァンパイアから姿を変えて戦っている自分とて同じこと。
目の前に横たわる怪物の姿に、九十九刑事はどこか親近感を覚えるのだった。
(さて、こいつをどう持って帰ろうか……)
と心の中で呟いた瞬間、怪物の灰色の表皮から槍が伸びて、九十九刑事の胴体を貫いた。
「九十九さん!」
これには流石に相棒の須藤も建物の影から飛び出して、九十九刑事のもとに駆け寄った。その巨大な身体が呼吸で僅かに動いていていることを確認して、ひとまずは安どする。
彼女の生存が確認できたころには、相手の姿はもうなかった。見かけでは鈍重そうだった怪物も逃げ足だけは速かったようだ。
「ちっ、逃がしたか」
悔し紛れに舌打ちをしてから、辺りを見回す。
あの怪物が暴れまわった証拠になるようなものはないか、注意深く観察する。
奴の灰色の表皮は、粘液で覆われて、てらてらと光っていた。しかし、奴が去った後の裏路地は何もかもが乾ききっている。他は奴が破壊した赤煉瓦が転がっているくらい。歓楽街の街中ならば、いくつか監視カメラもあったのだが、近辺には見当たらない。常軌を逸した怪物同士の戦いを観ていたのは、怪物そのものと須藤のみということだ。
「あれだけ派手に暴れまわっておいて、何も得られずか」
ポケットに手を突っ込みながら呟いたところで、地面に一本の口紅が転がっていたことに気づく。すぐさま手袋をはめて、それをポチ袋の中に入れた。二人目の被害者、ヴァンパイアの男性の肩についていた口紅と同じもの。これは重要な手掛かりになると、須藤は確信した。
これで、死地をくぐっただけの収穫はあったことになったか、と心の中で呟いたところで、ある重大な問題が残っていることに気づく。そう、巨大なコウモリの姿で倒れ伏したままの九十九刑事のことだ。
「さて、あのデカブツをどうするかな」
「デカブツとは失礼だな」
ぼそりと漏らした独り言を、九十九刑事が拾い上げた。須藤の背後からするその声は、不機嫌なアルトボイスだ。
「死んだかと思いましたよ、九十九さん」
振り返ろうとしたところで、顔を両手で押さえられて、がっちりと固定された。
「待て。こっちを向くな。上着を貸してくれ」
そう、九十九刑事は、自らの姿を怪物に変化させたときに、着ていた服をすべて破いてしまっていたのだ。
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