その死体についていた噛み跡は誰のものなのか
現場検証を終えた夜のこと――
ナラの樹で作られた高級感のある書斎机の上に、二十七インチのモニターが三台並んでいる。黒い立体空間を表すウィンドウの中に、緑色のグリッドで描かれているのは、歯並びを示した3Dモデル。人間のものによく似ているが、上顎と下顎から伸びる二対の長い牙から、ヴァンパイアのものであるということが分かる。
九十九刑事は、その3Dモデルを、ヴァンパイアから取った歯型と一つずつ丁寧に照合していく。牙月区はヴァンパイアの生態と文化を研究する目的のもとに作られた計画都市であるため、住民であるヴァンパイアは自身の歯型の登録を求められている。襲われた人の身体についた噛み跡から歯型を再現し、照合するのは、ヴァンパイアが絡む事件でよく使われる捜査手段だ。
今回の事件で、二つ目の遺体に残っていた噛み跡は、かなり深く、3Dモデルの構築は容易だった。しかし、それとぴったり合うものが中々見つからない。
「これも違う。あれも違う!」
募る苛立ちをハーブティーを飲んで紛らわそうと一息ついたところで、事務所の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
「九十九さん、お疲れ様です」
「なんだ、須藤か」
「聞き込み調査から戻ってきました」
コーヒーの匂いをぷんぷんと漂わせながら須藤が近づいてくるのを、彼女は苦笑いで出迎える。
「やめてって言ってるじゃん。コーヒー臭い」
「昼夜逆転している上司のもとに就いていると、コーヒーがないとやってられないんですよ。で、何をやってるんですか?」
「カニちゃんの協力で、被害者についていた噛み跡から歯型を3Dモデル化したの。けれど、牙月区の住民とは全然合わない」
カニちゃんというのは、司法解剖を担当している法医学者、
「へぇー、そうなんですか。自分の歯型とは合わせてみたんですか」
「なわけないでしょ。ぶっ飛ばすわよ」
ははは、と軽く笑いながら冗談交じりに照合させてみる。
“合致率 87パーセント”
「ぶふっ――!!」
今まで出たことのない高い値が出たもので、彼女は思わずむせ返ってしまった。噴き出したハーブティーが、一部の書類にかかってしまい、大慌て。
「え、九十九さん。人を殺めちゃったんですか。マジ引くわー」
「違うわっ!!」
抑揚のひとかけらもない棒読みで煽ってくる須藤をあしらうも、なぜ、自分の歯型に一番合致しているのかは、とんと分からないままだ。まさか、自分のものであるはずがないのだから。
「となると、私の血縁者かしら。たしかに先入観から、候補の中から外していたけれど……」
「九十九さんの血縁者って、ヴァンパイアの
真祖。この世界に初めて生まれたとされるヴァンパイア、吸血鬼ドラキュラの血を濃く引く血族を、真祖という。真祖は非常に強力な力を持つヴァンパイアであり、伝説として語り継がれている者も多い。
今となっては、人間との混血も進み、真祖の存在は珍しいものとなりつつある。その真祖の中でも、牙月区の設立に大きく関わったのが、
“合致率 96パーセント”
「嘘……、あり得ない」
九十九刑事は、画面に表示された数字を信じることができなかった。殆ど百パーセントに近い合致率を示したのが、自分の母親の歯型であったからだ。
だが、それはまずあり得ない。母親の朱音は牙月区の都市計画が完成する間際、六十年前にこの世を去っている。朱音の歯型が、今日発見された死体に残っているはずがないのだ。
・被害者は二人、ヴァンパイアと普通の人間。
・ヴァンパイアの遺体には、襲ったヴァンパイアがつけたと思われる噛み跡。
・噛み跡は、六十年前に死んだはずの九十九朱音のもの。
「私、疲れているのかしら」
白板にこれまで判明した事実を書き連ねるも、そんな感想がこぼれ出てくる始末。そこに須藤が聞き込みで得た情報を書き加えていく。
人間の被害者の方は、日雇いで働く中年の一般男性。酒を飲んでばかりで荒れた生活を送っていたそうだ。
一方、ヴァンパイアの方は、近くの飲食店の従業員。こちらはよくクラブに出向いていたそう。
「共通の知人等はいなかったです」
「でしょうねえ。一人目の一般男性の記憶からして、犯行は無差別だわ。共通点といえば、夜の街をほっつき歩いているくらいねえ」
なんともパッとしない共通点だ。それで犯人の動機や行動パターンを絞り込もうというのは乱暴が過ぎる。
「とりあえず、今日のところは、被害者の二人の職場環境を洗っただけなので。明日、家族関係等を洗ってみます」
「おーう、頼んだぞ。私はその間休養を取っておくから」
「へいへい」
また昼間の捜査は任せきりか、とローテンションの須藤を事務室から送り出した後、九十九刑事は窓に浮かぶ月を見上げて一人きりで黄昏た。
「――母さん」
その言葉を発したのは、いつぶりだろうか。と彼女は思い返してみる。まさかとっくの昔にこの世を去った母親のことを、自分が捜査を担当する事件がきっかけで思い出す羽目になるとは。
***
真夜中の警察署の廊下を、須藤は、トレンチコートのポケットに手を突っ込みながら歩く。大きな生あくびをした勢いでふらついたところ、闇からぬっと腕が伸びてきて肩を支えられた。
「おっと危ないなあ。須藤君、やはり夜行性のヴァンパイア刑事になんぞ関わって、仕事に身が入らないようだなあ」
廊下の曲がり角。ほの暗い闇の中に
やがて闇の中から、丸々と太った男が現れる。と同時に、男の禿げあがった頭部が、廊下のぼんやりとした照明を反射して、ぎらりと光った。
「五十嵐課長」
「君も物好きだな。うちの中でも特に成績の悪い九十九刑事のところに自ら志願するなど」
それが須藤は、とにかく気に入らないのだった。
「お言葉ですが五十嵐課長。九十九刑事の働きが真っ当に評価されていれば、検挙数は特別犯罪課の中でもトップかと」
長身を活かして五十嵐を蔑んだ目で見下ろすも、邪に歪んだ笑みで返される。
「何を世迷言を」
ふふふ、と不気味な笑みが、五十嵐課長の引きつった唇から漏れる。
須藤はそれが耳に入っただけで眉間に皺が寄り、拳に青筋が入るほどの憤りが沸き起こる。
「五十嵐課長、俺は十年前のあの事件にまだ納得がいっていません」
去っていく五十嵐課長の背中を呼び止める。
「十年前? ああ、確か君の恋人の――。彼女は自らの罪を認めた。だったら、それで、終わりじゃないか」
啖呵を切ったものの、五十嵐にゆらりとかわされる。
それが悔しくてたまらず、けれど、声には出せず。その醜い贅肉のついた背中を視線で刺すかのように睨みつける。五十嵐課長の姿が闇に溶けるまで、須藤はその視線を一秒たりとも逸らさなかった。
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