ココロのトゲを…
雪花
さまよう人
平日朝九時。始業と同時にその人は立ち上がる。
今日の最初のネタは天気かニュースか長年ためにためて発酵さえもしているであろう自慢話か。
昨夜のテレビ番組の小ネタって可能性もあるかな。
正直ネタなんかなんでもいいんだろう。話さえ出来れば。
行先は数年前に入社した総務の女性社員。
プリンターへの行き帰り。トイレ休憩の行き帰り。ちょっと外の空気吸ってくる行き帰り。立ち上がれば必ず彼女の机の横で足を止め、数分の立ち話。
もはや日課にもなっている彼の行動は、社内女性陣には呆れと苛立ちしか感じさせない。あちこちでひっそりとため息が漏れる。
定年退職後のアルバイトとしてのんびり仕事をしているその人は、とにかく話好きなのだ。女性同士の些細な話にも必ず口をはさむ。そして会話の主導権を奪う。
最初こそにこやかに聞いているが、何十回も繰り返される過去の栄光、自慢話やお年寄りの決めつけを含む上から目線の政治語り、興味もないゴルフ道具の話などの全てに優しく相槌をうつのは正直きつい。
特に自分がどれだけすごかったのか話は月一をこえる割合で出てくるので、十年以上同じ職場で仕事をしているとくれば百回ではきかない数の自慢を聞いていることになる。限界だ。
私たちに出来ることは、見捨ててごめんと心の中で謝りながらターゲットになって困っている女性社員にさりげなく仕事を振ることくらいだった。
そして今日、そんな彼は行き先を失った。
毎日のように報道されている世界中で猛威を振るう感染力の強いウイルス。
その対応で学校が休校になり、小さい子どもをもつ件の女性社員がテレワークになったからだ。
いつも立ち寄るその席に彼女はいない。
「あ、そうか。今日はいないのか……」
寂しげにその席を見て一人つぶやき、静かに自分の席に戻る。
誰も声はかけない。
横目で確認しながらも、絶対に声はかけない。
半日後、彼は私の真横に立った。
話が出来ないということに半日しか我慢出来なかったようだ。
自分の真横に立たれて無視出来る社会人はそうはいない。
私は仕方なく一つの話題に付き合い、飛びつくように電話を取ることで会話を切り上げた。
ゆっくりと別の女性社員の元に話相手を探しに行く彼。
彼は行き先を探す。終わりの見えないウイルスの猛威に困り果てて、亡霊のように事務所内をさまよう。
困るところはそこなのか……。
「……いや、仕事しようよ。本当に」
私たち女性社員の心の声は届かない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます