2/リィンヤン -終 裏切り
──御前試合前日、早朝。
「な──」
木剣の切っ先が、ヘレジナの首筋にぴたりと触れる。
勝負は一瞬だった。
「ま、待て! もう一度だ!」
「ああ」
木剣を構え直す。
「また、こっちから行くぞ」
「──来い。今度こそ、見切る」
ヘレジナが双剣を油断なく構える。
だが、
「──…………」
一瞬ののち、木剣の刃は再びヘレジナの首筋に届いていた。
「なんだ、これは……」
ヘレジナが、呆然と口を開く。
「燕返し──では、ないな。似ているが、根本的に何かが異なっている」
「基本的な動作は同じだ。ただ、原理が違う」
「原理……」
「つまり、こう考えたんだよ」
必死に紡いだ〈必殺技〉の原理を、簡潔にまとめて語る。
「──なるほど」
ヘレジナが、感心したように頷いた。
「これは、まさに必殺たり得る技だ。たとえ、今の私が体操術を取り戻したとしても、初見で放たれれば死は免れない。対処法はあるが、正しく〈初見殺し〉というわけだ。だから、わざわざ深夜に特訓を行っていたのだな」
「気付いてたのかよ……」
「むろん、全員知っている。皆で見守っていたぞ」
「……言ってくれよ、頼むから」
陰の努力を陰ながら見守られるのは、いささか恥ずかしい。
「大丈夫だ。遠目には燕返しにしか見えん。たとえジグに見られていたとしても、原理にはまるで気付いておるまい」
「ならいいんだけどな」
ヘレジナが、満面の笑みを浮かべ、薄い胸を反らす。
「──では、約束通り、私が名付けてやろう!」
「……約束だったっけ?」
「よし、思いついたぞ」
「はええよ!」
「大本が燕返しゆえ、こういうのはどうだ」
一拍溜めて、ヘレジナが口を開く。
「燕双閃・自在の型」
「──…………」
つばめそうせん、じざいのかた。
「……どっちかにしねえ?」
「燕双閃・自在の型だ! 文句を言うのなら、どんどん長くするぞ」
「ソレデイイデス」
「ふふん、よろしい」
ヘレジナが、満足げに鼻息を漏らす。
「燕双閃・自在の型さえあれば、あのジグすらも容易になますにできる。あの男の吠え面が楽しみだ!」
「上手く行きゃいいんだけどな」
「行く」
ヘレジナが、木剣を握った俺の拳に、自分の拳をぶつけた。
「ヘレジナ=エーデルマンが保証する。お前の刃は、もう、ジグ=インヤトヮに届く」
「……そっか」
ようやく、届く。
届くのだ。
「ヘレジナ。俺は──」
万感の思いを込めて、誓う。
「俺は、この手で、皆を助け出す。ジグを倒して、御前試合で優勝してやる。──絶対に」
「……ああ」
包む込むような微笑みを浮かべて、ヘレジナが答えた。
「期待している。私は、お前に助けられたほうが、嬉しい」
それこそが、俺が守るべき笑顔だった。
まずは、ジグだ。
ジグを倒せなければ、すべては水泡に帰す。
御前試合に出ることすら許されず、ただ運命をジグに預けるのみとなる。
「今、呼んでくるか?」
「頼む。今の感覚が残ってるうちに仕留めたい」
「了解だ。お前の実力を、ジグに見せつけてやるのだ!」
「おう!」
そう、力強く頷いたときだった。
──遠くに、馬のいななき。
木製の車輪が悪路を転がる音がした。
農村であるリィンヤンの朝は早い。
そう珍しくもない環境音だが、それが教会の前で止まったとなれば話は別だ。
「……誰か来た、か?」
「まったく、間の悪い!」
「ま、しゃーないか。正直眠いは眠いし、仮眠を取ってから万全の体調で挑むわ」
「連日連夜、昼に夜にと特訓を重ねていればな」
「頑張りました」
「うむ、よく頑張った。だが、ラーイウラを抜けたら無理はするなよ。その頃には、抗魔の首輪は取れているのだからな。私を大いに頼るがよい」
「ああ、そうさせてもらうよ」
俺はきっと、ヘレジナに追いつけていない。
燕双閃は初見殺しの技だ。
奇跡級中位以上の実力者であれば、種さえわかれば容易に対処できる。
事実として、俺は、燕双閃の攻略法を幾つか思いついている。
同じ相手に何度も使えるものではないのだ。
ヘレジナは、強い。
ジグに師事したことで、彼女は自分で思う以上に強くなっている。
俺には確信があった。
今、抗魔の首輪が外れたとしたら、ジグはもうヘレジナに勝てない。
十戦して何勝できるか、というレベルではない。
百戦したとして、一勝できるかすら危ういのだ。
ジグは以前、トレーニングの傍ら、自らを〈奇跡級上位の壁を越えられなかった中位〉であると評したことがあった。
それは、きっと正しい。
そして、ヘレジナは、既にその先へ行っている。
奇跡級上位。
超人の、一歩手前まで。
「──どうした、立ち呆けて。そんなに眠いなら、ここで寝ていくか?」
「いや、外で寝るわけないだろ」
「以前、横になっておったではないか。プルさまの膝枕で」
「──…………」
見てたんかーい。
「……こほん。まあ、カタナも頑張っているゆえな。プルさまには劣るが、私とて膝くらいはと」
「マジで」
「マジだ」
「予約だ。予約をしておく」
「今でなくてよいのか?」
「だって、誰が来たのか気になるだろ。それ確認したらで」
「ネルの客だろう。来客の対応はジグがする手筈だ。私たちでは失礼があるやもしれんし、それ以上に不愉快になりそうだ。顔を出すのは憚られるな……」
「でも、今日は御前試合の前日だぜ。それに関わる来客かもしれない」
「……たしかに。言われてみると、気になるな」
「だろ?」
「では、先方にバレないよう、こっそり覗いてみるとしよう」
教会とネルの屋敷とは、一本の通路で連絡している。
俺たちは中庭から離れると、教会の壁沿いに進み、茂みに隠れてその正面を覗き見た。
「──……え?」
まず耳に届いたのは、ネルの震えた声だった。
「何、言ってるの? ジグ……」
教会の大扉の前に、小型の馬車が停留している。
そこに、呆然と佇むネルがいた。
ネルに背を向けるジグがいた。
そして、ジグの肩に馴れ馴れしく手を乗せる、杖を持った壮年の男性がいた。
「もう一度だけ、言う」
ジグの声色は冷たい。
「オレは、ダアド様の奴隷として、御前試合に出場する」
「……は?」
思わず、口から声が漏れた。
「何を言っている、ジグ=インヤトヮ!」
激昂に駆られたヘレジナが、茂みから飛び出す。
「ヘレジナ!」
放っておくわけにも行かず、俺もヘレジナの後を追った。
その瞬間、
「──頭が高いぞ、奴隷」
ジグが、ヘレジナの顔面を殴り飛ばした。
「ウぶッ!」
ヘレジナが地面に転がる。
「ヘレジ──」
「ヘレジナ! カタナ! 貴族の御前である! 平伏しなさい!」
「──…………」
何もかも、わけがわからないまま、ネルの意図だけが理解できた。
つまり、そういう手合いなのだ。このダアドという男は。
俺は、ヘレジナに目配せをすると、地面に顔を伏せ、両手のひらを上に向けた。
最服従の姿勢。
ゼルセンに仕込まれたものだ。
ラーイウラにおいて、奴隷は、許可がなければ貴族の顔を拝謁することすら許されない。
横目で見れば、ヘレジナも、同様の姿勢を取っている。
平和なリィンヤンに慣れ過ぎた。
ラーイウラとは、元より、こういう国なのだ。
「──まあ、まあ」
ダアドと呼ばれた男が、優しげな声音で言う。
「新しい奴隷なのだろう? 許そう、そのくらいは」
自らが圧倒的優位に立っていると自覚しているがゆえの鷹揚さ。
奴隷を打つための杖をしっかりと握り締めながら、自分は懐が深いと嘯く。
反吐が出そうだった。
「まったく、女性の顔を殴るとはね。それも、可愛らしい方じゃないか。ジグ、紳士らしく振る舞いなさい。私の奴隷なのだからね」
「申し訳ありません」
私の、奴隷。
ジグが?
疑問ばかりが脳裏に咲き誇る。
だが、それを口にする権利は、俺にはなかった。
「……本気なの?」
「三度は言わない」
「本来であれば、ここで、五千でも一万でも出すところなんだがね。ああ、ほら。なんだったかな。ネル、君の言葉だぜ」
伏せているため、様子はわからない。
だが、ダアドの勝ち誇った表情だけは、容易に想像できた。
「──人間同士のやり取りで、第、三、者、に金が渡るのは、おかしな話だよなあ?」
第三者。
ダアドが、わざとらしく、その言葉を強調して言った。
ジグと自分のことは、お前には関係ない。
この男は、そう言いたいのだ。
ふと、数日前のことを思い出す。
深夜、ジグと会話をしていた男は、ダアドの斥候だったのだろうか。
そう考えれば、一応の筋は通る。
ジグがダアドに従っている理由、それ以外は。
「カタナ=ウドウ」
ジグの爪先が、俺の前で止まる。
「王城にて待つ」
ジグは、それだけ言い放つと、ダアドの馬車へと乗り込んだ。
「悪いね、ネル。王となるのは私だよ。では、ごきげんよう」
「──…………」
ネルは、ダアドの言葉に反応しなかった。
ただ、ただ、ジグを見つめているようだった。
「……相変わらず、不愉快な小娘だ」
ダアドはそう吐き捨てると、馬車へ乗り込み、扉を乱暴に閉じた。
馬がいななき、走り出す。
それを確認し、俺はようやく顔を上げた。
「──ヘレジナ、大丈夫?」
ネルが、ヘレジナを抱き起こす。
「今、治癒術をかけるから……」
「この程度、なんでもない。なんでもない、が──」
ヘレジナの眉尻が、心配そうに下がった。
「……ネルこそ、ひどい顔をしているぞ」
「まあ、ね……」
ネルの言葉が、震えている。
必死に、泣くのを我慢している。
「だって、子供の頃から一緒だった。兄みたいな存在だと思ってた。それが、ダアドみたいな男につくなんて……」
「──…………」
俺は、ヘレジナの傍に膝をついた。
「ヘレジナ、傷を見せてくれ」
「ん」
治癒術の淡い光に晒されたヘレジナの顔を確認する。
あれほど派手に吹き飛ばされたにも関わらず、目に見えるあざも、傷もない。
「ネル」
「──…………」
「ジグは、裏切ってない。事情があったんだと思う」
「……どうして、そう言えるの?」
「ジグは、細心の注意を払ってヘレジナを殴り飛ばしてる。できるだけ派手に見えるように。ダアドの溜飲が下がるように。そして、怪我をしないように。職人技だぞ、これ」
「──…………」
「心変わりをしたわけじゃない。ジグは、ジグのままだ」
「……ふふ」
ネルが、憔悴した顔で、それでも小さく笑みをこぼす。
「なに、それ。ぜんぜん根拠になってない……」
「……そうか?」
「でも、……そうね」
ヘレジナの頬にかざしていた手を、ゆっくりと下げる。
「勝手に打ちひしがれてても、つまらないもの。あいつ、問い詰めてやらないと」
「ああ」
「……カタナ、勝って。こうなった以上、あなたには、そうする他に道はない」
「元より、そのつもりだ」
御前試合に出る。
ジグに勝利する。
やることは何も変わらない。
目的が、一つ増えただけだ。
「──勝って、あの野郎から事情を聞き出してやる」
そう呟き、俺は拳を握り締めた。
青に染まりつつある朝焼けの空に、数羽の雀が飛んでいた。
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