2/リィンヤン -9 決意

「あだ、いたたた……」

 腰から背中にかけて、鈍い痛みが纏わりついている。

 筋肉を酷使し過ぎて、超回復が間に合っていないのだ。

 痛みそれ自体にも慣れてきたため、動けないということはないが、このままトレーニングを続けて問題ないのか不安ではあった。

「はー……」

 固いベッドに倒れ伏し、革製の枕に顔を埋める。

 肉と大豆をたらふく食べたし、湯浴みもしたし、歯も磨いた。

 寝る準備は万端だ。

「……そろそろかな」

 期待を込めて扉を見つめていると、


 ──とん、とん。


 やがて、遠慮がちにノックの音が響いた。

「どうぞー」

 扉が開き、顔を覗かせたのは、ヤーエルヘルだった。

「こんばんは、カナトさん。さすらいのマッサージ師、ヤーエルヘルでしよ」

「こんばんは、マッサージ師さん。今日もよろしく頼むよ」

「はあい」

 トレーニングを始めた翌日から、ヤーエルヘルは毎晩俺の部屋を尋ねてくれる。

「では、そのまま楽にしていてくださいね」

「うん」

 ヤーエルヘルがベッドに乗り、俺の膝裏に腰を下ろす。

 小さな手のひらが腰に押し付けられる。

 ぐい、ぐい。

「あ゛ー……」

 心地いい。

 ヤーエルヘルは、非力だ。

 体重も軽いし、効くかと言えば正直効かない。

 でも、俺たちのために何かをしたいという気持ちはとてもありがたいし、何より誘眠効果があるのが嬉しかった。

 何度マッサージ中に寝落ちしたことか。

「次、背中いきまし。痛くはないでしか?」

「よゆう」

 腰、背中、肩から入って、腕を経由し、手のひらを揉んでもらっているときだった。

「カナトさん、がっしりしてきましたよね」

「あ、やっぱりそう思う?」

「はい。肩幅が広くなって、頼もしくなりました」

「自分でもそう思ってたけど、改めて人に言われると嬉しいな」

 頑張った甲斐があるというものだ。

「……でも、それヘレジナに言ったらダメだよ。気にしてるみたいだから」

「?」

 ヤーエルヘルが小首をかしげる。

「ヘレジナさん、さほど変わってないでしよ。たしかに、腕回り、足回りは筋肉質になってきた感じでしが、太さはあまり」

「そうなんだ」

 直接身体に触れているヤーエルヘルがそう言うのなら、ヘレジナが気にし過ぎているだけなのだろう。

「筋肉のつき方は、体質もありましから」

「性差もあるしね。俺も、つきやすいほうではないけど」

 それでも、たったの二週間──三週間でここまで変わるのだから、ジグの課したトレーニングはよほど効率がいいらしい。

 筋力を鍛える一日と技術を伸ばす一日を交互に繰り返すのは、素人の俺から見ても理に適っているように思う。

「ヤーエルヘルは、首輪が取れたらどこへ行きたい?」

 なんて、取らぬ狸の皮算用をしてみる。

「首輪が取れたら、でしか」

「ひとまずウージスパインへ抜ける予定だったけど、ほとぼりも冷めただろうから、アインハネスへ戻っても、南下してクルドゥワを目指してもいい。俺たちは、旅人。放浪の物語ワンダラスト・テイルなんだから」

「ふふ」

 ヤーエルヘルが、くすりと笑う。

「実はあちし、元からウージスパインへ行ってみたいと思っていたのでし。だから、渡りに船というか」

「そうだったんだ」

「はい。師はかつて、ウージスパインの魔術大学校の教授だったそうなのでし。戻っているとは限りませんが、あちしの知らない師の姿が、きっとそこにあるのだと思いましから」

 ウージスパインの魔術大学校は、北方十三国で唯一の大学校だと聞いた。

 そこの教授ともなれば、なるほど道理で博識なわけである。

「──前から、思ってたんだけど」

「はい」

「ヤーエルヘルは、お師匠さんを見つけたら、どうするつもりなんだ?」

「──…………」

 ヤーエルヘルの手が止まる。

「そう、でしね。まだ決めてません。また師と旅をしたい気持ちもありましし、カナトさんたちとずっと一緒にいたいとも思いまし。会ってみないと、なんとも……」

「そっか」

 ヤーエルヘルの気持ちは、痛いほどよくわかる。

「あちしも、聞きたいことがありまし」

「うん?」

「カナトさんは」

 ヤーエルヘルが、俺の顔を覗き込んだ。

 その瞳には、有無を言わさぬ真剣さが宿っている。

「……カナトさんは、どうしたいのでしか?」

「──…………」

「ユラさんとも、ヘレジナさんとも、話してませんよね」

「……ああ」

「二人とも、気にしてました。でも、聞けないって。怖くて、聞けないって」

 思わず目を伏せる。

 ヤーエルヘルの視線から逃げるように。

「そうでしよね。"元の世界へ帰りたい"なんて答えられてしまったら、それを手伝うしかない。大好きな人を失うために、頑張らないといけないから……」

「……そっか」

 二人が尋ねないことに、甘えていた。

 俺はまだ、答えを出していない。

 元の世界へ帰るのか。

 この世界に残るのか。

 今は、パレ・ハラドナの追っ手からユラを逃がすという目的があるが、安全を確保できてしまったら、安住の地を見つけてしまったら、旅はそこで終わってしまう。

 それはきっと、遠い未来のことではない。

「正直、わからない。自分がどうしたいのかすら。ヤーエルヘルと同じだよ。元の世界へ帰りたい気持ちもあるし、皆とずっと一緒にいたいとも思う。皆を俺の世界へ連れて行ければいいんだけど……」

 そう呟いた瞬間、ヤーエルヘルが目を輝かせた。

「それ、いいじゃないでしか!」

「……え?」

「みんなでカナトさんの世界へ行く。そしたら離れ離れにならずに済みましし、パレ・ハラドナからも逃げられる。一石二鳥でし!」

「いや、戸籍とか──」

 言い掛けて、思う。

 些細な問題じゃないか。

 日本は、比較的平和な国だ。

 行く場所がなければ、無闇に追い出されたりはしない。

 生活費が必要なら、俺が頑張ればいいだけの話だ。

 考えれば考えるほど妙案であるように思われた。

「……それも、いいかもな」

「はい! あちし、ユラさんたちを呼んできまし!」

 ヤーエルヘルがベッドから飛び下り、ぱたぱたと部屋を出て行く。

 数分と経たず、

「──カナトッ!」

「カナト、ヤーエルヘルの言葉は本当か?」

「わたしたちを、カナトの世界へ連れて行ってくれるって!」

 ユラとヘレジナが、俺の部屋に飛び込んできた。

「あー……」

 ベッドに腰掛けたまま、後頭部を掻く。

 これは、後には引けないな。

「……うん。そうできたらいいなって。方法があれば、だけど」

「なに、方法など探せばよいのだ。こちらへ来られたからには、帰る手段だってあるはずだろう。それに相乗りすればいいだけのことだ」

 そう都合良く行くとは限らないけれど、都合良く行かないと決まったわけでもない。

 手段を見つけてから悩んでも遅くはないだろう。

「カナト、ありがとう……」

「わ、と」

 ユラが、俺の頭を、優しく抱き締める。

 双丘の柔らかな感触。

 ユラの体臭と香油の入り混じった甘い香りが、脳を痺れさせていく。

「……わたし、いつかカナトと離れ離れになってしまうんだって、ずっと不安で。だから、嬉しくて……」

「──…………」

 そうか。

 俺の優柔不断が、ユラを苦しませていたんだな。

「大丈夫だよ、ユラ。ヘレジナに、ヤーエルヘルも」

 そっと立ち上がり、ユラの肩に手を置く。

「決めた。俺は、皆と一緒にいられる道を選ぶよ。もちろん、連れて帰れるのなら最高だけど……」

 この瞬間、俺の覚悟は決まった。

 ふらふらと揺れていた天秤が、片側に落ちた。

 俺は、元の世界すべてより、この三人を選ぶだろう。

「男らしくないぞ、カナト。そこは、どーんと、"絶対に連れて帰る"くらいのことは言ってのけろ」

「ははっ、そうだな。わかった。絶対に、連れて帰るよ。日本で一緒に暮らそう」

「うん!」

「……ああ!」

「──…………」

 ヤーエルヘルが微笑み、言った。

「あちしも、決めました。あちしも、みんなと一緒にいたい。たとえ師と再び会うことができても、離れたくない、でし」

 俺は、ヤーエルヘルに手を差し伸べた。

「一緒に行こう」

「はい!」

 ヤーエルヘルが、俺の手を取った。

 女の子を三人も連れ帰ったら、両親も、弟も、飼い猫だってびっくりするだろうな。

 住む場所はどうしようか。

 言葉はどうなるかな。

 地球でも魔術は使えるのだろうか。

 不安なことも多いが、それ以上に楽しみなことが増えていく。

 窓から沈まぬ月を見上げ、思う。

 これが俺の選択だよ、エル=タナエル。

 祝福してくれるだろうか。

 未来の話に花を咲かせながら、いつしか夜は更けていった──



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