第80話「僕等の今更な距離感」
いつもであれば一緒に
だけど僕は今、睦子さんに促されて……七海の部屋にいる。今日は睦子さんが一人で腕を振るいたいそうだ。
七海も手伝うと言ったが断わられたので当然、七海も一緒にいる。
いや、それ自体は彼女の部屋だから当たり前と言えば当たり前なんだけど……。
なぜか今……僕と彼女の距離はほんのちょっとだけ遠い。
今までだったら一緒に帰って部屋に入ってきたら、途端にくっついてきたり、僕に膝枕を促したり、何だったら僕を膝枕したりと……。
とにかく、部屋で二人きりになると色んな事をしたがる七海なのだが……今日はクッションをわざわざ一つ分だけ離して座っている。
……あれ? なんで?
よく見ると……僕の方に視線もあんまり送ってこない。
さっきまでは普通だったのに、部屋に入ったら急にである。
「七海……? どうしたの? 僕、なんかしたかな?」
もしかしたら、睦子さんに罰ゲームであることを知らせたことを怒ったんだろうか?
それとも、ちょっとだけ睦子さんから助けるのを遅らせたのを拗ねてるんだろうか?
うーん……心当たりがない。
七海は僕の言葉を聞いて、チラッと僕を見る。僕は七海と視線が合うと笑顔を浮かべるのだが……。
僕と視線が合った途端に七海はプイと視線を逸らしてしまう。
ちょっとショックだ。さすがにショックだ。
「ねぇ、七海……僕が睦子さんから助けたの遅かったから怒って……」
言いかけて僕は、そっぽを向いている七海の耳が赤くなっていることにそこではじめて気づいた。
耳が赤く……よく見ると横から見える頬も朱に染まっている。
「……ねぇ、七海……なんで赤くなってるの? えーと……赤くなる要素ってあったっけ?」
どうやら七海は怒っているわけではなく、何かに対して照れているようだ。
でも……何に照れているのだろうか? 心当たりが全くない。
僕はそれ以上は追及せずに、七海が口を開くのを待つ。そして……七海がゆっくりと口を開いた。
「えっとね……あの……私と陽信ってさ……今までは罰ゲームでの告白で今まで付き合ってたじゃない?」
「そうだね。うん。昨日まではそうだった」
「それでさ……今日から……今日からは正式な恋人じゃない……私達って……」
「うん。それはさっき睦子さんにも言ったよね」
改めて確認するように七海はゆっくりと口を開く。うん……それが照れる要素にどうなるんだろうか……?
むしろもっとこう……。だからこそイチャイチャ来ると思ったんだけど……。ちょっとだけ僕としても拍子抜けしてたりする。
ただ、僕のその考えも次の七海の言葉で霧散する。
「なんかね……改めてその……本当に彼氏と……陽信と部屋で二人っきりなんだって意識したら……今更だけど緊張しちゃって……」
「……へ?」
今まで僕と七海が罰ゲームの関係だったのは昨日まで。
今日からは正式な恋人同士。
逆に言えば……僕と七海の間にあった「罰ゲームの告白」と言う緩衝材はお互いに取り払われたと言える。
その緩衝材が無くなった今、僕等は普通の恋人として過ごすことになるのだが……。
普通の恋人の過ごし方……。
……って……どうすれば?
今までの僕等は、お互いがお互いを好きになってもらうようにという事を考えて行動してきた。
だから多少大胆でも「これは罰ゲームだから」みたいなことを無意識に言い訳にできてきたけど……それができなくなったのだ。
それを僕も……遅まきながら理解して……意識してしまった。
「あ……いや、その………。そうだね……二人っきり……だね……」
「う……うん、二人っきり……だよね」
正確には睦子さんが家にいるのだから、厳密な意味での二人っきりとは言えないかもしれないけど、それでも今はこの空間に二人っきりだ。
僕等の間にはクッション一つ分の距離が空いている。……今、そのクッション一つ分の距離がやけに遠く感じる。
今まで僕等ってなんであんなことできてたの? ってくらいに僕も緊張してきた。
……いや、緊張しているのは七海も同じ……。下手したら僕以上にきっと緊張しているだろう。
なんせもともと……七海は男の人が苦手だったんだ。今更かもしれないけど、それを意識したなら、なかなか動きづらいだろう。
ここは……僕から動かないとだめだよね。
別にそれが男の役目だとか、そんなことを言うつもりは無いけどさ。
今日、最初に勇気を振り絞ってくれたのは七海だ。だから、次は僕の番ってだけだ。
「ねぇ、七海……そっちに近づいても良いかな?」
まるで透明な板があるかのように近づけないその距離を詰める前に……僕はまず七海に確認をする。
一瞬だけ目を見開いて驚いた七海は……こくりと静かに頷いた。
「うん……じゃあ……近づくね」
ゆっくりと……小学校の時に学校で飼っていたウサギを怖がらせないよう近づいた時を思い出しながら……僕は七海の横に移動する。
移動しても僕はすぐに何か行動を起こすことはしない。七海の心が落ち着くのを待つ。
……まぁ、僕も緊張し過ぎて時間が欲しかったところなんだけどね。
部屋の中は沈黙が訪れて……でもそれが不快ではなかった。むしろ、時間が経過するにつれて僕はその沈黙をどこか心地よく感じていた。
七海もそうなのか、先ほどまでの頬の赤みは落ち着いて……表情が少しだけ柔らかくなる。
そして……その沈黙を破ったのは七海だった。
「……ねぇ、陽信。頭を撫でてくれないかな?」
ちょっとだけ七海は自分の身体を傾けて……僕の身体にほんの少しだけ自身の身体を触れさせてくる。
今までならこの距離感なら、いきなり僕の膝に頭を乗せてきたりしていたところだ。
そして……頭を差し出す様に傾ける。
「いいよ、頭……撫でて良いんだよね?」
「うん……お願い……」
僕は七海の頭に手を乗せようとするのだけど妙に緊張してしまう。……手汗とか大丈夫かな?
ちょっとだけ心配になった僕は、一度ハンカチで手を拭いてから七海の頭に手を乗せた。
七海の髪を久々に触ったけど……サラサラとしていてとても良い手触りが掌に伝わる。いつまでも触っていたい気分になってくるな。
まるで上質な布を触っているような感覚を覚えた僕は……そのまま彼女の頭を撫ではじめる。
ゆっくりと七海の頭を撫でていると……彼女は気持ちよさそうに目を細め、そして……。
「……フフフッ」
「……ハハハッ」
僕等はお互いに吹き出すように笑いだす。
七海は頭を撫でている僕の手を取ると、そのまま手をゆっくりと優しく……自分の頬に持ってくる。
「陽信……ありがとね。うん、落ち着いたよ。陽信の手って……あったかくて好き」
「そっか、それならよかったよ。僕もさ、なんて言うの……七海に言われて緊張しちゃったけど、落ち着いたよ」
実は僕はまだちょっと頬に当てられた手の温かさにドキドキしていたりするんだけど、七海が落ち着いたならそれは良いことだ。
そのまま七海は、僕の手に唇をほんの少しだけ当てて再び笑う。
僕の心臓は、ドキリと跳ね上がるようだった。
「よくよく考えたらさ、キスまでしてるのに今更だよね」
そんな風に、はにかんだ笑顔を七海は見せてきた。
いやぁ……まさか手にキス……睦子さん風に言うとチューか? されるとは思わなかった……。
あれ? 男女逆じゃないシチュエーション的に?
「……キスまでしてるって、キスは今日がはじめてじゃない。それに再スタートの日だから……緊張するのも仕方ないよ」
僕はお返しとばかりに、七海の手を優しく引くと……その掌に僕の唇を押し当てた。
七海はパチクリと目を瞬かせる。
「陽信、大胆だねぇ? 王子様ムーブってやつ?」
「いや、先にやったのは七海でしょ。……それこそ、キスまでしてるのに今更ってやつじゃない?」
「えー……今日が初めてのキスなのにー?」
「それ、さっき僕が言ったやつだね」
「陽信のも、私が言ったやつだね」
ようやく僕等の間にあった変な壁は無くなったような感覚は無くなり……僕等は笑いあう。
……そこでようやく、いつもの距離感になったような気がした。
まだちょっとだけ……ほんとにちょっとだけとぎこちない感じはするけど、それも徐々に慣れていくだろう。
なんだろうか、まだ一ヶ月しか経過してないとはいえ、付き合ってしばらく経つのに……まるで付き合い始めた頃みたいに……初々しい感じがするなぁ。
いや、あの時はいっぱいいっぱいでそんなことを考える余裕も無かったっけ?
でも正直、この感じは嫌いじゃない。
「お膝、失礼しまーす」
そんなことを考えてたら七海は僕の膝の上に自分の頭を乗せてきた。
緊張も解れて、調子が出てきたみたいだ。僕は改めて、彼女の髪に触れる。
くすぐったそうにする彼女は、自身の唇に人差し指をチョンと当てると、ほんの少しだけ艶っぽい微笑みを浮かべてくる。
「二回目のキス……する?」
まるで誘惑するようなその仕草に、僕はやっと落ち着いたと思った頬の赤みが増してきたのを自覚する。
七海も、ほんの少しだけ頬を赤くしていた。
「……唇の安売りは、感心しないなぁ」
「んー……陽信限定のバーゲンセールだよ? とってもお買い得……どう?」
……そんなことを言われて拒否できる男子は世の中にいるんだろうか? いいや、いないだろう。
「それじゃあ……ありがたく買わせてもらおうかな」
「クーリングオフはできませんよ、お客さん……宜しいですか?」
「しないよ……。あぁでも、クーリングオフするってことは……僕も唇で返さなきゃいけないんじゃない?」
「じゃあ、クーリングオフありで……」
そのまま七海は瞳を閉じて、僕に身を任せる。
……なんだろうね、告白の時は気持ちが盛り上がっていたからすんなりと言うか……できたけど……こうやって冷静になると気恥しいね。
そのまま僕は膝の上の彼女の唇に近づいていき……そして……。
僕と彼女の唇は重なって、触れ合う。
ほんの数秒だけ触れあうと、すぐに離れるのだけど……。七海の顔は目を閉じたままで、真っ赤になっていた。
「……恥ずかしいなら、誘惑するようなこと言わなきゃいいのに……もう首まで真っ赤じゃない」
相変わらず自爆するなぁ、僕の彼女。
真っ赤なままで目を開いた七海は、僕に対して照れくさそうな笑顔を向けながらポツリと呟いた。
「だって……これからもキスしたいから……。ちょっとでも慣れたいじゃない……?」
唐突にそんな可愛いことを言われた僕は……我慢できずに彼女にもう一度キスをした。
「慣れなくてもいいよ……慣れちゃったら、こういう可愛い反応が見られないじゃない」
僕からの不意打ちの三回目に対して、七海は口をパクパクとさせながら目を見開いて驚いていた。
それから真っ赤になった七海は……僕の胸を何の力も入っていない拳でポカポカと叩いてくるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます