トロイの木馬と予知姫の伝説

アグリッパ・ゆう

第1話 吟遊詩人

  吟遊詩人さん 吟遊詩人さん~

  あなたの笑顔は素敵なのに~

  歌はどうして悲しいの~

  竪琴のしらべ 胸しめつけるの~


 誰かが歌っている。竪琴のしらべにあわせて。このアポロン神殿のどこかで歌っている。

 またあの吟遊詩人が来たのかしら。盲目の、たしかホメロスと名乗っていたような。

 わたしはそっと、寝所を抜け出す。


  かげなき瞳の娘さん~

  君もいつか見る 涙の谷を~

  国を巡り 時をわたっても~

  聞くのは滅びの歌ばかり~


 最初のソプラノがテノールに変わった。

 そう、あの吟遊詩人は七色の声音をあやつる。

 年齢も、男か女かもわからない。


  だからぼくは死ねなくなった~

  海と空を渡り 時を越え~

  竪琴に乗せて 届けよう~

  滅びしものの 物語を~


 テノールが今度はボーイソプラノに変わる。歌詞のとおり、ホメロスの歌はいつも悲しい。

「カサンドラさまーァ」横合いから侍女、というより親友のマルペッサが飛び出す。「どこに行かれるのです?」

「ホメロスが歌っているわ」

「それどころじゃないんですよ。大ニュース大ニュース!」

「なあに?」

「ギリシャ軍がいなくなったんです、夜のうちに一隻残らず出て行ったんです。勝ったんですよ、トロイアは救われたんです!」


  正しいがため やさしさゆえに~

  滅んだ勇士や 姫君の~

  また名もない人の 物語を~

  忘れないでと ささやく声を~


 マルペッサに手をひっぱられるようにして、わたしは神殿の反対側、城門へ通じる広場に走る。

 ドッと喧騒が押し寄せてくる。

「やったあ、十年目でとうとうギリシャ軍を追い払ったぞ」

「トロイアはついに救われたんだ!」

「これもアポロン神とアフロディーティの女神のお加護だァ」

 口々に叫びながら、抱き合って喜ぶ人びと。


  ぼくは吟遊詩人 時空をわたる~

  竪琴のに乗せ 届けよう~

  忘れないで 忘れないでと~

  ささやく声を 物語を~


「ほんとうかしら」

 ホメロスの物悲しい竪琴の調べを後にしながら、わたしは半信半疑でつぶやく。

「本当ですとも、カサンドラさま。あの吟遊詩人の歌は気が滅入っていけません。あとで門番に、神殿には入れないよういっときます」


 ふっと、喧騒けんそうが周囲で止む。

「カサンドラさまだ、アポロン神殿の予知姫だ」

「なんとまァ、今日も禍々しいほどにお美しい」

「また不吉な予言をされるんじゃないでしょうね」

「大丈夫だ、トロイアは滅びるという予言は、完全にはずれたんだ」

「やはり気がふれているという噂は、本当だったのね」

 ひそひそと交わされる声に、マルペッサがキッと周囲を睨みつける。

 行く手で群衆がおのずと分かれる。

「カサンドラさま、気にしないで」

「だいじょうぶよ、マルペッサ。慣れているもの」


 そう。わたしカサンドラは、トロイア国王プリアモスの第二王女にして、アポロン神殿の最高巫女。幼いころから予知姫と言われていたけれど、何かにつけてトロイアは滅びるという予言をするようになって顰蹙ひんしゅくを買い、気がふれていることにされてしまったのだった。


 マルペッサに手を引かれるまま、走るように城門に急ぐ。

 巨大な城門の周りは一段と人だかりだった。みな、城門の外を指さしては、口々に声を上げている。

 ドンドンガラガラと、異様なとどろきが、城門の外から近づいて来る。

「どうしたのです?」

 マルペッサが顔見知りらしい兵士をつかまえて尋ねる。

「これはアポロン神殿のマルペッサ殿。木馬なんですよ」

「木馬って?」

「ギリシャ軍のやつら、バカでかい木馬を残していきやがったんです。アテネの女神に奉納するって張り紙して。で、寄ってたかって城門の中に引き入れているところでさア」


 木馬ー-不吉な予感が胸の内に黒雲のように沸き上がった。

「カサンドラさまー!」

 わたしはマルペッサを置き去りにして、城門の外へと全力で走って行った。

「ああーッ」

 いきなり目に飛び込んだのは、巨大な黒ずんだ木馬だった。人びとが、綱を付けてよってたかって引っ張っている。兵士らにまじって女たちも大勢いる。

「トロイの木馬!」


 そう、それは、巫女としての務めの最初の夜に、夢に出てきた木馬だった。

 夢のなかでは異国風の見慣れぬ部屋にいて、絵本というものを見ていた。

 絵本とは何か、目覚めて人に聞いてもだれも知らないのだったが、壁画を貼り付けた薄い板のようなものを何枚も重ねたようなものだった。

 その絵本に出ていた巨大な木馬が、「トロイ」を滅亡させたギリシャ方の秘密兵器なのだった。

 めざめてわたしには、「トロイ」とはここトロイアのことだと分かった。

 わたしは半狂乱で叫びだした。

「木馬が来る―、トロイアが滅びるの。大きな大きな木馬が来て、みんな殺されるのーッ」

 その日から、アポロン神殿の予知姫は気がふれているのではないかという、風聞がひろまったのだった。


「イヤあーッ、だめーッ、その木馬を入れてはだめ―ッ、トロイアが滅びる、トロイアが滅びるゥー」

 15年前のあの日と同じように、いいえ、もっと比べようもないほど絶望的に、わたしは悲鳴をあげていた。

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