モリノコエ
サヨナキドリ
緑の髪のエコー
『森では手に入る以上の物を望んではいけない』
僕が生まれて初めて森に入る、そのずっと前から言われてきた教えだ。だから、その出会いは致命的だった。
少女だった。驚くほどに白い肌の、緑色の長い髪をした少女だった。鬱蒼と茂る森の中で唯一真っ直ぐ差し込む光が、泉に片足を浸しながら一糸纏わぬ姿で眠る少女を照らしている。一瞬の間、魂を抜かれたように立ち尽くしていた僕は、我に帰ると凄まじい苦悩に襲われた。けれど、身体は反射的に少女に駆け寄っていた。
「大丈夫か!」
大声を上げて肩をゆするも、目を覚ます気配はない。僕は、自分がこれからする判断の非合理さに顔を歪めながら、バックパックを前に付け替え、空いた背中に少女を背負った。既にいつ奴らが襲ってきてもおかしくない時間になっていた。生還は絶望的だ。僕は、腰から下がる刀を抜いた。そして、柄にあるレバーに親指をかけ、前に倒した。弁が開かれ、バックパックに蓄えられた極高圧の液体窒素が柄頭から噴射され、反動で身体が浮き上がる。慣れない重心に錐揉みになりながらも、なんとか体勢を立て直し、木々を躱しながら低空飛行する。背中の少女は反射的に強くしがみついたようで、振り落とされることはなかった。
逆噴射をかけて速度を落とす。
「はは、なんとか生きてたよ」
森と村との境界に、座り込むように着地すると思わずその言葉が出た。
「もう大丈夫。ここまで来れば蟲も獣木も襲ってこないから」
振り返りながら少女に言う。少女はきょとんとした顔で僕を見つめていた。見れば見るほど美しい少女で、そして裸だった。
「ぶふっ!」
僕は慌ててシャツを脱いで、少女の肩にかけた。幸い、シャツの丈は少女には少し長く、シャツの裾からはすらっとしたふとももが伸びていた。
「どうしてあんなところにいたの?君の名前は?」
ひと段落したところで、僕は少女に訊ねた。
「なまえ……?」
少女は首を傾げながら言った。
「自分の名前がわからないのか!」
「わからない……?」
僕は驚いた。『記憶喪失』なのか?森のあんな深いところに1人でいたのだ。それくらい恐ろしい目にあっていても不思議はないが。
「……君の名前は、エコーだ」
「エコー……?」
ギリシャ神話のニンフの1人。森で出会ったこの少女にぴったりの名前だと思ったのだ。
「僕はナルセ。これからは、僕が君を守るからね」
そう言って僕はエコーを抱きしめた。
「ナルセ?……ナルセ!」
エコーの声が喜びの響きを帯びる。これが僕とエコーの出会いだった。
パァン。体長5mのザンバカマキリを仕留め、肉を剥ぎとっているときに森の中ではありえない音が響いた
(銃声!?)
全身から血の気が引く。俺は銃声の方へ向かった。
「くそ!僕がこんなとこで!」
そこにいたのは学者風の男だった。地面に尻餅をついて銃を構えていた。銃口の先にはガルム—狼型の獣木の群がいた。そのうち一匹が男に飛びかかる。
「くそー!」
ダンッ。大上段に振りかぶった刀でガルム一匹を切って捨てる。
「た、助かった…?」
その声を聞いた俺は振り返ると、男の胸ぐらを掴んだ。
「バカ!森の中で銃を使うヤツがあるかバカ!」
「なっ!僕は博士だぞ!馬鹿なはずないだろ!」
「バカだ!いいか、獣木は傷口から叫んで仲間を呼ぶんだ!匂いが奴らの言葉なんだ!」
ザッと土を蹴る音。液体窒素の噴射を回転力に変え、なぎ払う。飛びかかってきたガルムの右前足が飛んだ。
「傷口を凍らせでもしない限り、ヤツらは際限なく仲間を呼ぶぞ」
そう言っている間にも、ガルムの頭数が増えていく。
「で、でもあんたなら勝てそうじゃないか!」
「勝てねえよ。……だが、俺は生きて帰る」
そう言って俺はガルムたちを睨んだまま男に目配せした。
「バックパックの取手をつかめ」
「こ、こうか?」
男の体重が乗ったことを確認した俺は、刀を脇構えにして、噴射を全開にした。男2人分の身体が、斜め後方に一気に上昇する。
「うわあああぁああ!!」
間一髪で木々の間をすり抜けながら、俺は森の外を目指した。
「走れよバカ!」
「もう無理だ!」
弱音だけは元気に吐く男を叱りつけながら、ようやく俺たちは森の境界に着いた。
「ナルセ!」
そんな俺にエコーが抱きつく。
「エコー。ずっと待ってたのか!」
あれから5年でエコーは、更に美しい女性になっていた。
「だって、ナルセが死んじゃったら、私」
「……いつも約束してるだろ?俺は生きて帰ってくるって」
エコーの髪を撫でながら俺は言った。そこへ、杖をついた老人が声をかけた。
「よく戻ったな、ナルセよ」
「長老……すみません、今日の猟ではなんの成果も得られませんでした」
「いや、大収穫じゃよ。そこの方、お主は『旅人』じゃな?」
突然に話を振られた男がビクッとする。
「は、はい。成り行きですが」
「良いことじゃ。お主の話を村の皆に聞かせてはもらえんかの?深い森の彼方に何があるのか、皆知りたがっておるのじゃ」
アルと名乗ったその男は、確かに馬鹿ではなかった。森の向こうには村の10倍くらいの大きさの街があって、彼はそこで科学を学んだらしい。その証拠に、彼はありあわせの部品でラジオを作って見せた。いつ来るともしれない旅人からしか森の向こうの話を聞けなかった村の人間にとって、それは神の啓示にさえ見えた。
「今度は何を作っているんだ?科学者」
樽の前にしゃがみこんで熱心に何かを作るアルに、俺は言った。
「火薬だよ」
「そんなに作ってどうするつもりだ?」
振り返り、アルはにやりと笑った。
「森を焼くのさ」
その言葉に、俺は激昂する。
「ふざけるな!大変なことになるぞ!」
「火は人間の英知そのものだ。これであの獣木どもからこの地球を人の手に取り戻す!これはその第一歩さ」
「アルさん。爆弾の準備ができました」
一番の狩人ニムロデが横からいう。
「結構。あとはこの地図どおりに配置してくれ」
「おいニムロデ!あんた」
地図を受け取ったニムロデの厚い胸ぐらを掴み、ゆする。ニムロデは言った。
「ナルセ、俺はもうこんな狭い村はたくさんだ」
「さあ!世界の変革はここから始まるのだ!」
芝居がかった口調でアルが宣言し、自作のスイッチを入れる。轟音が響き、森が炎上する。
「はあっはっはっ!!」
アルが高笑いし、村の衆から歓声が上がる。
「——はっはっ…は?」
アルは気づいた。おかしい。あの程度の火薬では、ここまでの炎上は起こらないはずだ。
その時、新たに轟音が響いた。炎上する森から黒い影が浮かび上がったとき、彼らは初めてそれが咆哮であったことに気づいた。
獣木王 スルト。かつて世界を焼いた龍。
“人間は考える葦である”そんなことを言ったのはどこの馬鹿だ。ちょっと考えれば、葦の方がよっぽど狡猾だということが分かるのに。燃え盛る炎と叩きつける風が、周囲に轟音を撒き散らしている。
「連れていって」
エコーがその白く滑らかな手を伸ばす。俺はその腕を首に巻きつけると、破滅の吹き荒ぶ上空へと飛びたった。
スルトは火を吐きながら進む。山火事の範囲を広げながら、村に迫る。
俺はひたすらに空を目指した。羽撃きのたびに起こる強風に煽られながら、どうにかスルトと同じ高さまで上昇する。それはスルトの軌道が村と交錯する寸前のことだった。
「ナルセ!」
エコーが声を張り上げる。
「私を投げて!彼女に!」
はっきり言って意味がわからなかった。危険なんて言葉では足りない、必死の行為に思えた。けれど、俺はエコーを信じた。
「行ってこい!!」
スルトの鼻面まで近づいてエコーを離した。一瞬、世界から怒りの感情が消えた気がした。エコーがスルトの首にしがみつく。スルトは、火を噴くのをやめて穏やかに飛び始めた。
「まじか」
どうやら、救われたらしい。と、ふと振り返ると最悪のものが目に入った。『もうひとつのスルトの蕾』に山火事が到達しかけていた。どうにか消火しないと
「エコー、ごめん」
山火事の前線まで飛んでいく。そして、バックパックを投げ落とした。液体窒素が一斉に膨張し、一瞬だが周囲から熱と酸素を完全に奪い去った。火の消えた森に、翼を失った俺は落ちていく——
ボスン。俺が落ちた先は、スルトの背中だった。
俺が帰ると、村では宴が開かれた。村には見覚えのない、丸くて大きいものがあった。長老いわく、これがスルトの種なんだそうだ。スルトは山火事の度に目覚めて、こうして種を拡散するのだと。
「人間気取りか、エコー」
そんな浮かれた雰囲気の中に、アルは剣呑な雰囲気を纏って立っていた。
「アル、お前何を」
止める暇もなく、アルは包丁を持った右手を振り抜く。エコーの腕を刃が撫でた。だが、血は流れなかった。代わりに、金色の樹液がじわりと染み出した。
「こいつは人間なんかじゃない!獣木だ!だからスルトを御することができたんだ!」
アルが糾弾する。俺は脚から力が抜けそうになるのを耐え、エコーの肩を掴んだ。
「エコー、嘘だよな?」
その言葉に、エコーは黙って目を伏せる。振り向くと村の皆が、信じられないものを見るように取り囲んだ。
「ま、待ってくれみんな!エコーは村の仲間だろう!」
「ナルセ、お前本気で言ってるのか?」
ニムロデが言う。俺は一番近くの武器までの距離を目測で測った。
「本気でエコーを人間だと思ってたのか?」
「「え?」」
その反応に、村の皆が一斉にため息をつく。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまでとは。髪が緑の人間がいるわけないだろう」
「ま、待て!お前たちは獣木だと知った上で一緒に暮らしていたとでもいうのか!」
動揺するアルに、長老が言う。
「旅人よ。確かに獣木は恐ろしい。だが、わしらは森から離れては生きていけんのじゃ。エコーは、希望じゃよ。木々が我々に差し伸べてくれた手だと思っとる。『共に生きよう』とな」
「はい、私も、皆さんと一緒に生きたいです」
エコーのその言葉に長老はうなずくと、両手をあげて言った。
「さあ、宴を続けよう」
モリノコエ サヨナキドリ @sayonaki
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