第8話 町を散策してみよう
目の前に広がる金色の海は、たわわに実った麦の穂だった。
いくつもの麦畑がなだらかな丘にパッチワークのように連なり、その上を渡る風が波となって流れていく。
それを目にした途端、自分の中から溢れ出てくるものがあった。
パッチワーク……
クッション、テーブルクロス、ドアノブ、それとキーボードカバー……
前世の母さんは何にでも手作りのカバーをかぶせてしまう人だった……
勘弁してほしいな……まだ早いよ。
赤ん坊の僕は、ただ寝転がったまま目じりから流れ落ちて耳を濡らす涙をどうすることもできずに、それでもふいに開きかけた心の扉をなんとか閉めようとした。
僕はこの世界に来たことを後悔していないし、死んだ自分にもう一度人生を与えてくれた神さまに感謝している。
でも、残された人たちはどうだろうか? 死というものは当人というより、むしろ残された人たちの問題なのだと僕は思う。
僕が突然亡くなってしまったことを、家族は、友人はどう感じるのだろうか、それを考えると叫びたくなる。
僕はしばらくのあいだ、この光溢れる風景を前に、心の底から浮かび上がろうとする思いを抑え込むことに集中した。
少しでも油断すると押し切られてしまいそうだ。
そう、まだ早い。今はこの世界で生きることだけを考えなきゃ……
僕は頭のてっぺんに大きなスイッチを思い浮かべると、パチリと力ずくでOFFにして、大きく一つ息を吐き出した。
「ふぅ……切り替え完了。それにしても、なんて豊かな実りなんだろう」
このタキトゥス領の治世はうまくいっているみたいだね、お父さんがただの脳筋領主じゃないようで安心したよ。
カメラを手前に下げていくと、立派な石造りの壁に囲まれた城下町が見えてくる。城塞都市というやつかな。その物々しい石壁は魔物たちとの長い戦いの歴史を物語っているようだ。
町はお城がそびえる岩山を中心に、半径2キロメートルほどの半円状に広がっていてる。
石壁には東、南、西の3方向に門があり、そこから伸びた3本の大通りが中央の広場に突き当たる。
広場は色とりどりの天幕で覆われて、その間を多くの人が行き来するのが見える。どうやら
どんなものが売られているんだろう? お城の上からズームアップしてみるけど、天幕に遮られて店の様子が窺えない。
僕はマップをタップし、広場の中央に2台目のカメラを設置した。
カメラは設置した場所から自分の思い通りに動かせる優れもので、これを使えば、まるで自分が本当に市場の中を歩いているかのように周囲を見て回ることができる。感覚的にはVRゲームに近いけど、あれはあくまで仮想世界、こちらは現実の世界に飛び込めるので臨場感が桁違いだ。
買い物かごを下げて店を見て回っているおばさんがいたので、後について行ってみることにした。
さて、町の皆さんはどんなものを買っているのかな?
マイクもオンにしておこう。話の内容も聞きたいしね。
天幕の色に染まった陽の光が棚に並んだ商品を鮮やかに彩る。
品ぞろえを見ると、食料品、それも農作物を扱う店が多いようだ。
並んでいる作物は、根菜類、葉物、果実系と、種類ごとに別々の店で売られていて、前の世界のものと似たもの、例えばキュウリやジャガイモ、ホウレンソウっぽいものもあれば、まったく見たことも無いようなものも並んでいる。
そのほか、香辛料や調味料を扱う出店や、しゃもじや木の器のようなの日用雑貨、鍋や包丁なんかの金物を専門に売っている店もある。
広場の周囲には食べ物の露店もあり、なんだかお祭りのようでワクワクする。
一通り市場を見て回ったおばさんは、様々な香辛料らしきものが並べられた店の前に立つと、そこのおじさんに話しかけた。
「ピペルを一袋下さいな」
おばさんは、粒胡椒のようなものが盛られた小袋を指さしている。
「まいど、500エルだよ」
店のおじさんは色が黒くて髭が濃い。この辺りの人たちとは少し雰囲気が違う気がする、南方の人だろうか。
「おにいさん、300にならないの?」
「300? 朝から面白い冗談だねぇ! 笑わせてくれたお代だ、450!」
「450? メリーデの商人は気前が良くて男前だって聞いたのにねぇ、それじゃあただの男前じゃない?」
「おっ、お姉さんわかってるねぇ、さすがはタキトゥスの女だ、400!」
「400ねぇ……ビックリするような素敵な話があるんだけど聞きたい?」
「ビックリ? ははっ、おあいにくさま、こっちは世界中を旅してまわってるんだ、ちょっとやそっとじゃ驚かんよ」
「奇跡の聖女さま、スワニーさまのお話よ? いい土産話になると思うんだけど……聞きたくないのね」
「奇跡? 聖女さまの? それなら知ってるよ、あれだろ? お子の話だろ? 産まれたとたんにご自身の使命をお告げになられたっていう。慈愛の神、アムート様の使徒だって隣の町でも噂になってるよ、さすがの俺もあれには驚いたねぇ」
「おやまぁ、いったいいつの話をしているの? 商人にしては話の鮮度が低いんじゃない? 私が言っているのは今朝の話よ、聞きたくない?」
おばさんは少し顎を上げて、ニコリと微笑んだ。
「今朝の? ……350でどうだ!」
それを聞いてもおばさんは首を縦に振らない。両手を腰に当てて余裕の笑顔だ。
「わかった、わかりました! 300だ! 本当にタキトゥスの女は容赦ないな……」
きっとあの話だよね? そうか、こんな風に商人を媒介して噂が他の町に伝わっていくのか。マスコミやSNSがなくても結構なスピードで広がりそうだな。
それにしてもタダの噂話を値切り交渉に使うなんて、何としたたかな……
僕はこういうのは嫌いじゃない。生きいきと生活する町の人たちの姿を見ていると、思わず顔がほころんじゃうよ。
「なんと、聖女様が若返られたのよ!」
「――は? 若返られたって、聖女様はもともとお若いだろ? たしか20代の半ばだったはず?」
「それが今じゃ15、6の娘さんの姿に戻られてね。メイドさんの話じゃ例のお子と一緒に光に包まれていたって。あのお2人は神さまの祝福を受けていらっしゃるのよ」
「なんだいそりゃ……本当の奇跡じゃないか……」
「そうよ、奇跡よ。今夜はお祝いで肉料理を出す家も多いと思うの。きっとピペルも売れるわよ、いい話でしょ?」
「おっ? そりゃぁいい話だ! じゃあ、もっと小袋に分けておくか」
辺りを見回すと、そこここで同じようなやり取りがされているようで、ときおり歓声が上がったりして、とても賑やかだ。
やっぱり映像が加わると情報に熱がこもるよね。
それと、映像だとモニタリングするターゲットを絞りやすくなるんだ。
マイクだけじゃシチュエーションが分からないから、音を拾ってもはずれの場合が多くて……それに比べると随分と効率的な情報収集ができる。
僕は一通り市場を見て回ると、次は広場からお城に向かって伸びる通りにカメラを進めた。
通りは石畳にもかかわらず馬車の車輪に削られて浅い轍ができている。街並みは清潔で家々は小ぎれいに整えられているけど、こういうところを見ると古い町だということがわかる。
通りの幅は2車線の道路くらいかな、それほど広くはなくて、両側には2階建てか高くても3階建て程度の建物が、時おり横道を挟みつつ続いている。
旅行会社のパンフレットの表紙にありそうな、いかにも中世ヨーロッパでございます風なステキな街並みにテンションが上がる。
さほど大きな町ではないけど、さすがはメインストリートと言うところか、結構な数の店が並んでいる。広場に近い方から、肉屋、パン屋などの食料品の店が続き、お城に近づくにしたがって武具、服飾、装身具のようなものを扱う店に移り変わっていく。
一軒の店に入ってみることにした。
看板には鎧兜と剣がレリーフで描かれている。
そう、武具の店! これは覗かないわけにはいかないよね。
入口の扉は締まっているけど、構わずにカメラを素通りさせて中に入り、ぐるりと360度見回した。
壁際に鎧、盾、剣が並べられていて、正面にはカウンターがある。部屋の真ん中には何も置かれていないので店内は思った以上に広く感じる。
平日の午前中だからか客は一人もいないし、店の人の姿もない。
では、ゆっくりと見させてもらいましょうか。
まず、鎧を見る。とてもかっこいい……
鉄製のプレートアーマーから、チェーンメイル、革や何かの甲羅のようなもの使った部分鎧まで、見やすく展示されている。ただ、それらはすべて壁や床に固定されていて、手に取ることはできないようになっている。
この部屋はあくまで品ぞろえを確認するための場所で、実際の製品確認や調整は店の奥でするのだろう。
次に盾を見る。すごくかっこいい……
大盾、長盾から腕に装着する小型のバックラーまで、様々なスタイルのものが壁一面に掛けられている。どれも真ん中の部分は装飾がなく、つるりとしているのは、買った後で家の紋章を付けるためかな。
最後に剣を見る。超絶かっこいい(語彙力)
両手で持つ長剣に、片手でも扱えるバスターソード、レイピアに短剣、片刃の曲剣まである。
実用一辺倒の武骨なものから、装飾の施された華やかなものまで、様々なスタイルの剣が展示されている。でも、ここには日本刀は置いていないみたい、残念。
展示品を舐めるように見て回った僕は、次にカウンターの横にある入り口から奥の部屋に入ってみた。
思った通り、調整室があった。ここで武具のフィッティングをしたり、個人に合わせてバランスを調整したりするんだろう。
そこでは今まさに一人の客と店主が武具の調整をしていた。
「今度の森林探索までに間に合うかな?」
やたらと体格のいい若者が、大盾の取っ手の部分を店主に見せながら訊ねている。
「ここの調整だな? 大丈夫だ、すぐに直せる」
店主は盾の取っ手と若者の拳の当たりを確認しているようだ。
「今度の探索、大物を狙ってるんだろ?」
「うん、ルナイーさまの命名式があるからね。特別なメインディッシュを用意しなきゃ」
「そうか、そうだよなぁ、なんたって使徒さまの命名式だからな……よし、じゃあ次はいつも使っているグローブと手甲を着けて持ってみな」
店主はそういうと、後ろの壁に立て掛けてあったでっかい金槌のようなものをヒョイと手に取り、手首だけでグルングルンと回し出した。
えっ? 思わず声が出る。赤ん坊なので実際には「んぱっ!」という音なのだけど。それを耳にした乳母さんが椅子から立ち上がって僕の顔を覗き込んできた。笑顔を見せると、にっこりと微笑んで僕のほっぺをちょんちょんとつついてから椅子に戻っていった。
見た目の重量と、それを軽々と扱う様子が頭の中でつながらなくて、つい驚いてしまった。あの大きな金槌、ハリボテなの? 紙かなんかでできてるわけ?
赤子の目線から再びカメラ目線に戻してみると、グローブと手甲を装備し終えた若者が大楯を手に身構えていた。
僕はすかさず〈●REC〉ボタンを押す。
「「ドーン! ドカン! ガツン!!」」
目にもとまらぬ速さで続けざまに3発、金槌が大盾に叩き込まれる。
紙なんかじゃなかった、あれは本物の金槌だ。その振動に部屋中が揺れて、埃が舞っている。
若者はその衝撃を何事でもないかのように盾で受け止めているけど、その足元の床は一撃受けるごとにグォングォンと深くたわんで、ただ事ではない力がかかっていることがわかる。
「んー、やっぱり中指が当たってるなぁ」
「どれどれ? あぁ、なるほどな……わかった、ちょいと直してくるからここで待っててくれ」
マップに映る2人のマーカーをよく見ると、双方ともに〈身体強化〉の表示が付いていた。魔法を身に纏っていたようだ。
これがこの世界の標準か……
僕はあらためて気を引き締めなおした。
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