一歩前進
「……いろいろ世話になったわね。感謝するわ」
平野さんは、
「いや、気にしないで。というかむしろこっちがお恥ずかしいところをお見せして申し訳ない」
「そうかしら?」
そうだよ。
まあ、平野さんが決して明かしたくないであろうことを俺も知ったけどさ。おもにカバンの中に入っている本について。
痛み分け、でいいか。
それにしても──平野さんも、カバンの中にあった本から察するに、彼氏とかほしがってるんだな。割と意外だった。
普段はわりとクールな雰囲気を醸し出してるから、そういう欲とは無縁とも思ってたけど。
……胸の谷間に何かをはさんで俺をからかっていたことは、忘れよう、うん。
ま、平野さんも、ただクールなだけではなく、お茶目なところがある、ということで。
御子柴や唐橋への態度とかも含め、新しい平野さんを知れたような気がして、今日はちょっと得したかもな。
「……な、なに?」
「あ」
おっと、思わずまじまじと平野さんの顔をガン見してしまった。ごめん。
「いや、顔色もよくなったし、もう安心かなって」
慌ててごまかし。
「……宮沢殿のおかげよ、ありがとう」
「そんな大したことしてないよ」
「本当に、助かったわ。お礼に、今度牛丼おごってあげるわね」
「そこまでのこと?」
「それほどのことよ」
牛丼をおごってもらえるってこと自体はそれほど価値はないのかもしれないが、相手が平野さんなら別である。
「平野さん、本当に丼物好きなんだねえ」
「……まあ、否定はしないわ。牛丼はその中でも一番ね。最初入るときはハードル高かったけど、食べたら『なんでこんなおいしいものをいままで食べなかったんだろう』って思ったもの」
「……そっか。じゃあ、ありがたく」
義理堅い平野さんであるが、遠慮しても失礼かもしれないので、好意はありがたく受け取らせてもらおう。
しかし、生娘をシャブ漬けにするかのような戦略とはこういうことか。言葉はともかく、早い安いうまいはやはり偉大である。
「それじゃあ宮沢殿、また明日」
「あのー平野さん、いいかげん宮沢殿って呼び方、やめません? 違和感しかないんですけど」
「……じゃあどう呼べばいいっていうの?」
その場を去ろうとした平野さんが、わりとおざなりな俺の言葉に再度立ち止まって、問いかけてきた。
何となくぶぜんとした表情の平野さんが、なんかかわいく思えて。
「睦月でいいよ。普通に」
俺はつい、自然とそう答えてしまう。
「睦月ー! ちょっと混んできたから、手伝ってー!」
その時、奥からおふくろのヘルプが飛んできた。多少慌てるように店内を覗くと、確かにいろいろ大変そうに見える。
「おっとと、俺も仕事しますか。じゃあね、平野さん」
「千鶴で、いいわ」
「へっ?」
「……じゃあね、睦月くん」
「う、うん」
ほんのりと赤くなった頬がちらっと見えたのは気のせいか、それとも夕焼けのせいかわからないけど。
平野さんはそう言って、すたすたと去っていった。
ちょっとだけ、声が震えているような気がしたのも、気のせいかな。
……ま、いっか。仕事仕事。
―・―・―・―・―・―・―
「それにしても、眼鏡してない平野さん、わりと破壊力なかった?」
「そうだな」
紗英がなんとなく含みを持たせてそう言ってくるが、俺はそれを軽くいなす。
だがその言葉には同意しかない。生粋のお嬢様の素顔はいろんな面がありそうだが、なんと言うか、メガネしている女子って、外すとすっごく瞳がきれいに見えるんだよな。
メガネを外したら、どこかで平野さんファンクラブとかできそうな勢いである。
「いつでもクールな態度を崩さないと思ってたけど、そうでもなかったしね」
「そうだな」
「親しみやすい面も見れたし」
「そうだな」
「……なんかおざなりだね」
うるさいぞ紗英。おまえは何が言いたい。
「お兄ちゃんは、ギャップ萌えに弱い……と。メモメモ」
「小百合ー? 何をメモってるのかな?」
そして、どうにもわが妹はいろいろと俺のことを誤解してるような気がしてならない。
…………
それにしても、『睦月くん』、か。
ま、呼び方が変わっただけで、何かが変わるわけでもないか。
少なくとも、『宮沢殿』と呼ばれるよりははるかにいいわ。
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