春の日の死
莉菜
春の日の死
「私は、今日、異国へ旅立ちます。」
手紙は、その一文で始まっていた。
コピーされて配られたプリントを皆が黙々と読んでいる。三月の風が窓の隙間を抜けてそっと頬を撫でる。教室には静寂と、ほんの少しの紙をめくる音、そして35人の生徒と先生だけだった。
隣の席の神原くんが、嗚咽を漏らした。そして、堰がきれたように、それぞれが泣き出した。太陽が雲に隠れ、教室がかすかに暗くなった。
私は泣かなかった。
ただ、その手紙を読んでいた。
「私は地図を見るのが好きでした。他の国へ旅立つ想像をするのが大好きでした。もっと他の、大きな世界を見たかったのです。異国の言葉も通じないような人が、どんな生活をしているか、知りたかったのです。私はこんな小さい世界が、とてつもなくつまらなく思えていたのです。そう、最初はただ大きい世界を見て見たいだけだったのです。」
教室のざわめきはますます大きくなってゆく。泣いていないのは私だけのようだ。
しかし、そんなこと誰も気にしていない。
それぞれみんな、先生でさえも、目の前の現実をゆっくり消化するのに必死だった。現実を現実として受け入れるのは難しい。それでもみな、受け入れようと、頑張っている。
そんなことを思って、ふと、プリントから顔を上げた。
目があった。
振り向いた彼女は、雪奈という名前だった。彼女はクラスでいちばん、綺麗な顔をしていた。時にその顔は白い彫刻のようにさえ見えた。
そして、彼女は私の顔を見て、悲しみの塊を、瞬きとともに産み落とした。そして、これ以上悲しみをこぼすまいとして、鼻をすすりあげた。美しい彫刻から放たれたかすかな光に私は見惚れた。
それはほんの数瞬の間の出来事だったが、私にはそれはスローモーションのように見えた。
彼女はまた前に向き直り、そっと髪の毛をかきあげた。そして、その後ろ姿は何も語らなかった。
私はまだぼぅっとしたままだった。
太陽が雲から顔を出し、また教室に春の朗らかな陽光が差してきた。
私は、また手紙を読み始めた。
「私はきれいなものをみるのがすきでした。いつも写真集を図書館で借りて眺めていました。その写真集は風景の写真集だったり、かっこいい建物の写真集だったり、人物の写真集だったりしました。どの写真もきれいという言葉では表せないくらい、綺麗でした。でも、私には写真は嘘のように見えました。写真は本物の景色じゃない。レンズを通して、センサーを介して、また印刷する。偽物を私は見たのです。でもそれは美しいのです。わけもなく、心臓がどきどきして、のめり込むように見つめてしまう。それから、嘘の中にも”きれい”が存在する事を知りました。」
私は窓の外の景色を眺めた。ベランダの柵の外に広がる校庭。いくつかの遊具、そしてまた柵。それらを照らす春ののんきな太陽。冷たい三月の風。綿雲が浮く青空。それぞれが自立して春を作っていた。
でも、今教室にいる35人には本当の春はもう、二度と訪れない。外界の春は偽物。春なんて、セピア色に色あせた、遠い昔の思い出。桜色のエネルギーに満ち溢れた、あの素晴らしい季節はもう二度とやってこない。そう思った。
プリントが配られてから20分たった。だんだんすすり泣きの音が止んできた。さっきまで、何も聞こえなかった。それと同時に、廊下で、たくさんの先生らが往来する音が聞こえてきた。きっと職員室は大混乱しているはずだ。
先生がやっと顔を上げた。その目は充血していたが、もう泣き止んでいた。
三十代前半の女は、教室をぐるっと見回した。それに気づいた何人かの生徒が顔を上げた。
彼女は訥々と話し始めた。思い出したように、何人かの生徒がまた泣き始めた。教壇に立っている彼女は昨日の卒業式の時とは打って変わって、自信をなくした、ただの三十代の女になっていた。その横顔を見ると少しだけ同情心が湧いてきたので、すぐに握り潰した。彼女の顔は泣きやんだとはいえ、ギリギリの境界線に立たされているようだった。
「陽菜さんが、亡くなりました。今…読んでもらったのは…陽菜さんが…残した遺書です。…陽菜…さんは…自殺しました。今日の朝、なくなって…いるのを、発見されました…」
彼女の顔は苦しそうだった。時折、鼻をすすった。
「陽菜さんは、とても繊細で、素敵な…女性になるはずだったのです。陽菜さんが…なくなったことについて、何か心当たりがある人は、教えて欲しいです。私も…とても…重く…責任を感じています。」
彼女はそう言い終えると、ぐしょ濡れになったハンカチで顔を覆って泣き崩れた。
窓の外には満開の桜が誇っていた。
「季節は、時に私たちを取り残してしまう。そう思いました。窓の外を見れば、春景色がある。心をのぞけば、雪に覆われた寂しい偽の季節の中。本当の季節を感じられる人は羨ましい。」
彼女が見ていたのは、彼女自身の心の中でしかない。でも私は、いま、何を見ているのだろうか。この教室の風景でさえ虚構ではないと、誰が証明できるだろうか。私の止まってしまった時計は、桜に、季節の草花に取り残され、錆びて、やがて朽ちてしまうのではないか。彼女は私を時計が進まない世界に誘おうとしているのではないか。私は戦慄を覚えた。まだ私は、この世界に生きていたい。彼女のように向こうの世界に呑まれたくない。
「私は、自分を醜いと思っていました。心も体も、私を形作っているもの全てが、醜い。でも私は美しさが欲しかったのです。美しく、一輪の凛々しく輝く花になりたかったのです。」
私は思わず雪菜を見てしまった。彼女の美形は完成されているかのように整っていて、纏う皮膚は新雪のように透き通り、輝いている。まるで彼女は虚構だ。そこに確かに存在するのに、私には虚構に見える。作られた完璧さを、雪菜は持ち合わせている。
「その美しい花は虚構であってはならないのです。手で触れて、芳しい香りを鼻腔いっぱいに吸い込める美しい花でなくてはならないのです。」
泣き崩れた担任がゆっくりと起き上がった。
「一つ…言い忘れて…いました。陽奈さんの…遺体のそ…そばに…セピア色の…写真…福寿草の…写真…雪の中にさく…花…が…落ちていた…そうです。」
どきりとした。
彼女の欲しかったものだから。欲しくても、
虚構の中にしかない美しさ。
「私はどうしてこんなにも醜いのでしょう。身も心もすべて。虚構しか愛せない私は、現実に生きることができない。私はこの世界から異国へ逃げ出します。世界よ、さらば。」
遺書はそれで終わりだった。
窓の外を見ると、一面の桜吹雪だった。まるで、私たちの生を祝福するかのように。
春の日の死 莉菜 @mendako
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