第33話 止まない雨はないけれど。
雨の中、ヒロさんにおぶられている。
私はヒロさんに雨があたらないよう、傘をさす係。
お祭り気分はどこへやら。突然の雨がすべてを攫ってしまった。
でも、おぶってもらえた私はとってもいい気分かも。ヒロさんの優しさを全身で感じられるから。
「ヒロさんヒロさん」
「なに?」
「足、気付いてたんですね」
「そりゃな」
「そういうところも好きです」
「なんだよ。そういうところって」
「さあ? ヒロさんなら分かるんじゃないですか?」
私は戯けたように言う。ヒロさんだって分からないフリをしているんだからお互い様だ。
私の足が痛んでいることに気づいていながら、気づいていないフリをしていてくれたこと。さりげなく、歩調を合わせてくれていたこと。
それなのに、いざイレギュラーな状況が襲えば迷わず私をおぶってくれるところ。
ぜんぶぜんぶ、私の意思を汲み取ってくれた上での行動だ。
その優しさが、愛おしくて愛おしくて堪らない。
やっぱりこの人は私のヒーローなのだと、思いしらされる。
いつでも助けてくれる。私だけの、ヒーロー。
この前の体育祭のときも。私のピンチに、すぐ駆けつけてくれた。
お姫様抱っこは恥ずかしくて恥ずかしくて、ほんの少しだけヒロさんを恨めしくも思ったけれど。それでも嬉しさは、安心は、喜びは。そんなマイナス感情の比ではなく押し寄せてきて。
私はもう、緩んだ頬を元に戻せないくらいだったんだ。
体育祭では、ドキドキさせられっぱなしだった。
それに極め付けはその後、保険室で。
ヒロさんは私にキスをしてくれようとしていた、のだと思う。
私の誘惑に、初めて応えようとしてくれていた。
あのときは心臓がこれ以上ないくらいにドキドキ、ドキドキして。私は目を閉じていることしかできなかった。
でも、それは直前で中断されてしまった。
もし、あの続きができていたなら。
私たちはあの場所で、結ばれていたのだろうか。
そう思うと私は悶々とした気持ちを手放すことができなくて。
しかしあの後、ヒロさんから何かアクションを起こしてくれるような様子はない。
ヒロさんにはもう、その気がなくなってしまったんだろうか?
私はこんなにも悶々として、焦らされているというのに。
こうして、ヒロさんの背中にいるだけで。身体は、心は、興奮を隠せていないというのに。
ああ、ダメだ。
こんな気分になっては。
こんなふうに、ヒロさんの温もりを感じていたら。
私はもう、自分を抑えられない。
待っているだけの女の子ではいられない。
だから今まで、アピールしてきた。
でも最後にはヒロさんの決断を待つつもりだった。私を貰ってくれる、そのときを。
そんな気持ちは今、崩れ去ろうとしているのかもしれない。
好きが溢れて、止まらない。
今すぐヒロさんと一緒になりたい。ひとつになりたい。
家に着いたら。着いてしまったら。
私は、きっと————。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「よし、着いたぞー」
俺は背中のユキに声をかける。
途中から口数が少なくなったように思うが、どうしたんだろうか。
疲れてしまったんだろうか。
「下ろすぞ?」
返事はなかったが、俺はゆっくりと玄関でユキを下ろす。
ユキはしっかりと地面を捉えて立った。
かと思うと、次の瞬間。
俺はユキに押し倒されていた。
「……え?」
「ヒロさん……ヒロさん……」
何が、起こっている?
ユキが一気に、俺へしなだれかかってきて?
俺はずっとユキをおぶっていたこともあって足腰に力が入らず、ろくに抵抗できなかった。
ユキは俺の胸に両手を突いて、目一杯に体を寄せる。ふくよかな胸がむにゅんと押し当てられた。
浴衣も少し、はだけてしまっている。
そんな状況で、ユキは上目遣いを向けてくる。
「おい、ユキ……?」
ユキの吐息は荒い。
顔も心なしか赤いように思う。
まるで、熱でもあるみたいに。
もしかして風邪でも引いたのだろうか。さっき雨を浴びたから。いや、そんなすぐに発熱するなんてあり得ないだろう。
だったら、この熱のこもった瞳はなんだ。まるで、獲物を見つけた獣のような。正気を失ってしまっているかのような。
それでいて、とてつもなく色っぽい。艶かしい視線と、恍惚とした表情。
これは、そういうことなのだろうか。
いつもの、からかい混じりのものとは全く違う。
————ユキは本気で、俺に発情していた。
「……私、もう……耐えられないんです。だから、だからぁ……」
ユキの顔がさらに近づいてくる。
これは、キスだ。ユキはキスをしようとしている。
ずっと前から、ユキは俺に求めてきていて。
でも俺はそれをずっと躱してきた。避けてきた。
それでもこの前、あと一歩で自分からしてしまいそうになった。
唇と唇の、キスだ。
「はぁ……はぁ……」
ユキの熱をもった吐息が、空間を支配していた。俺まで、それに呑まれてしまいそうになる。
もう、いいんじゃないかって。
だって、俺はユキのことが好きなんだ。
当たり前だ。いつも隣にいてくれるこの子を、好きにならないなんて。そんなことあり得るわけがない。
そしてその好きな子が、こんなにも俺を、こんな情けない俺を求めてくれている。
だから、もういいじゃないか。
「ヒロさん……」
ユキの唇がさらに近づく。
永遠にも思える数秒。
少しずつ。少しずつ。近づいて……。
唇と唇の隙間はもう、1センチもない。
あと1秒もしないうちに、俺は……。
「————っやめ……ろ。ユキっ!」
直前。本当に直前で。俺は弾かれたように、ユキの身体を押し除けた。
ダメだ。ダメなんだよ。
あの時は、体育祭のときは俺も抑えられなくなりそうだったけれど。
今はまだ、ダメなんだ。だから……。
「ヒロ、……さん……」
「——っ」
言葉を紡ごうとした。ユキに納得してもらうための言葉。
だけど俺はこれ以上、口を開くことができなかった。
ユキの顔を、見てしまったから。
絶望に歪んだユキの顔を、見てしまったから。
その顔は本当に、世界から色が失われてしまったかのように思えるほどの悲嘆に満ちていて。
深い、深い、深い悲しみが、俺の心までをも貫いたように思えたから。
何かが、崩れる音がした。
道が、分岐する音がした。
こんなにも一瞬で、壊れてしまうものだったのだろうか。かける言葉さえも、失ってしまうものだったのだろうか。
俺たちの築いてきた、関係性は。
でも現に俺は、語り得る言葉を持たなかった。言葉を発する資格など、ない気さえした。
「ごめ……ごめんなさい……ヒロくん……わだっ、わたし……こんな……」
ユキの瞳から、大粒の涙が溢れる。
久しく見ていなかった、幼馴染の涙。
久しく聞いていなかった、「ヒロくん」という呼び方。
俺は言葉を持たないけれど。それでも、何かを紡ごうとした。
「ユキ……俺は……俺……は……」
「今日は、……帰ります。ごめん、なさい……」
しかしユキは俯いたまま、逃げるように玄関を出ようとする。
「おい、ユキ! ……足っ。それに、雨が!」
「気にしないでください!」
ピシャッとユキは言い放って、よろよろと去っていった。
俺は追いかけることができなかった。
今追いかけても、ユキを傷つけるだけだとわかっていたから。
外の雨は止んでいた。
楽しいお祭りだったはずなのに。
なぜ、こうなってしまったんだろう。
俺の心にはドス黒い大粒の雨が降り続いていた。
人はそう言うけれど。
俺の、俺たちの雨は止むのだろうか。
俺たちの進む先に、ぶ厚い雲の切れ間はあるのだろうか。
雨上がりの虹は掛かるのだろうか。
少なくとも今の俺には、何も見えなかった————。
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