第4話 罠

 1年がたち僕は14歳になった。


 僕は、ここ商業都市ヌベールにあるセドリックの屋敷、その執務室に呼び出されていた。

 執務机の椅子に深く腰掛け、侮蔑と憎悪の込められた瞳でこちらを睥睨するセドリックに、思わずぶるりと震える。僕はセドリックの顔を見ると、情けないが何度も何度も殴られたり蹴られたりした事を思い出し、思わず足がすくんでしまいそうになる。こんなにも酷い目に合わされて僕の方こそセドリックを憎んでいるはずなのに、それ以上に恐怖が先に来てしまい足がすくむ自分の事が酷く情けなく、惨めだった。


出来るだけ視線を合わさないように下を向いていると、セドリックが1枚の羊皮紙を差し出してきた。


「加護無しの役立たずでも出来る仕事を用意した。貴様の食費もタダではないのだ、私の役に立ってもらうぞ」


 俯き罵倒に耐えつつ、おそるおそる羊皮紙を受け取ると、それは一枚の地図だった。


 思わずため息が漏れそうになる。


 要するに、またお使いだ。

 説明を聞くと、地図の場所に行き荷物を受け取ってくる、それだけの仕事だ。でもヴァレリヤを連れていくように言われた。1人では運びきれない量ということだろうか?


「詳しい事は行けば分かる。貴様は黙って指示された場所に行けばいい」


 一応質問しては見たのだが、帰ってきたのは取りつく島の無い言葉と、苛立たし気に机をトントンと叩く音だけだった。

 仕方なく「分かりました」とだけ返し退室しようとした時だった。最近はいつも苛立たしげに激しい怒りの矛先を探していたようなセドリックが、ヌベールに来てからは見せたことの無い満面の笑顔を浮かべた。


 目の前で起こった出来事が理解できず、一瞬思考が停止する。思いがけない晴れやかな表情のセドリックに戸惑っていると、セドリックは嬉しそうな声音で告げる。


「その仕事が終わると、公都リヨンの伯爵閣下の屋敷に戻れるかもしれないのだ」


 ……今、なんていった?

 

 一瞬、セドリックが何を言ったのか理解できなかった。公都の父様の所へ戻れる? そう言ったのか? 僕も戻れるのか? 捨てられた僕が父様や母様の所へ戻れる? 認めてもらえたのか?


 様々な感情や感情が爆発的に湧いてきてぐるぐると頭の中を回る。


 そんな僕にセドリックが聞いたことも無い優し気な声をかけた。


「だから期待している。確実に役目を果たしてくるように」


 混乱していた僕は「はい」と答えるので精一杯だったが、何故か思わず半歩後ずさってしまう。目の前のセドリックは今まで見たことも無い優しげな声と表情だ、しかしその奥底に今までと変わらない憎悪と悪意が潜んでいる――そんな気がしたのだ。



◇◇◇◇◇



「アレス様、良かったですね! きっと伯爵閣下に認めてもらえたのですよ!」


 セドリックに指示された場所に向かう道すがら、ヴァレリヤは上機嫌だった。僕より数歩先行するヴァレリヤが楽しげにくるりと回り、メイド服のスカートがふわりと舞う。


「セドリックはきちんと答えてくれなかった。まだ分からないよ」

「そんな事ないです。アレス様は頑張っていらっしゃいました! セドリックも……悔しいですが優秀です。伯爵様は認めて下さったのですよ!」


 苦笑しヴァレリヤに言うが、彼女はまるで自分の事の様に嬉しそうに、誇らしげに僕がどんなに頑張っていたのかを並び立てた。恥ずかしさで思わず顔が赤くなってしまいそうになるが、同時に胸の奥からじんわりと喜びが湧き上がってくるのを感じていた。


 家族にもセドリックはじめ使用人たちにも良い感情を持ってはいないが、もしかしたらこれから良い関係を築いていけるかもしれない。ヴァレリヤにも辛い思いをさせずに済むかもしれない。


「ヴァレリヤも、今までありがとう。僕がこれまで耐えてこられたのはヴァレリヤのおかげだよ。支えてくれて、ありがとう」


 だから、自然と感謝の言葉が出ていた。

 ヴァレリヤは頬を赤らめてわずかに視線を落とした。


「……私こそ、アレス様がいてくださらなかったら、とっくに心が折れていたかもしれません。支えていただいたのは、私の方です」


 僕はそんなヴァレリヤの手を取り、両手で彼女の掌をそっと包み込むと正面からヴァレリヤの瞳をのぞき込む。今の僕は彼女への感謝の気持ちで胸にいっぱいになっていて、普段言わないような言葉もするりと口から滑り出た。


「僕にはヴァレリヤが必要だ。これからもずっと僕を支えてほしい」


 僕は役に立たない人間だが仮にも貴族で、彼女は奴隷だ。本当は人生の伴侶となって欲しいけれど、今はこれで精一杯だ。僕はこれからも彼女と一緒に生きていきたい。


 ヴァレリヤは、瞳を大きく見開くと、僕の大好きなお日様のような朗らかな笑顔で微笑んだ。そして潤んだ瞳で、一言「はい」と頷いた。



◇◇◇◇◇



 セドリックに指示されたのはヌベールの南の方のどちらかというとあまり裕福ではない市民が住む区域だった。いつものお使いは中央の商業区域ばかりだったので、この辺りに来る事はほとんど無い。そこにある武具店が支持された場所だったが……こんな所に武具店があっただろうか? ほどんと来ることはないから記憶にないだけかもしれないけど……。


 心細そうに周囲を見回すヴァレリヤと手を繋いで先を急ぐ。


 周囲を歩く人々は身なりの整った人が多い商業区域の方とは違い、服とも言えないような汚れたボロを着ているような人が非常に多い。彼らはボサボサの頭とどんよりと淀みの沈殿したような瞳で道の端に座り込み、通り過ぎる人の様子をうかがっている。なにかこちらの付け入る隙を探しているよな、そんな視線だった。


「……アレス様」


 周囲をきょろきょろと見まわすヴァレリヤが、繋いだ手にぎゅっと力が入るのが分かる。心細そうな彼女を見ていると、連れてくるのではなかった、との思いが湧き上がってくる。セドリックに連れて行くように言われたから仕方ないのだけれども……。


 何かヴァレリヤが安心するような言葉をかけなければ、と頭をひねっていると、そんな僕たちの前に3人の男が立ちふさがった。


「ようボウズ、可愛いカノジョ連れてるじゃねぇか」

「ヒュ~、まじでカワイイじゃん。そんなガキほっといて、俺達がイイ所連れて行ってやるよ」

「足腰立たなくなるまで可愛がってやるよ。ぎゃはははは!」


 男たちは、こちらをみて口々に囃し立てる。

 3人は薄汚れたボロの服を着たあまり清潔とは言えないような身なりの男たちだったが、3人とも腰に剣を差しているのが目に入ってくる。そして、真ん中に立つ1番背の高いがっしりとした体つきの中年の男がリーダー格だろうか、身なりは汚いが屋敷の騎士たちにも引けを取らないような……そんな風格をも感じさせた。両脇のニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる若い男2人は、真ん中のリーダー格の男ほどの風格は感じられなかった。


「アレス様、お下がりください」


 ヴァレリヤが僕を庇うようにそっと前に出ると、リーダー格の男がぶっと吹き出した。


「おおぉい、ボウズ。お前女に庇ってもらうつもりか? 男として情けなくねぇのか」


 その呆れたような声に、羞恥に顔が赤くなるのを感じた。そうだ、僕も男だ。大好きなヴァレリヤを僕の手で守って見せるんだ。


 ヴァレリヤをそっと制して前に出ると、ヴァレリヤが慌てたように声を張り上げた。


「アレス様! 挑発されてはなりません! 身を挺して主人を護るのもメイドの務めです。私にお任せください!」

「大丈夫だよ、ヴァレリヤ。僕だって男だ。大好きな人をこの手で護るくらいはやってみせるよ」


 喧嘩なんてしたことないけど、遠くから見ていた騎士の訓練を思い出し、腰を落として拳を構える。普通は貴族なら護身用の剣か、少なくとも短剣くらいは持たされているものだけど、当然ながら僕はそんなもの持たせてもらってない。

 

 思わず体がぶるりと震える。


 これまで兄様やセドリックに殴られたことはあったが、殴ったことは無い。それに兄様やセドリックには散々殴ったり蹴ったりされたけど、ただの虐めであって殺されそうになった訳ではない。ところが、ニヤニヤと笑う男たちに囲まれた今、命の危機という言葉が脳裏をよぎっていた。足がすくみ、体が重くなったように感じる。でも、後ろを振り返りヴァレリヤの顔を見ると、胸が温かくなり勇気が湧いてくるような気がした。


「お前らは手を出すなよ、俺が相手してやる」

「ゲルトの兄貴がわざわざ相手するまでもねぇんじゃねぇスか?」

「ハッ、仕事だからな。念のためだよ」


 余裕からか、連れの両側の男を下がらせる、ゲルトと呼ばれた中央の中年男。あいつだ、あいつさえ倒せば隙が出来るはずだ。


「や……やああぁぁぁっ!」


 勇気を振り絞り足を踏み込むと、思いっきり右拳を振りかぶりゲルトに殴りかかる。右拳をゲルトのお腹に向けて殴り付ける――


「あうっ?」


 伝わってきたのは大きな岩を殴ったような手ごたえと、衝撃で跳ね上げられた拳とそこから伝わってくる痛みだけだった。

 ゲルトの口角がにいっ、と吊り上げられ、その右拳がゆらりと振上げられる。


「痛てぇが、我慢しろよボウズ」


 ――殴られる、そう思った瞬間


「アレス様!」

 

 ヴァレリヤの叫び声と共に、たんたんっとリズムの良い音が響く。


「獣人国東の族長ガヴリーロヴナ・カリャーギンが娘、ヴァレリヤ・カリャーギン! 行きます!」


 その瞬間目に飛び込んできたのは、メイド服をたなびかせゲルトの背後に大きく飛び上がったヴァレリヤだった。その健康的なすらりとした右脚が振り上げられ、ゲルトに向かって振り下ろされた。


「甘ぇよ」

「……なっ!」


 ゲルトは結構な勢いと力が乗っていたはずのヴァレリヤの右脚を右手で無造作に掴むと、こともあろうに片手でヴァレリヤをひょいと吊り上げて見せた。

 当然ヴァレリヤは逆さに宙づりにされメイド服のスカートはめくりあがり、その下の純白の下着が露になった。


「おー、いい眺めじゃねぇか」

「このっ……は、離しなさいっ!」

「ヴァレリヤを離せ!」


 ニヤニヤとヴァレリヤの下着を覗き込むゲルトに、宙づりのままのヴァレリヤの左脚や拳が叩き込まれる。僕もヴァレリヤにいやらしい目を向けるゲルトにかっと血が上り、そのお腹に殴りかかった。


 ――しかし


「どうして!?」


 そう、ゲルトはニヤニヤとヴァレリヤの下着を鑑賞しているだけで、全く堪えた様子がない。僕はともかく、ヴァレリヤの脚や拳は結構な強さで叩き込まれているはずだが、全然効いていないっ……!


 どうして、どうしてここまでの力の差があるんだ?


「そんなもん効かねぇよ。何故ならな――」


 ゲルトがヴァレリヤを掴んだままの右手を大きく振り回す――それはいくらゲルトが体格が良くヴァレリヤが華奢だとはいえ、人間が大人の人間1人をまるで小動物か何かの様にぐるぐると振り回す、信じられない光景だった。 


「きゃあああああああっっ!」

「ヴァレリヤーーッ!」


 ゲルトはそのままヴァレリヤを頭上で円状に何回かぐるぐると振り回した。そしてそのまま手を離すと、ヴァレリヤはそのままものすごい勢いで飛んでいき壁に激突する。老朽化し崩れかかっていた壁が衝撃で崩落し、がらがらと崩れ落ちる石材に巻き込まれて崩れ落ちたヴァレリヤは、気を失ったのかぴくりとも動かない。


 よくもヴァレリヤを、とゲルトを睨みつけようとした僕の目に飛び込んできたのは信じられない物だった。


「こういう事だからだよ」


 ゲルトの右拳に浮かび上がるのは、盾をもつ女神様を模った光り輝く文様――天空と憤怒の女神プロテウス様の聖印だった。


「加護持ち……」


 知らず、数歩後ずさってしまう。


 子供と大人の、華奢な女性と大柄な男の違いがあるとはいえ、信じられないほどの力の差があったのはこういう事か……。加護持ちで女神様の祝福があったからか……。


 目の前でゲルトが拳を振りかぶるのが見えるが、僕の頭はぐるぐると様々な感情がうずまいていた。


 加護……、また加護……。


 どうして、どうしてなんだ。

 どうしてこんな事になるんだ。どうして加護をもっている奴はこんな奴ばかりなんだ。僕やヴァレリヤがこんな酷い目に合うのは、女神様の意思だとでも言うのだろうか? なにか女神様に嫌われることをしたのだろうか? どうして世界はこんなにも残酷なのだろうか?


「悪ぃな、ボウズ」


 ゲルトの拳が振り下ろされ、僕は気を失った。

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