第2話 ヴァレリヤ1

 ヴァレリヤと初めて会って2年。


 僕は12歳になっていた。

 その日僕は家令に指示された買い出しを済ませて、帰るところだった。

 家族からの僕への罵倒と冷遇は今も続いている。そしてとうとう、家令や執事といった使用人までも、伯爵家の次男である僕のことをまるで従僕かなにかの様に扱うまでになっていた。


「……帰りました」


 屋敷の裏口から入り、父様の執務室の隣にある家令の執務室に入る。


 入ると、奥の執務机で書類に目を通していた20代半ばの皴ひとつないベストとスーツを身に着けた鋭利な眼差しの青年が、ぎろりとこちらに目を向けた。家令のセドリックだ。まだ若いが非常に優秀らしく父様の執務の大部分を代行しているというし、しかもウェイトリー家に仕える使用人の中で唯一の加護持ちということで父様や兄様の信頼も厚い。


「遅い。いったい何をやっていたのですか。加護無しの落ちこぼれはお使いひとつ満足に出来ないのですか?」

「……すみません」


 舌打ちをする家令に対して、思わず謝ってしまう。

 どうして僕は使用人にこんな態度を取られて頭を下げているのだろう?


 胸がぎゅっと締め付けられ、頭がきりきりと痛む。視界が急速に狭くなるような感覚と目の前のセドリックが遠ざかっていくような感覚が襲ってくる。どうしてこんな事になっているのだろう。

 

 この国では加護持ちと言うのはそれだけで尊敬され、重く用いられる。それは女神様に認められ信用された人物である、という事を意味するからだ。セドリックは加護持ちで僕は加護無し。その事実は、使用人が主人の子供に対してこんな態度を取ることを許容していた。


 つまり、今僕がこんな目にあっているのは、女神様の意思だとでも言うのだろうか……?


 女神様は慈愛に満ちた素晴らしい方達だと教会の司教様は言うけど、女神様がこの加護持ちが優遇されて加護無しが迫害される世界を作ったというのだろうか……?


 セドリックは再び舌打ちをすると、苛立たしげに指で机をトントンと叩く。


「チッ、まぁいいです。所詮落ちこぼれ、期待した私が悪かったという事でしょう」


 顎で出ていくよう指示され、「失礼しました」と執務室を退室する。


 はぁ、と思わず漏れる溜息。

 そこへ、新たな声が掛けられた。


「ようアレス、相変わらず辛気臭い顔してんなぁ」

「兄様……」


 兄のエミリアンだった。

 僕と話すときは常にイライラと苛立たしげなセドリックと比べ、兄はいつもニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて楽しそうに僕をからかうのだ。


「昨日も父様と一緒に社交に出てたからな。色々な貴族家の方を覚えないといけないし、話題に困らないよう勉強しないといけない事もたくさんある。本当に大変だよ。社交になんか出ずに使い走りばかりしてる誰かさんが羨ましいよ」


 この1年で急速に背が伸びた兄様は、完全に僕を見下ろすような形でいつものニヤニヤとした薄笑いを浮かべる。


「……」


 僕は俯いて拳をぎゅっと握りしめるだけで、何も言葉を発せなかった。

 だが、兄様はそれが面白くはなかったようだ。兄様が振り上げた右腕を振り下ろした時、ぱしんと音が響き、僕の左頬にじんじんとした痛みが広がってくる。


「なんとか言えよ、出来損ない」


 それほど力を入れて振るわれた訳ではない。それほど痛いはずは無いのに、左頬のじんわりと広がる痛みは耐え難い痛みの様な気がした。こういう時の兄様は言うことを肯定しても否定しても、火に油を注ぐ様なもので再び罵倒の言葉を放ったり今の様に手が出たりするのだ。

 

「ちっ、もういいよ。言い返す根性も無いのかお前は」


 舌打ちをして踵を返す兄様。


「あの魔物臭い女中と仲良くやっているのがお似合いだよ、お前は」


 まただ、またそんなヴァレリヤの事を魔物臭いとか悪口をを言う。何かひと言言ってやらねば、そう思い口を開きかけたがその時、兄様は廊下の角を曲がって

消えていった後だった。

 はぁ、と息を吐く。

 何か言ってやれなくて残念、という思いとどうせまた叩かれるのだし何も言わずに済んで良かった、という思いがごちゃまぜになって濁流の様に僕に襲い掛かってくる。


 ……みじめだ。


 胸がぎゅっと締め付けられ、頭がきりきりと痛む。


 僕と彼女は最近ずっとこの症状に苦しめられていた。父様とか母様にも相談したが、特に見て分かるような症状は無い、という事で相手にしてくれなかった。でも、まぁ、僕はそれでも構わなかった。なぜかは分からないけど僕は彼女に会っている間はあの頭痛を忘れられるし、それは彼女も同じらしいのだ。僕と彼女の間にこんな共通点があり、そしてお互いの存在がお互いの支えになっていると感じられるのは、こんな境遇にあっておかしいと言われるかもしれないけど、なにか確かな繋がりがそこにはあるのだと感られて僕は嬉しかったのだ。


 自室に着き、ドアノブをひねる。もう頬は痛くはなかった。



◇◇◇◇◇



「アレスさま!」


 ドアを開け自室に入ると、奥のソファーに腰掛けぼーっと天井を見上げていたヴァレリヤがぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。

 そのままぱたぱたと駆け寄ってくると、僕をぎゅっと抱きしめる。6歳年上のヴァレリヤは僕よりずいぶん背が高く、正面から抱きしめられると僕の顔は彼女の豊満な胸に押し付けられるような形になる……。


 ヴァレリヤの胸の柔らかさとほのかに漂う良い匂いに、思わず顔が紅潮しどきどきと鼓動が早くなるのを感じる。彼女はいつもこんな感じで、僕とスキンシップを取ろうとしてくる。もちろん僕も嬉しいしヴァレリヤの事をもっと知りたいと思うが、顔が赤くなってしまうのはどうしようもない……。


「アレス様、エミリアン様やセドリック様に酷い事されませんでしたか?」


 ヴァレリヤは僕の頭を優しくなでながら、問いかけてくる。

 彼女に撫でられるのは、ぽっかりと穴が開いていたような胸の奥が温かいもので満たされていくような気がして大好きだ。だけど、ヴァレリヤの優しげな眼が泣き腫らしたように赤くなっているのと、頬が赤く腫れているのが気になった。


「ヴァレリヤ、もしかして侍女たちに酷い事された?」


 問いかけると、ヴァレリヤは一瞬辛そうな表情を浮かべたが、「心配ありませんよ」と優しい笑顔を浮かべると再び僕の頭をなでた。


 ヴァレリヤはメイドの中でも地位の低い女中だ。しかも獣人の国出身の奴隷で使用人としての教育などは何も受けてはいない。上級使用人である侍女は下級貴族や大商人の娘であることが多いので十分な教育をされているし、下級使用人である女中もたいていは両親や親族など身近に使用人をしている人がいることが多く、ある程度の下地が出来てから雇われることが多い。そんな彼女たちと比べるとヴァレリヤが満足な仕事が出来ているとは言い難い。

 ならば誰かがちゃんと教えればいいのにと思うのだが、ヴァレリヤが獣人で奴隷という事でどのメイドも彼女にいじめのような酷い扱いをするばかりで、仕事を教えようとする人は誰もいなかった。


 何度かヴァレリヤの状況を改善しようと頑張ってはみたのだが、父様も母様も僕の話など聞いてはくれないし、使用人側に訴えようにも全ての使用人を監督しているのは家令であるあのセドリックだ。僕のお願いなど聞いてくれる訳がない。


 そんな僕の考えが表情に出ていたのか、ヴァレリヤの僕を抱きしめる腕にぎゅっと力が込められたのが分かる。


「わたしは大丈夫です。お優しいアレス様がいてくださるだけで、わたしは幸せです。わたしの為に無理をするのはおやめ下さい」

「そんなこと言わないでよ。僕もヴァレリヤがいてくれるだけで救われてるんだ。そんなヴァレリヤに僕も何かしてあげたいんだ」


 ヴァレリヤの細く柔らかい腰におそるおそる腕を回し、抱きしめ返す。ヴァレリヤの肌は日焼けして健康的で僕の方がよっぽど色白だったのだが、彼女の肌はきめ細やかで美しく、僕なんかが触れると壊したり穢したりしてしまうのではないか、という気にさせられた。


「アレス様、またなにかお話をさせていただきますね!」


 ヴァレリヤは僕の体をくるんと180度回転させると、僕の体を抱えたままソファーに腰を下ろした。すると、僕はソファーに座る彼女の上に腰掛ける形になる。そしてヴァレリヤが背中から僕を抱きしめる。ここ最近、ヴァレリヤとお話しする時はこの体勢でいることが多い。

 背中越しに感じる彼女の胸のふくらみや息づかいと、ほのかに感じるいい匂いに胸の鼓動が早くなり顔が赤くなるのを感じる。最初は恥ずかしいので少し抵抗したのだが、ヴァレリヤがこの体勢にこだわったのと僕も恥ずかしいけど嬉しかったので、この体勢で過ごすことが多くなったのだ。


「今日はなんのお話をしましょうか?」


 獣人の国出身の彼女は僕の知らない色々な話をしてくれた。

 

 族長をしているという彼女の勇敢な父親、今代の獣人の王、窮地に陥った獣人の国を救った英雄王、そして獣人の国を建国した建国王。特に彼女は英雄王の話が大好きだった。今から100年ほど前、活発化した魔物と周囲の国から仕掛けられた戦争によって、国土は蹂躙され多くの獣人が捕らえられ奴隷となりほとんど国としての体をなしていなかった獣人の国。そこに立ち上がり我の強い族長たちをまとめ上げ魔物と敵国を打ち破った英雄王。亡くなったときは国を挙げて壮大な国葬が行われたという。


「英雄王の話がいいな」


 英雄王の話をする時のヴァレリヤは非常に楽しそうで、僕の方まで幸せな気持ちになれるのだ。


 分かりました、とヴァレリヤはこほんと咳払いをして話し始める。

 奴隷だった若い頃の英雄王が攻め寄せてくる魔物を次々とその類稀な剣技で斬り伏せ、自分を隷属させていた人族や見下していた他族の獣人を認めさせ、成り上がっていく物語。


 何度も聞いたその話をどこか誇らしげに語るその声に耳を傾けていると、ヴァレリヤの猫みたいな尻尾がくるんと僕の腕に巻きついてくるのを感じる。彼女は無意識らしのだが、今みたいに抱きかかえられて話をしていると、いつの間にか尻尾が腕に巻きついて来るのだ。


 その毛並みの良い尻尾を毛並みに沿ってそっと撫でると


「……ん」


 ヴァレリヤの口から甘い声が漏れる。


 美しい毛並みを、先の方から根本へ向かって優しく撫でる。根本はスカートの中にあるので触ることは出来ないが、手が届く範囲で根本の方まで優しく優しく。


「……あふぅ」


 いつからだっただろう。抱きかかえられて話をしている時、腕に絡められた彼女の尻尾を撫でるのが習慣の様になってしまった。優しく撫でてあげるとヴァレリヤは切なげな吐息を漏らす。別にいやらしい事はしていないはずなのだが、その吐息は淫靡な雰囲気がして、どきどきと鼓動が早くなりいつの間にか話の内容より尻尾を撫でる事で頭がいっぱいになってしまう。


「……その時……んっ、……英雄王の仲間たちは……はふぅ……」


 そうなる頃には、ヴァレリヤの語り口も途切れ途切れになって来るが、僕も彼女もあんまり気にならなかった。自分たちが尻尾とそれを撫でる手の平になってしまったかのような気持ちになり、それをいつものように夜遅くまで続けてしまうのだ――

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