第三十六幕 野獣の群れ

「……!! 何だ、何事だっ!?」


 まず最初に気付いたのはイゴール軍であった。突如現れた大軍勢が地鳴りのような馬蹄の音を響かせながら、雪崩を打って戦場に駆け下りてきたのだ。奴等が最初にターゲットにしたのは……自分達に背を向けている形のイゴール軍であった。


 シュテファンの部隊と一進一退の用兵戦を繰り広げていたジェイラスは、突如背後から聞こえてきた混乱の音に振り返る。そこでは既に自軍の後陣が、何者かの軍勢によって攻撃を受けて大混乱に陥っている状態であった。


「申し上げます! トリスタン軍です! トリスタン軍が現れました! 凄まじい勢いで我が軍を後方から食い破っています!!」


「な、何だとぉっ!!? トリスタン軍……!?」


 伝令の報告に絶句するジェイラス。目の前の強敵に集中する余り、未だに戦場に現れていないトリスタン軍の事など完全に忘却の彼方にあった。そのツケ・・が今、現実の脅威となって彼等に猛烈な勢いで迫って来ていた。


 トリスタン軍を迎撃しようにも現在進行形で強敵であるシュテファンの部隊と激闘を繰り広げていた所で、さしものジェイラスも軍を即座に効率的に旋回させる事はできない。そもそもトリスタン軍を迎撃しようとすれば今度はシュテファンに背中を晒すことになる。


 それはサディアス軍と戦っているアドリアンの部隊も同じ状況であった。結果として彼等イゴール軍は前門の虎と後門の狼によって挟撃される形となり、態勢を立て直す暇もなく戦線を崩壊させていく。


 トリスタン軍の餓えた獣のような勢いに耐え切れず、遂にアドリアンの部隊が壊滅。軍師のアドリアンや彼に追随していた将達は、野獣の群れに呑み込まれて一溜まりも無く轢き潰されていった。そして総大将であるジェイラスの部隊にも……



「オラオラオラァッ!! てめぇが総大将だな!? 俺様はバルタザール!! トリスタン軍の【人間破城槌】とは俺様の事よ! そのそっ首頂いたぁっ!!」


「……っ!」


 ジェイラスのいる本陣に雪崩れ込んできた敵軍の先頭にいる、優に2メートルを超える縦も横も尋常でない厚みの大巨漢が、外見通りの野獣じみた咆哮を上げながら突撃してきた。


 バルタザールはその異名に相応しい巨大な戦槌を、まるで軽い棒切れであるかのように振り回して間に立ち塞がる兵士達を蹴散らしながらジェイラスの間近まで迫ってきた。


「ちぃっ!!」


 ジェイラスは咄嗟に剣を抜いて応戦するが、白兵戦でも充分に優れた武芸の腕を持つ彼の反撃を剣ごとバルタザールの戦槌が砕き割った。


「……!!」


「死ねやっ!」


 バルタザールが戦槌を横殴りに振るう。恐ろしい速度で振り抜かれた凶器はジェイラスの側頭部を直撃し、兜もろともその頭蓋を粉砕した。



「はっはっはぁっ!! 敵将、このバルタザール様が討ち取ったぁぁぁっ!!!」


 勝鬨をあげる魔獣。それに応えて周囲の賊軍も気勢を上げる。対照的に軍師と総大将を失ったイゴール軍は完全に瓦解。散り散りになって遁走していく。


 この思わぬ敗戦で大きな痛手を負ったイゴール軍は、後にトランキア大戦を制したマリウス軍の侵攻によって完全に滅亡する事になるのだが、それはまた別の話。





「……!! イゴール軍が壊滅したか。まさかこの局面でトリスタン軍が現れるとはな。私も覚悟を決めねばならんか。……レア、馬鹿な事は考えるなよ」


 目下の敵であったジェイラスの部隊が、突如現れたトリスタン軍の奇襲によって蹂躙され壊滅した事を見て取ったシュテファンが苦い顔で唸る。敵の勢いは凄まじく、数が多い事もあって彼の部隊だけでは正直防げる自信はなかった。いかに優れた用兵家であろうとも、いや、用兵に優れているからこそ冷静にそれが判断できてしまうのだ。 


 だがここで彼を助けようともし君主であるディアナがこの野獣の軍の前にその身を晒すような事態になったら、最悪ディアナ軍全体がイゴール軍の二の舞になりかねない。クリストフが止めてはくれると思うが、あの義妹は時に考えられないような無茶をするので、それだけが気掛かりであった。




 一方でそのディアナ軍本陣。トリスタン軍出現とイゴール軍壊滅の報を受けてディアナはその白面を更に青白くさせて、唇を破れんばかりに噛み締めていた。放っておけばそのまま義兄を助ける為に単身で本陣を飛び出していってしまいそうな勢いだ。


「……ディアナ様、ここであなたが直接救援に赴いても大勢を覆す事は難しいでしょう。それどころかあなたが危険に晒されれば、今のラドクリフ軍と同じく我が軍の士気そのものが維持できなくなってしまいます」


 本陣に随伴しているクリストフが慎重な口調でディアナを宥める。彼女は激情を孕んだ瞳で、しかしそれを抑え込むように頷いた。


「解っています。今私が出て行った所で兄上のご迷惑になるだけです。いえ、兄上だけでなく我が軍全体にも悪い結果しか及ぼさないでしょう」


 それは充分よく解っていた。彼女とていつまでも昔のままではない。激情に任せた猪突猛進で周囲に迷惑と心配を掛けてきた経験が、彼女を辛うじてこの場に押し留めていた。



 だがだからといってこのまま何もしなければトリスタン軍によって戦場は滅茶苦茶に荒らされ、シュテファンは確実に討たれ、その他の味方も大きな被害を受ける事は避けられない。


 しかしディアナ軍は援軍として駆け付けてくれたアーネストの部隊も含めて既に限界まで稼働しており、これ以上伏兵も無く、また新たな敵に対処するだけの兵力は逆立ちしても出てこない。


 正確には本国にはドゥーガル将軍と彼が率いる守備隊が残っているが、アーネストがその一部を率いてきた事もあって流石にこれ以上守備隊の戦力が減じれば、ガルマニア州など今回の戦に参加していない諸侯達の格好の的となってしまう。


(だったら……上手く行くか分からないけど、賭け・・に出るしかない。向こう・・・条件・・は同じだから乗ってくる可能性はある)


 実は彼女の頭には、この状況を唯一覆せるかも知れない策が浮かんでいた。しかしそれはかなり大胆な策であり、危険な賭けでもあった。



「クリストフ様、すぐに伝令を……いえ、使者・・を用立てて下さい。戦場・・を駆け抜ける事になりますので、なるべく腕の立つ人をお願いします。後は書簡をしたためますので、その準備も急ぎお願いします」


「使者、ですか? 書簡? そして戦場を駆け抜け…………ッ!! ま、まさか……ディアナ様、あなたは……」


 流石にクリストフはたったこれだけで、彼女が何をしようとしているのかを察したようだった。ディアナは頷いた。



「ええ、お察しの通りです。……使者を出す先は、サディアス軍の本陣にいるサディアス本人・・・・・・・です」



「……!!」


 クリストフは再び絶句してしまう。だが彼の明晰な頭脳はすぐに冷静な判断を下し、この現状を打破するにはそれしかないという事を理解した。そして彼は苦笑しつつかぶりを振った。


「ふ……全く、本来は軍師たる私があなたにご提案しなければならない所を……軍師形無しですね。畏まりました。それではせめてどちらも迅速に準備させますので、しばしお待ちを」


 彼は急いで本陣の天幕を後にし、ディアナの策を成就させる為の準備に奔走する。それを見送りながらディアナは決意と激情に燃えた瞳で周囲の敵軍を見渡す。


(私は……私達はこんな所で終わったりはしない。どんな手を使ってでも必ずこの戦に勝利してみせる。ルード……私に力を貸して!)


 彼女はこの戦の発端となってしまった少年の顔を思い浮かべながら、そう強く念じるのであった。

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