第三幕 吟遊詩人
「ふぃー……ま、今日はこんな所かな?」
そろそろ夕刻に差し掛かろうかという時刻。スラム街の外れでヘクトールがようやくこの日の『視察』の終了を宣言する。彼の勢いに終始振り回されっぱなしだったディアナは大きく息を吐きだした。
「や、やっとですか……。お、お疲れ様でした、ヘクトール様」
彼のバイタリティは相当な物で、今日だけで何十人の筋者を殴り倒したか解らない程だ。しかし一日彼と付き合ったが、結局エヴァンジェリンの刺客と思しき者は現れなかった。
(……まあそうそう上手くは行かないわよね。もしかしたらまだ慎重に機会を窺ってるのかも知れないし)
彼女の中ではエヴァンジェリンから刺客が送られているというのは、ほぼ確定事項となっていた。しかし今の所、現れる気配がない。
「さ、さあ、そろそろ陽も落ちてくる時間ですし、今日はもう宮城に戻りましょうか」
今日は外れだったと判断したディアナは、まだ微妙に暴れ足りない様子のヘクトールを促して帰路に着く。しかしいくらも歩かない内に……
(……! あれは……弦?)
やや広くなっている通路の民家の壁に木箱が置かれており、その木箱に腰掛けて壁にもたれ掛かっている1人の男性がいた。外套を纏っているが線の細い若者のようだった。
しかしディアナはその若者が隣に立て掛けてある、特徴的な
それは大きめの弦楽器であった。
帝国でも帝都のシャリーア宮やその他大きな都市の宮城、そして大商人の邸宅で催される宴会など、様々な場面において楽士達の需要はある。勿論平時である方がそうした催し物の機会は多いので楽士達の実入りもよく、専属の楽士は大勢存在していた。
しかし戦乱の機運が高まるにつれて一部の裕福な為政者や商人くらいしか需要がなくなり、食べていけなくなった大勢の楽士達が廃業に追い込まれた。
だがこうした楽士達とは別に、帝国では主に庶民を相手に酒場や広場などで歌や音楽を披露して手捻りを貰う、いわゆる『吟遊詩人』と呼ばれる旅の楽士達が存在していた。
彼等は諸国を漫遊しながら、様々な街の酒場や広場で音楽活動を行う。宮廷に召し抱えられるような楽士達は彼等吟遊詩人の事を基本的に軽蔑しているが、吟遊詩人達は各地を旅して様々な事柄を見聞している為に博識な者も多く、また聴衆の興味を惹きやすい旬の話題を詩にする為、庶民にとっては遠く離れた街や県の噂話や戦の結果などを知る事の出来る貴重な情報源として重宝される事も多かった。
視線の先にいる若者は雰囲気からして旅の吟遊詩人という感じだ。ある程度まで近づくとディアナは若者に会釈した。すると若者がこちらに振り向いた。
「……!」
その瞬間ディアナは肌がざわつく感触を覚え緊張を高めた。吟遊詩人の男から研ぎ澄まされた闘気のような物が発散されたのだ。
それはほんの一瞬の事であったが、ディアナはこれまでに多くの戦場や戦闘を経験してきた事で武人の勘のような物が培われていた。その感覚に男の闘気が反応したのだ。
「ディアナ、俺の後ろに来い」
そして当然ディアナより遥かに優れた武人であるヘクトールはより鮮明に男の闘気を感じ取っていたらしく、それまでの陽気さが鳴りを潜めて、歴戦の戦士の顔となって男に警戒した視線を向けていた。
一瞬感じただけだが、男が発散した闘気は相当な鋭さであり、それは最早
吟遊詩人は街から街へ旅をして、時には詩の題材を求めて治安の悪い地域や戦場となっている地域に赴く事も多い。またそうでなくとも街道を旅していれば盗賊や獣に襲われる危険は常に隣り合わせだ。
その性質上、吟遊詩人は腕に覚えのある者が必然的に多くなる傾向が強かった。しかしそれでもディアナだけならともかく、一瞬でヘクトールにまで警戒を抱かせるとは並大抵ではない。
(まさか……エヴァンジェリンの放った刺客!?)
その可能性はかなり高い。当然君主であるディアナを暗殺しようと思えば、相当に腕前が立つ刺客を送り込んでくるはずだ。このタイミングで目の前に現れたのはいかにも怪しい。
吟遊詩人の男はディアナ達の反応を見ると、フッと笑みを浮かべて木箱から立ち上がった。立ち上がるとかなり背が大きい事が解った。上背だけならヘクトールといい勝負だ。だが彼に比べると線が細い印象であった。
その印象通りの面貌は、本当に吟遊詩人なのだとしたら恐らくかなり女性に人気があるのではないか。そう思わせる整った造りであった。
立ち上がった男は外套の埃を払うと、優雅な仕草で一礼した。
「これはこれは美しいお嬢さん。この辺りはあなたのような可愛らしい女性が散策するには少々物騒な場所ですよ? いくら頼もしそうなお連れがいらっしゃるとは言え、世の中絶対という事はあり得ませんからね」
外見通りの声と口調だ。だがディアナは全く気を抜かなかった。
「ご忠告感謝します。確かに危険かも知れませんね。それで……あなたはどうしますか?」
敢えてやや挑発気味に問い返すと、男は肩をすくめた。
「私ですか? 私はここであなたのような女性と出会えた幸運を噛み締めつつ、あなたに捧げる詩を考える事にしますよ」
何とも人を食った男である。これが演技だとしたら大した物だ。ヘクトールが額に青筋を立てる。
「おい、お前! さっきから馴れ馴れしいぞ! この方をどなたと心得る! このフィアストラだけでなくソンドリア郡全体を治めるソンドリア公のディアナ様だぞ! 軟派な吟遊詩人風情が図が高いわ!」
彼の一括に男はスッと目を細める。ただしそれはヘクトールの物言いに怒ったからではない。男は興味深そうに自分の顎を撫でる。
「ほぅ……では貴女が噂の【戦乙女】ですか? これはこれは……」
「貴様……今、ディアナの名前に反応したな? エヴァンジェリンの刺客か?」
男の思わせぶりな態度にヘクトールは警戒を強めて、さりげなく戟を持ち直す。しかし男はそのヘクトールの動きにすぐ気付いたようだ。苦笑してかぶりを振る。
「やれやれ、怖いお人だ。もう少し貴女と語らいたかった所ですが、どうもそういう雰囲気ではないようです。怪しい者は大人しく退散する事に致しましょう」
吟遊詩人の男はそう言って踵を返す。ディアナ達はそれでも警戒した視線を彼に投げかけていたが、ふと立ち去りかけていた男が首だけこちらに振り返る。
「そうそう、つい先だって何やら怪しい
「……!」
ディアナはそれを聞いてピクッと眉を吊り上げる。いや、ただ思わせぶりな事を言ってこちらの注意を自分から逸らさせようという作戦かも知れない。
だが男は結局それ以上剣呑な動きをする事もなく、こちらに会釈してから弦を手に取って歩き去っていった。
ディアナ達はその背中が通りの向こうに消えて、男の気配が完全に消失したのを確認してからようやく緊張を解いた。
「ふぅ……エヴァンジェリンの刺客だったと思いますか?」
「解らん。ただあいつ、相当やるぞ。まともに戦ったら俺でも簡単には勝てんだろうな。只の吟遊詩人じゃないのは確かだな」
「そ、それ程でしたか……」
予想以上の評価に目を丸くする。ヘクトールがこう言うからには、あの男は恐らくディアナなどよりも遥かに強いのだろう。自分が1人でいる時にもし襲われていたらと思うと、今になって背筋が寒くなった。
「ま、何にせよあんな奴がうろついてるんじゃ、お前にどんな危険があるか解らん。さっさと帰るとしようぜ」
同じ事を思ったのかヘクトールがディアナの安全を重視して帰参を促す。
「そ、そうですね。そうしましょうか……」
その意見には賛成だったので彼女もうなずいて、ヘクトールに送られながら宮城への帰路に着くのであった。
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