第二十九幕 毒婦エヴァンジェリン

 パドヴァ湖はリベリア州の中程に横たわる中原全体でも有数の巨大淡水湖だ。対岸が見えずに水平線となるほど広大な湖には独自の生態系が形成され、古くからこの地方の人々に農業と漁業の恵みを提供してきた。


 湖岸を接しているエトルリア県やペリオーレ県では、湖岸にいくつもの桟橋が伸びて簡易的な漁港となっている。今は戦乱の為に漁業は下火となっているが、ディアナは情勢が落ち着いたら再びパドヴァ湖での漁業を振興したいと考えていた。


 そんな広大な湖の丁度中央辺りに小さな島が存在していた。ポヴェリアと名付けられたこの島は、その位置関係から漁業を営む者達の休憩、宿泊場所として長く利用されてきた経緯があった。


 また余りにも湖の中央に位置している事から、湖の精霊がこの島を作ったという逸話もある。


 漁業が下火になっている状況からこの島も現在は殆ど利用されておらず、島に建てられた施設も手入れが為されず廃墟化していた。


 会談の場所としてこの島が指定されディアナ軍が会談を了承した事によって、急遽両軍から兵士や大工が派遣され、会談の会場として急ピッチで施設の改装が行われた。両軍が共に人員を派遣しているのは勿論、相手方が会場に何か細工をしたり罠を仕掛けたりしないか互いに監視する為でもあった。




 そして会談の当日。ペリオーレ県側の湖岸にある漁港には大きめの漁船を改装した連絡船が待機しており、それにディアナと護衛役に抜擢されたシュテファンが乗り込む。


 特にディアナは(というか大半の帝国民がそうだろうが)船に乗った経験がなく、自分が深い水の上におり尚且つ足元がゆらゆらと揺れている状態に慣れずに落ち着かなそうにしている。


 シュテファンは護衛役なので当然鎧兜と剣で武装しているが、今日は会談が目的であり丸腰という条件なので、ディアナはいつもの鎧姿ではなく、白と桃色を基調とした明るい少女らしい色合いの仕立ての良い絹服姿であった。金髪は可愛らしい髪留めで束ねている。



「……それではディアナ殿、行ってらっしゃいませ。無事のお帰りをお待ちしております。シュテファン殿、くれぐれも宜しく頼みます」


 兵士達と共に見送りに来ているアーネストが桟橋の上で頭を垂れる。


「うむ、任せておけ。万事上手くいくように計らおう」


 落ち着かない様子のディアナに変わってシュテファンが請け負う。彼は自分の役目を良く心得ていた。ディアナの護衛は勿論、もう一つ・・・・の役目についてもだ。


 そして臨時で雇った水夫達が動かす船が出港した。



 船が動き出すと、最初は怖がっていたディアナも陸上からでは決して見れないパドヴァ湖の景色に目を奪われて、これから重要な会談に赴く緊張も忘れて美しい景色に感動してしまっていた。しかし船の縁に身を乗り出していた時に、すぐ近くを人間並みの大きさの魚のような生き物が湖面から飛び出し、悲鳴を上げて義兄に抱きついてしまった。


 そして1時間ほども船を進めると、ようやく湖上に浮かぶ小さな島が見えてきた。あそこが会場となるポヴェリア島だ。島の上には木々が生い茂っていたが、その合間に建物の屋根が見えた。あれが会談を行う施設に違いない。


 島に上陸したディアナは義兄と共に建物に向かう。恐らく改装の際にだろうが、施設に通じる道も切り開かれて整備されており、移動に難儀はせず迷う事もなく会場へ着いた。


 元は漁師の宿泊所であった建物は綺麗に修復されており、2人の〈公爵〉が会談を行うに相応しい手入れと装飾が為されていた。


 施設に着くと中から文官と思しき人物が2人ほど現れて、ディアナ達を会場に案内する。彼等は両軍のどちらにも属していない、帝都……つまりは朝廷から派遣された役人達であった。官服の帯に朝廷の使者である事を示す徽章を付けている。


 敵対関係と言って良い2つの軍の首脳の会談である。公平性を期す為、また後々の言った言わないの水掛け論を防ぐ為にどうしても中立の第三者機関による立会いは必須であった。


 ディアナ軍とラドクリフ軍共同で、朝廷に対して会談への立会いを申し入れてあった。それに応じた朝廷から派遣されたのがこの役人達という訳だ。会談の議事録を作るのも彼等の仕事なので、恐らく役職は書記官か何かだろう。



「こちらの部屋です。先方は既に入室しています」

「……!」


 建物の廊下を進んだ先、朝廷の書記官が大きな扉の前でこちらを振り返って入室を促す。ディアナは少し緊張して頷くと、扉の把手に手を掛ける。どうやらエヴァンジェリン達は先に到着しているようだ。


 いよいよの対面だ。これまでにも散々苦しめられてきた相手だ。しかも彼女をただ目障りなどという理由で殺そうとまでしてきた悪意に満ちた人物。あのフレドリックやオズワルドらを従えている人物。それらを思うとどうしても緊張してしまう。 


「……レア」


 すると彼女の心境を悟ったのか、義兄が後ろから彼女の肩にそっと手を添えてくれる。それだけでディアナの心は不思議と落ち着きを取り戻した。


「兄上、ありがとうございます。もう大丈夫です」


「うむ。では……行くか?」


「はい……!」


 ディアナは決然と頷いて、そして思い切って扉を押し開いた。



 中は広く開放的な空間となっていて、窓が開け放たれて美しく整備、剪定された裏庭と、その向こう側のパドヴァ湖の湖面が一望できる間取りとなっていた。


 部屋の中央には高級そうな椅子が向かい合って設置されており、その対面側の椅子に……1人の女性・・・・・が優雅に腰掛けているのが嫌でも目に入った。



「……っ!」

(あの人が……エヴァンジェリン……!)



 黒と赤を基調とした女性用の高価な絹服に身を包み、長い黒髪を豪華な髪飾りで結わえたその女性は、ぱっと見は20代後半から30代前半ほどに見えた。


 顔つきは女のディアナの目から見ても美女と言ってよく、目元の泣き黒子が妖艶な雰囲気を醸し出している。また抱いていたイメージとは異なり、目尻が垂れ下がってどことなく柔和な印象を与えた。


 身体つきもゆったりした服の上からでも解るほど胸部が大きく突き出て腰がくびれた肉感的な体型をしており、熟れた妖艶な雰囲気の顔立ちも相まって、男であれば一目見ただけで思わず生唾を飲み込んでしまいそうな蠱惑的な色香に溢れていた。


 ディアナは勿論そのような気分になる事はなかったが、代わりにエヴァンジェリンの胸と自分の胸を見比べて少し落ち込んでしまう。


 何というか色々な意味で自分とは対照的な雰囲気の女性……。それが彼女を一目見たディアナの感想であった。



 エヴァンジェリンの斜め後ろには堅牢な鎧兜で身を覆った武将が控えていた。相手側の護衛役だろう。兜は面頬付きであったので顔は見えなかった。


 他にはやはり朝廷の役人と思しき文官が2人おり、ディアナ達を案内してきた2人と合わせて4人の役人が、部屋の四隅に備え付けられた卓に着く。


 これで会談の準備は万端だ。ディアナは緊張しながらも中央で向き合っている椅子に歩み寄って、エヴァンジェリンの対面に座る。斜め後ろにシュテファンが同じように控える。




「……ふん、お前がディアナ? 聞いていたよりも更にちっぽけな小娘ね!」


「……!?」


 互いが席について始まった『会談』の最初の一言がそれだった。正式に名乗り合うでもなく、いきなりの悪罵。ディアナは一瞬自分の耳を疑った。


 エヴァンジェリンは黙っていれば柔和そうなその目を悪意に歪めて、こちらをあからさまに見下した目付きで睥睨していた。どうやら聞き間違いや解釈違いではなさそうだ。相手は最初から喧嘩腰でこちらを挑発している。それを悟るとディアナも生来の負けん気が首をもたげてくる。


「……あなたがエヴァンジェリンですか? あなたが会談したいというからこちらは応じたのですが。それ以前に私に対して何か言う事は無いんですか?」


 基本的にどんな相手にも必ず敬称を付けて呼ぶ丁寧な物腰のディアナが、エヴァンジェリンに対しては最初から呼び捨てだ。礼儀を知らない相手にはこちらも礼儀を尽くす必要はない。


 それでもディアナとしては向こうが会談を申し入れてきた目的が『和睦』である可能性も、ほんの僅かに期待していたのだが、エヴァンジェリンの様子を見る限りどうやらその望みは叶えられそうもなかった。


 理不尽な理由で命を狙った相手に対して何かしらの謝罪的な言葉があれば、ディアナとしてもまだ冷静に話し合うつもりはあったのだが、エヴァンジェリンはただ馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。


「はん! カマトトぶった小娘が何を勘違いしてるのやら! 御大層な噂の【戦乙女】とやらがどんなものか顔を見てみたくなっただけよ。ふん……ただの田舎臭い貧乳・・娘じゃない。馬鹿馬鹿しい!」


「……っ」


 話し合いの余地が皆無な態度と悪口雑言にディアナは絶句する。本当にこんな女が、強大な組織を率いて州都エトルリアの簒奪まで成し遂げた首魁なのだろうか。



 だがエヴァンジェリンの目がディアナの胸元に向けられ、そしてあからさまに嘲笑して勝ち誇った表情を向けられると、ディアナの感情がスッと冷えた。その目が据わり剣呑に細められる。



「……ご安心頂けましたか?」


「は? 何ですって……?」


 エヴァンジェリンが何を言われたのか解らないという風に目を瞬かせる。ディアナは常の彼女からは考えられないような冷笑を浮かべる。


お年を召されて・・・・・・・耳まで遠くなっていらっしゃるようで。……部下の人達から聞きましたよ? 私の若さや容貌に随分嫉妬・・なされていたとか。だから私が目障りで殺そうとしたのでしょう? 老化・・が始まってくると自尊心を保つのも一苦労ですね、ふふ」


「……っ!」


 エヴァンジェリンの表情が目に見えて引き攣った。まさかディアナがこのような痛烈な反撃をしてくるとは予想していなかったらしい。



「……小娘、図に乗るんじゃないわよ。私がその気になればお前達なんか簡単に捻り潰せるんだよ?」


 エヴァンジェリンも怒りから目を細めてこちらを恫喝してくる。州都エトルリアを有しているだけでも大勢力だが、それに加えてチリアーノのように最初から一味に加わっている街もある事を考えると、その勢力は確実に現在のディアナ軍を上回っているものと推察される。


 なのでその恫喝もあながち大言壮語という訳ではないと言えたが、ディアナは全く怯む事なく冷笑を深める。


「あら、それは怖いですね? てっきりこそこそと隠れて手下を差し向けるしか能がないと思っていましたが、戦を仕掛ける度胸があったのですね。失礼いたしました、おば様・・・?」


「……ッ!! ……の、小娘ぇぇっ!!」


 ――ガンッ!!


 痛烈な皮肉と年寄り呼ばわりに激昂したエヴァンジェリンが椅子の肘掛けを拳で叩きつける。最初の余裕はどこへやら、元来は美しく妖艶な面貌を醜く朱に染めて立ち上がり、ディアナに詰め寄ろうとするが……



姉上・・、少し落ち着かれよ」



「……っ!?」


 男の声。今のはエヴァンジェリンの後ろに控える護衛の武将が発したものだと解った。


 それまで激昂していたエヴァンジェリンが、まるで冷水を浴びせられたように顔を青ざめさせ、動きを止めた。そして一瞬の後に今度は羞恥・・に顔を赤らめた。


「ア、アーサー! ……おほん! わ、私とした事が少し冷静さを欠いてしまったわね。ご、ごめんなさいね、アーサー?」


 エヴァンジェリンはそれまでの醜態が嘘のように大人しく椅子に座り直した。その豹変ぶりにディアナは呆気に取られたものの、それより彼女を制止したアーサーなる武将の方に注意が向いた。


 兜の奥から発せられた為にややくぐもって聞こえたが、ディアナは今の声に聞き覚えがあった。そして何よりエヴァンジェリンを『姉』と呼ぶ立場の者は……


 アーサーが兜を取り去った。露出した顔は、やはりディアナの予想通りであった。


「あなたは……ユリアン!」



「ふ……久しぶりだな、ディアナよ。言ったであろう? 必ずまた会う事になると」



「……!」


 それはチリアーノの事件で剣を交えた敵将ユリアンであった。ディアナに自分の妻にならないかというふざけた誘いを掛けた男だ。


 『あのお方』の弟だとゾランが言っていた。『あのお方』とは目の前のエヴァンジェリンの事である。そして今ユリアンは確かに姉上と言った。この2人は姉弟・・なのだ。


 シュテファンがディアナの事をレアと呼ぶように、身内同士なら相手をミドルネームで呼ぶのが普通だ。アーサーというのはユリアンのミドルネームか。

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