第十幕 ヘクトール・ケルツ・ハイドリッヒ

 スカンディナ州、リュンクベリ県。


 ダラムで無事『不世出の軍師』アーネストを同志とする事に成功したディアナ。ただいくつかやりかけの仕事があるらしく、それを片付けてから正式に合流すると言われ、とりあえず義兄のシュテファンと引き合わせて互いに挨拶だけは交わしてもらった後、ディアナは義兄の提案でスカンディナ州に戻って来ていた。


 戻って来たと言ってもアルヘイムではない。その東にある隣接県のリュンクベリに2人は来ていた。シュテファンから有力な同志の当てがあると言われての事だった。


「ヘクトール・ケルツ・ハイドリッヒ。それがあの男の名だ」


「……何と。それ程の剛の者がこんな近くにいたのですね」


 ディアナはリュンクベリの街中にある酒場で義兄から、彼が以前に戦った手強い敵将の話を聞いていた。義兄が頷く。


「うむ。部隊同士の用兵戦では私に軍配が上がったが、正直……一騎打ちではあやつに勝てる気はせんな。作戦が成功したから良かったものの、あのまま続けていたら恐らく敗れていたのは私の方だっただろう」


「あ、兄上が……!? そんなに強いのですか!?」


 ディアナは目を瞠る。シュテファンは無意味に敵を誉めそやす事はしない。彼がそういうからには、それは事実なのだろう。


 義兄の強さを誰よりもよく知っているからこそ、ディアナはそのヘクトールという武将の恐ろしいまでの武勇を実感できた。確かにそんな人物が同志に加わってくれれば頼もしい事この上ないだろう。だが……



「でも……大丈夫でしょうか? かつて兄上とは敵同士だったんですよね?」


 まだ実際に戦場に出た事が無いディアナとしては、互いに殺し合った者同士では遺恨が発生しているのではないかと心配になる。しかも相手は勝負は預けるというような事を言っていたらしい。


 だが義兄は苦笑しただけであった。


「かつてはな。だがそれは仕える国同士が敵対していたからというに過ぎん。今の私はただの浪人だ。あやつと敵対する理由はない」


「は、はあ……そういう物なんですか?」


「そういう物だ。そして戦場で矛を交えた相手というのは、時として大きなシンパシーを感じ合う事がある物だ。あやつは信用に足る男だ。そして現状に不満を抱いているのも恐らく私と同じはずだ」


 戦争という一切の虚飾を剝がされた極限状況だからこそ、その人物の本当の姿という物が解る。そして義兄はそんな状況下において、ヘクトールを信用に足る人物と認めたのだ。それを聞いたディアナは少し胸が熱くなった。


「な、なるほど! 戦いの中でお互いに解り合うというのは素晴らしい関係ですね! では兄上が説得して頂ければ、ヘクトール様に同志に加わって頂く事が出来るかも知れませんね!」


 戦場で戦い合った敵同士が深い友情で結ばれるというのは凄くロマンがある話で、ディアナとしても憧れる物があった。若干テンションが上がって目を輝かせる義妹に、しかしシュテファンはかぶりを振った。


「何を言っている? 説得するのはお前だぞ、レア」

「……え?」


 一転して固まるディアナ。だが義兄は至って真剣な表情だ。


「お前の軍になるのだ。お前自身を知ってもらわんでどうする? お前が男であれば私が出向いて勧誘するだけでも良かったが、お前は女だ。ヘクトールに『女の下に付く』という事を納得させるには、お前自身の人となりを知ってもらい、お前自身の言葉で説得する必要がある。違うか?」


「あ…………」


 ディアナは大きく目を見開いた。まさに義兄の言う通りであった。この茱教が浸透している帝国下において女であるという事はそれだけで不利だ。こういう面でも影響してくる。


 仮に義兄が説得してヘクトールが了承してくれたとしても、紹介された主が少女のディアナでは、馬鹿にされた、担がれたとむしろ怒らせる結果にもなりかねない。


「それにお前はアーネストを勧誘する時、私に何と言った? 自分自身の言葉で説得しなければ意味が無い。そう言っていた気がするが記憶違いだったか?」


「……!!」

 確かに言った。その時の気持ちに嘘はない。ならば今回だって状況は同じはずだ。ディアナは居住まいを正した。



「……申し訳ありません、兄上。少し浮かれていたようです。確かに私自身が説得しなければなりません。いえ、説得してみせます! 何事にも常に全力で臨むべし、ですね!」


「うむ、その意気だ。勿論私も口添えはするから安心しろ。ヘクトールを味方に付ける事が出来れば、お前の目標に対して必ずや大きな力になるはずだ。自信を持て。お前はどの勢力にも付かなかったあの『不世出の軍師』を口説き落としたのだぞ。お前自身が繕う事無く己をぶつければ、必ずやヘクトールを説き伏せる事が出来るはずだ。私が保証する」


「あ、兄上……ありがとうございます!」


 ディアナの中に熱い物が込み上げる。自分に必要なのは自信なのかも知れない。女の身で立志をした時から、あらゆる困難を覚悟していたはずだ。


 義兄の言う通り、そのヘクトールを仲間にする事で自分の目標への大きな一歩となるなら躊躇う理由は何もない。



 ディアナの心境の変化を感じ取ってシュテファンは大きく頷く。


「うむ、では善は急げだ。このまま直接ヘクトールの元まで赴くとしよう。今は日中だから詰所か練兵場のどちらかにいる事だろう。まずはあやつの仕事ぶりから見ておくか」


「はい!」


 2人は支払いを済ませると席を立った。義兄の案内で街を進みながら、ディアナは心地良い緊張と高揚が自分を満たしている事を感じていた……




*****




 最初に詰所に行ってみると、衛兵からヘクトールは今日は練兵場で兵の訓練を担当していると教えてもらえた。


 リュンクベリの宮殿のすぐ近くには大きな練兵場が併設されていた。そこではこの日も大勢の兵士が訓練に励んでいる様子が見て取れた。


 ディアナも義兄にくっついてアルヘイムの練兵場には何度も足を運んだ事があり、訓練を見学させてもらっていたので、兵士達の訓練は見慣れた風景でもあった。


 しかしそんな彼女をして、今日この練兵場では一際目立つ光景が繰り広げられていた。



「うおぉぉぉっ!!」


 兵士が雄叫びを上げながら木剣で打ち掛かる。彼が打ち掛かったのは、その兵士よりも一回り……いや、下手すると二回り近くは大きい威圧感に溢れた堂々たる体躯の巨漢。赤い短髪が目を惹く。


「ぬん!」

 その巨漢が訓練用の太い棒を薙ぎ払うと、打ち掛かった兵士は一溜まりも無く吹き飛ばされた。比喩ではなく文字通り吹っ飛んだのだ。


「次っ!」


 巨漢が促すと次の兵士が打ち掛かる。そしてやはり同じように吹っ飛んでいた。周囲には既に同じように吹っ飛ばされた兵士達が死屍累々と転がって呻いていた。


 その後も何度か同様の光景が繰り返され、業を煮やした巨漢が同時に掛かってこいと兵士達に発破をかける。


 すると兵士達は一切の遠慮なく7、8人程で巨漢の周囲を取り囲んで、一斉に打ち掛かった。


「……!」

 無茶だと感じたディアナが息を呑むが、巨漢は棒を両手で持つと身体ごと旋回させるような勢いで全方位を薙ぎ払う。


「うわぁっ!」

「ぎゃあぁっ!」


 兵士達から無様な悲鳴の合唱が鳴り響き、複数の兵士達が文字通り宙を舞った。現実離れした馬鹿げた光景にディアナは目を疑った。


 宙を舞った兵士達が落下して屍の群れに加わる。それを見て他の兵士達は完全に及び腰になる。情けない部下達の姿に巨漢がつまらなそうに溜息を吐いた。


「はぁ……ったく。しばらく戦が無いからって弛みすぎだぞ、お前ら。いつでも出陣できるように訓練は怠るなって言ってるだろ? また俺に叩きのめされたくなかったら死ぬ気で訓練しろよな」


 どうやら兵士達に発破を掛ける為の懲罰的な乱取り訓練だったようだ。その後巨漢が解散を命じると、兵士達は助かったとばかりに三々五々と散っていった。



 それを見た巨漢は再び溜息を吐くと、練兵場横の休憩用天幕の椅子にドカッと腰掛けて、並々と水が注がれた杯を呷った。今の訓練だけでは余り満たされていない様子だ。

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