第39話 家族だから

 とある日曜日の昼下がり、千夏は一人ペットショップの前で呆然とした様子で佇んでいた。

 転校してから数日、この店の前を毎日のように通っている。そしてその度に心から不思議な感情が沸き上がっていた。

 食欲。

 この感情は空腹時にここを通ると強く心を揺さぶり、まるでケーキ屋の前を通った時と同じ気持ちになる。普通ならコンビニのような売店や飲食店に向かうものだが、何故か千夏はこのペットショップの前にいた。

 そして今、千夏は自分の中にあると戦っていた。超えてはならない一線、踏み込んではいけない領域。ヒトとしての心が全力で拒絶している。

 だがそれ以上に己を駆り立てるモノがある。感情や理性を叩き潰すもっと深い心理、本能が囁いているのだ。


「………………」


 唾を呑み、ガラス張りのショーケースを見詰める。

 そうしていると自動ドアが開き、アルバイトらしき若い女性が現れた。外の掃除をしようとしていたのか、手には箒と塵取りが握られている。

 彼女はショーケースの前にいる千夏に気付くと、優しい口調で声を掛けた。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」


「!」


 店員の声に我に返る。ニコニコと営業スマイルを向ける彼女に、千夏は上手く言葉が出なかった。

 ただ見ていただけです。

 そう言えば良いのに、その一言が出てこない。餓えが、自分の中のケダモノが、彼女の意思とは違った言葉を吐き出す。


「ハムスター……一匹ください」


 言ってしまった。後悔が先立つものの、すぐに別の感情が心を塗り替える。まるで注文した料理を待つような、ワクワクする気持ちに。

 店員に連れられ店内に足を踏み入れた瞬間、自分の足元から何かが崩れる音が聞こえた気がした。

 店内の小動物が騒ぎ始める。千夏は彼らにとって新しい主なんかでない。捕食者プレデターなのだから。





 時刻は午後一時。家の台所で、ランニングウェア姿の卓也は水筒を用意していた。

 日課のランニング、本来ならもっと涼しい早朝や夕方に行うべきだろう。しかし卓也の身体は強い日光を求めていた。

 ただ日の光を浴びるのではない。彼は光合成をしているのである。そのお陰で卓也は食事をせずとも生命活動を維持できているのだ。

 だが本人は複雑な気持ちである。食事を好ましく思えなくなり、家族にも負い目を感じ、友人には不信感を抱かれないかといつも不安だった。

 そのせいか、今は一人の時間がとても気楽だ。周りの目を気にせず、ただ夢中に身体を動かすだけで良い。ある意味、一番心が休まる瞬間だった。


「~♪」


 鼻歌まじりに水と氷を水筒に入れ、白いプラスチック容器に入った青い液体を追加しかき混ぜる。

 普通ならスポーツドリンクの類いを準備するだろう。卓也も問題無く摂取できる。だが彼が用意していたのは別の液体。

 菜園用の液体肥料だった。

 何も知らない人が見たら、気が狂ってると思われるだろう。水筒に、自分が飲む物に、液体肥料を入れるだなんて正気を疑うに決まっている。人間の飲み物ではないのだから。だが植物の身体である卓也にとってはご馳走だ。

 ヴィラン・シンドロームを発症してから約一ヶ月、この身体に馴染み、人間の常識からかけ離れた嗜好を持つ事にも慣れてきた。その事を受け入れ認識し、自己嫌悪に至ってしまう。

 卓也は人と化け物の狭間を今も彷徨っているのだ。


「さてと」


 水筒にをカバーケースに入れ肩に掛ける。そして外に行こうとキッチンから出ると、リビングには母、春菜が一人でテレビを見ていた。父の姿は無い。今日は朝早くから仕事に出ているからだ。

 いってきますと一言告げてから出掛けよう、そう考えた所で立ち止まる。

 両親は自分の事を本当はどう思っているのだろうか。今までと変わらないように接してくれてはいるものの、その本心は卓也にはわからない。

 もしあの職員のように快く思っていなかったら、そう思うと怖くて聞くのを躊躇ってしまう。

 だが、家族だからこそ本心が知りたいとも思った。もし自分が畏怖の対象なら家族の為に離れよう。逆に受け入れてくれるなら……。


「ねえ母さん」


「どうしたの?」


 振り向く春菜に卓也は深呼吸をする。そして……


「母さんと父さんってさ、俺の事……どう思ってるの?」


「…………!」


 その問いに春菜は口を閉ざす。卓也だけでなく、彼女にとってもこの質問は心を深く抉る。

 人ならざる者となった我が子をどう思うか。卓也にも想像できない。


「卓也……」


 テレビを消し、ゆっくりと卓也の方を振り向く。そして喉の奥に引っ掛かりそうな言葉をなんとか絞り出す。


「お父さんもお母さんも、凄く不安だった。卓也が変な病気になって……そう、あの姿を見て、これは夢だ嘘だって何度も祈ったわ」


 暗く視線を落とす母の姿に、卓也は胸が締め付けられるようだ。偶然病気になってしまったのだから責任は無いとはいえ、彼女を気を落としてしまったのは自分が原因。それがとても苦しかった。

 そんな卓也の心情を察してか、春菜は優しく微笑む。


「でもね、私達は信じる事にしたの。例えどんな姿であろうと、卓也は私達の息子だもの。病気の子供を支えないなんて、親失格じゃない」


「母さん……」


「きっと治る。お父さんもお母さんも、卓也は変わってないって知っているから」


 スッと心が軽くなる。家族として受け入れてくれている。拒絶も畏怖も無い、それが何よりも嬉しかった。

 思わず泣きそうになるのをこらえる。


「ありがとう。俺、少し不安だったからさ……。凄く楽になったよ」


 嬉しそうに笑う卓也に春菜も頷くが、彼女は一息つくと顔を険しくする。


「けど、他の人には見られたりしたらだめよ」


「勿論。院長先生にも言われてるし」


 笑う卓也と違い、春菜の表情は真剣そのものだ。何かがおかしい。いつもの彼女とは様子が違う。


「それだけじゃないの。いい? 私達が卓也を信じて受け入れたのは家族だからなの。もし他人の事だったら、きっとこんな反応をしていないわ。化け物だと後ろ指をさしていたでしょうね」


 卓也はハッとしたように目を見開く。そう、彼女達は卓也が家族、それも実の息子だから受け入れたのだ。万が一他人の出来事だったら、そう簡単にはいかなかっただろう。


「お願い、絶対関係者以外にはばれないよう気を付けて。人は自分と違う者にはとても残酷になれる、だから……」


 彼女の言う事は尤もだ。

 以前ネコ型キャリアーと戦った時もそうだった。あの場にいた人々の視線、今も鮮明に思い出す。それが最も多くの人、世間から向けられる卓也への視線なのだ。怖いに決まっている。


「大丈夫だよ母さん。そこは解ってるから…………嫌って程に」


 最後の一言はとても小さく、春菜の耳には届いていない。


「じゃあ、出掛けるから。夕方までには帰るよ」


「いってらっしゃい。気を付けてね」


 母に見送られ、卓也は足早に家から出て行く。このままだと先日の事、余計な事を話してしまいそうだからだ。

 他人の目が、拒絶が、恐れがこれ程辛いとは思っていなかった。

 だが、そんな事を口にしてしまえば余計な心配をさせてしまうだろう。心苦しいが、何も言わないのが一番だと思った。

 卓也はエレベーターを使わず階段をかけ降りる。その最中、ふと井上兄妹の事を思い浮かべた。

 二人は卓也の事を知ればどう思うのだろうか。友人として今までと変わらずにいてくれるのだろうか。しかし……


 他人。


 母のその言葉が離れない。

 大丈夫、今まで通りにしていれば問題無い。このまま、現状維持が一番。騙しているようで少し罪悪感があるが、それがお互いにとって最適な関係なのだと信じている。

 卓也はマンションの外に出ると、軽くストレッチをし身体をほぐす。


「よし、行くか」


 気分を入れ替え、卓也は街の中へと走り出した。日課のジョギング。街を一周しに。


 意気揚々と走る卓也から十数メートル離れた自販機の前で一人の男が鼻を鳴らす。今にもボタンを押そうとした手を止め、真後ろを勢いよく向く。

 そしてじっと見詰めるように目を大きく開け、ニィと歯を見せて笑った。


「見付けた」


 ボサボサの髪にステレオタイプのオタク風ファッションをした青年が、鼻を小刻みに震わせながら真っ直ぐと何かを見ている。

 何の変哲のない道。自転車を漕ぐ主婦が進み、子供連れの男性が歩いている。

 しかし彼の鼻は捉えていた。その先に走る卓也を、彼の身体に流れる抗体を。自分の身体に住まうウイルスを殺す猛毒の臭いを。

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