ラングトンの地図
なみかわ
ラングトンの地図(合併版)※内容は同じです
<第1話>
長い学生生活だった。
そして研究者になることと、教鞭を執りながら研究者になることとは、ずいぶんと違うのだということがわかった。
「ここにいてくれるのなら、推薦状を書いてあげましょう」と、おそらく生涯の先生、A先生は背中を押してくれたけれども、僕は企業研究者への道を選んだ。
そもそも自分のデスク周りはもちろん片付けるつもりだったけれど、A先生の部屋まできれいにして掃除をするという最後の大役を仰せつかった。この古びた三階建ての、講義室やら事務室やら、研究室が詰まっていた学舎が取り壊しになるのだ。先生や後輩は、すでに新しいラボに引っ越していた。
僕がB社で新卒向けの研修をうけ終わる頃、ここは立ち入り禁止になって、この部屋から西側の夕日で染められた壁も見ることができなくなる。携帯で見慣れた景色を撮ってみたが、まだこれが二度と見られなくなる、という実感はわかなかった。
<第2話>
がらがらと大きなスーツケースを運んで来たのは、隣のC先生の研究室の院生のD君だ。「あれ、掃除当番?」鍵を回しながら聞いてくる。「最後の仕事かな。そっちは?」「学会から帰ってきたとこ。荷物置きに」「ああついでに、塵取り貸してよ。向こうに取りに行くのもめんどくさいし」
ガラガラと引き戸を開けて、D君はそのまま自分のデスクまですすむ。日頃この階の部屋はだいたい行き来が自由で、ドアを閉めるのはゼミの時くらいだ。僕は勝手知ったる奥の部屋から、塵取りとモップをつかむ。
「いつ引っ越し?」「下宿の方? 明後日には鍵を返すし、もう荷物も実家や社宅に送ってる」「あっそ」D君はさくさくと荷物をほどきながら雑談をしてくれる。
彼とも学部の時からだから6年のつきあいだ。4月からは博士後期課程にすすむ。もう少し研究したいことがある、という一方で、彼は高校の頃から内臓の疾患があって……見た目には何もないが、履歴書を見る企業からは嫌われて、もうずっと大学で研究をしているのでは、という噂も聞いていた。
「そそ、明日の晩って空いてる? チケット余ってて」
D君はいつもと変わらず、追っかけをしているアーティストのライブに行かないかと持ちかけてきてくれる。
<第3話>
左手のビニールの手提げに、水滴がついていることに気づいた。D君に誘われて行ってきたライブの帰り、駅から下宿に向かう短い間に、雨が降ってきていた。天気予報では夜から雨だと言っていたから、折り畳みの傘はカバンに入れていたけど、それはさすほどでもないだろう、と足をはやめた。
しかしせっかく、ライブ会場で買ったD君いちおしのCD、しかも握手の後にサインつき……のこれは濡らしてはならないなと左手を胸に寄せるとき、すこしふらついて、おっとと電柱のそばで立ち止まった。……街灯ごしに、雨粒が見える。……ふと、この道を歩き始めた3年ほど前を思い出した。
あの頃はまだ、左脇にある小さな飲食店は
小雨の日は、それがぼんやりと見えて、とくに枠の部分が四角に、オレンジや緑や赤に交互に光る動作が、ライフゲームみたいに見えた。隣のドットやセルの状態によって反転するとか、オセロゲームのようなルールだけど、世界には
あたらしい生活がはじまって、駅から社宅までの道に、またそういった小さな発見はあるだろうか。当たり前だった研究生活から、何もわからない場所に飛び出すことは、正直不安の方が多い。
それでも、周到とはいえないにしても、これまでの研究やら経験やらが全く役に立たないわけでもないだろう。規則的なパターンで、隣接するセルの状態でこっちが死にそうになる、なんてことはないはずだ。ぱたぱたと広がっていくセルの様子のように、A先生の教えを伝える、とまでいくと仰々しいが……自分の存在が少しでも社会に良いように影響すればいいかな、と青臭いことも考えてみた。
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