第101話 お前じゃなきゃ無理だ

「随分すっきりした顔してるんだな。森永佑貴」

「……っ」

 通信コースの職員室の扉を閉めると、唐突に投げかけられた声。びくりと身をすくませ、森永はゆっくりと黒い視線を上げる。背中で一括りにされた黒髪が揺れ、泣き黒子の傍で茶色の瞳が瞬く。それは突き放すように冷淡な光を宿していて、森永の喉が情けない音を立てた。

「……北条、くんっ」

「随分元気な顔してんなぁ。……まだわからないのか? お前が好きな人は、決してお前を好きになることはないんだぞ」

 その声は鉄槌を振り下ろすように、ギロチンの刃を落とすように響いた。しかし、それらは森永の心臓を潰すことはなくて。彼は北条を見上げ、疲れ果てたような笑みを吐き出した。眉をひそめる彼に、森永は凪いだ海のような声を投げかける。

「わかってる。スターライトの世界には、もうぼくはいない。……けど、それでいいんだ」

「……はぁ?」

「だって、スターライトはといた方が幸せだって、そう思えたもの」

 その笑顔は虹のように晴れやかで、聖職者のように優しく。北条は理解を求めるように何度か目を細め、腕を組んだ。

「……理解できないな。好きな人は手に入れたいって、そう思わないのか?」

「……部分的には、理解できる、けど……でも、好きな人には幸せになってほしいじゃん。ぼくがいなくてもスターライトは幸せなんだから……その幸せに水を差すことなんて、したくないんだ」

 凪いだ春の海のような声に、北条は憎々しげに舌打ちした。見下げ果てたような視線を正面から受けながら、森永は厚い雲を割るように語る。

「好きな人が、幸せでいてくれるなら……それだけで、ぼくは幸せだよ。……そしてぼくも、次の恋に進まなきゃいけないのかもしれない。そのためにも、スターライトとはちゃんとお別れをして……」

「……で」

「えっ?」

 青ざめた唇を震わせ、北条は数歩森永に歩み寄る。握りしめた白い拳を振り上げ――森永がそれを認識した瞬間、景色は反転していた。殴り倒されたと気付いたのは地面に打ちつけられたあとで、彼は震える瞳で北条を見上げる。荒く息を吐きながら、北条は血走った瞳で言い放った。

「なんで……ッ! なんでお前は、そう簡単に諦められるんだ……なんだ、お前の想いは、その程度だったって言うのか!?」

「ち、違うよ! その……好きだからこそ……あ、諦めなきゃいけないことも、あるんだよッ!」

 ――その声に、北条は茶色の瞳を見開いた。タイルがひっくり返るように、徐々に白目が血走ってゆく。握りしめた拳の先で、爪が皮を破って血が流れた。目の覚めるような赤い雫が、床に落ちて水滴をつくる。

「ねぇよ、そんなもんッ! 恋に何を諦める必要がある。好きな人は何が何でも手に入れる、それが普通だろ!? そうじゃないと、そうじゃないと、俺は――!」

「――痴話喧嘩は他所でやれッ!」

 ふと投げかけられた声に、二人の視線が後方に投げかけられる。いつの間にこんなに近くにいたのか、硬質な黒髪をした小柄な少年が、腕を組んで二人を睨んでいる。

「……ったく。また生徒会長か。何しに来た」

「通信コースの教員に呼び出しを受けたんだ。看護科、お前こそ何故ここにいる。森永は何故倒れている?」

「お前には関係ないだろ」

「無くない。俺は曲がりなりにも森永のクラスの議長だ」

「……面倒くさいなぁ」

 乱暴に頭を掻くと、一つに結ばれた黒髪が乱れた。くるりと二人に背を向け、階段に向かって歩き出す。

「好きにしろよ。……おれは諦めの悪さくらいしか、取り柄がないもんでね」


 階段を下りていく背を眺めていると、小柄な少年――犬飼が森永の前に跪いていた。安心させるように微笑み、森永は立ち上がる。彼に追随するように立ち上がり、犬飼は口を開く。

「一回、保健室に行くぞ。顔が腫れている。お前、まだ保健室の場所わからんだろ」

「……犬飼くん、だよね? 通信の職員室に用事あるんじゃ……」

「あとでいい。同級生が怪我しているんだ。議長として見過ごせん」

 真顔で言い放たれ、森永は思わず吹き出した。口元を押さえ、くすくすと笑う。犬飼はひどく真面目くさった表情でそれを見つめ、歩き出した。

「何が可笑しい。笑ってる暇があったら行くぞ。俺にも時間がない」

「あぁ、うん」



(わからない。わからないわからない。何もわからない、わかりたくもない)

 駅への道を足早に過ぎながら、北条はただ唇を噛みしめていた。徐々に闇に呑まれつつある冬の空の下、彼は黒髪をなびかせ、ただ歩く。

(愛ってのは自分のためだろ。恋愛ってのは自分のためにするもんなんだろ。違うのか? 違わないよな。だって)

 通行人にぶつかり、罵声を浴びせられる。しかし、それを無視して北条はただ足を進めた。震える唇を血が出そうなほど噛み、握りしめた拳を短い爪で抉る。

(……おれの家にはいつも、父と女と母と男がいて。おれはいつだって除け者扱いだった。子供なんて産むんじゃなかったって言われて……愛が、欲しかったのにッ)

 唇の端から、細く血が流れる。それは白い肌を酷薄に彩り、アスファルトに赤い水滴を作った。

(……おれはあれしか知らない。あれが愛ってことしか知らない。……他の愛の形なんて、知らない。なのに、なのに何で! 何であいつは、あいつは……!)

『……好きだからこそ……あ、諦めなきゃいけないことも、あるんだよッ!』

「――そんなもん、ねぇよッ!」

 脳裏に弓矢のような言葉が響き、それを掻き消すように叫びを口にする。通行人からの視線が刺さるけれど、それすらも気にする余裕はなくて。気付いた時には家の前を通り過ぎ、“彼”と出会った中学校の校門前に立っていて。思わず足をすくませ、校門の向こうを見つめる……あの日の彼に、会える気がして。


 ……いつの間にか、溺れていたのだ。

 ひどく騒がしかった教室と、その中で静謐な顔を保っていた彼。

 穢れた世界で育った北条にとって、それはあまりに尊くて、美しくて。

 それでいて、穢れた彼にも対等に接してくれた彼に、北条は。


「スターライト、スターライト、スターライト……おれだけの一等星……あぁ、お前が欲しい。お前じゃなきゃ無理だ。おれが唯一本気で好きになった、お前じゃないと、おれは……おれは……っ!」

 路上にうずくまり、吐きそうな声で叫ぶ。調律の狂った、愛の歌を。曇った夜空はそれを聞き流して、はるか向こうの星に彼の歌は届かない。不整脈のような拍動を刻む心臓をそっと抑え、北条は濁った水のように笑う。

(そろそろ、を壊さなきゃいけないな……教え込んでやらなきゃ。スターライトがおれのものなんだって、おれだけの一等星なんだって……)

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