第100話 ボクは、いつだってキミのそばにいるよ

 蛍光灯の無機質な光が教室を満たし、窓の外の闇をより深くする。教室に響くのは強い風の音と、参考書のページを捲る音。伝えたいことも何一つ口にできないまま、時計の針は六時半を指す。

『今日は一人で帰るね……じゃあね』

 森永の声が脳裏に木霊する。今日は学校まで迎えが来ているそうで、特についてきてもらう必要はなかったらしい。そういうわけで山田は今も隣の席にいるし、神風はただその横顔を見つめている。……むしろ、それしかできていない。視線を逸らしてはまた彼を見つめて、何度も繰り返して。

 前の方の席に座っていた生徒が席を立ち、荷物をまとめて教室を出ていく。ふと山田の視線が上がり、それを眺めて……その瞳にどこかガラスのひびのような光を見た気がして、神風は軽い音を立てて椅子を山田の方に寄せた。

(何を言えばいいのかなんて、わからないよ。それでも、何も伝えないだなんて、ボクにはできない)

 静電気のように二人の視線が合う。眼鏡越しの瞳を、ひびが入った薄氷のような光を見つめ、神風は息を吸う。

(――今度、支えなきゃいけないのは、ボクの方なんだからッ)


「……やっぱり、辛い?」

「……」

 流星のように真っ直ぐな言葉に、山田は観念したように肩をすくめた。吹き荒れる風の音がかすかに弱まる。その瞳に宿る光は、水たまりに張った薄氷のようで。彼の瞳をじっと見つめ、神風は促すように頷く。ふっと目を伏せ、水風船を握るように口を開いた。

「……辛い、のか?」

「えっ」

「……何て言えばいいんだ? これでよかったんだとは思う。けど……もっとマシなこと、できたんじゃないか、って。確かに俺は爽馬のことを愛してるし、森永を好きになることはできない。だけど……もっと違う言い方、できたんじゃないか、って」

 涙すら零れないような声に、神風はふっと瞳を曇らせた。もとより山田は神風への愛情表現以外で感情を表に出すことはめったにない。そんな彼が必死に言葉を紡いで、伝えようとしてくれている。それだけで神風にとっては十分で……いや、そんなはずがない。彼を支えなければならないのだ。

「悲しい?」

「……悲しい、のか? ……自分の気持ちが、よくわからない」

 疼く古傷に耐えるような声に、神風は聖女のように彼の瞳を見上げる。……あんなことがあって、感情に蓋をしてしまったのだろうか。それも仕方ないかもしれない。だけど、と神風はそっと手を伸ばした。彼の身体を包むように抱き寄せ、目を閉じて囁く。

「……頑張ってきたんだね。スターライト」

「……頑張った……のか?」

「頑張ってるよ。……ボクはまだ知らないこともたくさんあるけど、それでも、スターライトが頑張ってるってことはわかるよ」

 薄く目を開き、神風は山田の後ろ髪を丁寧に撫でる。神風が辛い時、彼がそうしてくれたように。自身の体温を伝えるように何度も彼の髪を撫で、神風は言葉を紡ぐ。その声はまるで聖母のように、温かな血を繋げるように。

「……ボクは、そんなスターライトが大好きだよ。誰よりも優しくて、頑張り屋さんで、人の気持ちを想うことができる……そりゃ普段はアレだけど、表情は変わんないくせに突然奇行しはじめるけど、そんな優しいスターライトだからこそ、ボクはキミを好きになったんだ」

「……っ」

 かすかに、せぐりあげるような声。彼の腕が縋るように神風の背に回り、身を預けられるように体重がかかる。体温が伝わり、心臓の鼓動すらも共有しそうな距離。厚い雪が少しずつ溶けてゆくように、山田は水晶のような声を溢れさせる。

「……優しくなんて、ない……っ」

「ううん。……キミはすごく優しいよ。ボクが辛い時はいつだってそばにいてくれたじゃないか。いつだって、ボクのために動いてくれているじゃないか……それだけでボクは、すごく嬉しくて」

 その声は蜂蜜のように甘く、初夏の風のように爽やかで、そして流星のように真っ直ぐに。天使のように彼を抱きしめたまま、神風は囁く。春の風のように、絡まった糸をそっとほどくように。

「……でも、ボクのそばでくらい、弱みを見せてくれたっていいじゃないか」

 風の音が再び強くなっていく。神風は彼を抱きしめる腕を強め、天使のように微笑んだ。抱きしめた身体は震えてはいなかったけれど、それでも彼の胸の内に吹き荒れるものは痛いほど伝わってきて。神風の肩に顔を埋める彼、その後ろ髪を丁寧に撫でながら、霞む月のように語りかける。

「……ボクは、いつだってキミのそばにいるよ」



 ……どのくらい、そうしていただろうか。


「……もう、大丈夫だ」

 山田がゆっくりと顔を上げる気配。その声は未だひび割れていたけれど、それでも白い花が月明かりに開くように。抱きしめていた手をそっと離し、神風は彼の瞳を見つめる。その瞳にはいつもの淡い光が戻っていたけれど、未だ、どこか無防備で。厚い雲が割れて光が差すように、神風はふわりと微笑んだ。

「……よかった。平気そうだね」

「……平気、だと思う」

「何で疑問形なんだい」

 軽く笑顔を浮かべる神風から、山田はふっと視線を逸らした。椅子の背もたれに頬杖をつき、どこか憮然と口を開く。

「……ありがとな。爽馬。……なんか、いろいろ」

「ふふ、いいんだよそのくらい。ボクらの仲じゃないか」

 ふわりと天使のように微笑むと、山田の視線が彼の瞳に戻ってきた。いつもは冷淡なはずの瞳がどこか熱を孕んでいるようで、神風は言葉を続ける。

「それに……このくらい当然じゃないか。ボクは今まで、たくさんキミに助けられてきた。救われてきた。だから……今度はボクが、キミを助ける番だよ」

「……爽馬……」

 目元が泣きそうに歪む。山田は神風の手をそっと取り、両手で握った。縋るような包むような温もりが指先に、手のひらに伝わる。そのぬくもりがどうしようもなく愛しくて、神風は彼の手を強く、強く握り返した。

「……よかった。お前と出会えて……好きになることができてッ」

 打上花火のように震える声。彗星のように揺れる瞳。山田の手は見た目よりあたたかくて、脈拍すらも伝わりそうで。風の音はひどく激しいけれど、今はそれすらも愛しかった。山田は握った手をそっと彼の方に引き寄せ、揺れる瞳で神風の瞳をじっと見つめる。それを陽だまりのような眼差しで見つめ返し、神風はふわりと微笑んだ。厚い氷をゆっくりと溶かすように、山田はそっと唇を開く。

「……本当にありがとう、爽馬……愛してる、ずっと」

「ボクも愛してるよ、スターライト。……大好き」


 繋いだ手が、甘い鼓動を刻む心臓が、全身が愛情を訴えている。あんなにうるさかった風の音が嘘のように消えて、月光のような静寂が世界を包んだ。春の風を噛みしめるような笑顔の神風を見つめ、山田は眩しそうに目を細め――大輪の薔薇が咲き誇るように、微笑みを浮かべた。

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