第96話 ずっと、君に謝らなきゃって、思ってた

「……」

「……」

 中央線のホームに、重い雲に包まれたかのような二つの影が並んでいた。焦げ茶色の癖っ毛と、ブルーブラックの短髪。言葉を探しあぐねるような沈黙は川の淀みのように落ちて、障子に指を埋めるように破られた。

「……ねえ、スターライト。……あの人は、誰なの」

「……爽馬のことか?」

「うん」

 肩にかけたサブバッグをぎゅっと握り、森永は俯く。他校の生徒と肩がぶつかり、ギロリと睨まれた。怯えた小動物のようにびくりと震えながらも、森永は言葉を紡ぐ。

「……なんで、あの人には話したの。あの人は、スターライトのなんなの? 確かにいい人そうだったけど……それだけでスターライトが簡単に話すとは思えないよ」

「……」

 朝露が風に震えるような言葉に、山田は俯く。海に吹く風のようにその瞳を揺らし……やがて、呟いた。

「……恋人、だ」

「……え?」

 思わず顔を上げ、森永は愚か者のように聞き返した。その頬が徐々に蒼白になっていく。黄色いラインの電車が停まり、彼らを待たずに走り去ってゆく。頭を打たれたかのように数歩下がり、震える瞳を見開いた。

「……どう、いう? ……付き合ってるの?」

「ああ。……心の底から、好きになった人だ」

 合致した視線はひどく真剣で、白百合の花のような香りがして。サブバッグの持ち手をさらに強く掴み、森永はアスファルトに視線を彷徨わせる。

「……なんで?」

 ひどく震えた声が、蒼白な唇から漏れ出した。彼は焦げ茶色の癖っ毛を振り乱し、絶叫する。それはまるで、捨てられた子犬が泣き叫ぶように。

「ねえ、なんで? なんでぼくじゃないの? ぼくだって、スターライトのこと好きなのに。なんでぼくじゃないの? ねえスターライト、なんでぼくのことは好きになってくれなかったの!?」

「……そんなこと言われても、困る……」

 どこか痛みをこらえるような声に、森永は思わず顔を上げた。伏せられた視線はどこか泣きそうで、彼の喉がひくついた。

「……ごめん。我儘わがまま、だったね」

「……別に」

 淡々と返された言葉に、森永は乾燥した唇を噛みしめた。そうでもしないと、涙がこぼれてしまいそうで。サブバッグの持ち手をさらに強く握りしめ、森永はぐっと目を閉じた。

(……決めただろ、向き合うって。清算するって……なのにこんな、我儘ばっかりぶつけて、ぼくは一体何がしたいんだ……馬鹿なんじゃないの……)


 ホームに流れるアナウンスが列車の到着を告げる。人工の鳥の声がピヨピヨと響く。流れてきた黄色いラインの列車は制服姿で埋め尽くされていて、森永は慌てて首を振った。

(……大丈夫。ぼくは、大丈夫……)

「……行くぞ。森永」

 簡潔に声をかけ、山田はさっさと列車の奥へと消えてゆく。慌ててそれを追いながら、森永はいつまでも言葉を咀嚼しているのだった。



「……それで、迎えはどこで待ってるんだ?」

「南口出てちょっと行ったところの駐車場。……そこまで、一緒に来てくれるかな」

 上目遣いに見上げられ、山田はふっと目を逸らす。一緒に行ってもいいが、山田の家は北口からバスに乗って行く範囲で。とはいえ放っておくこともできず、彼に視線を戻す。

「わかった。行こう」

「うん、ありがとう、スターライト」

 蜜蜂が舞うようにはにかむ彼から視線を逸らし、山田は歩き出す。その視線は灰色のアスファルトを這って、言葉を探しあぐねるように彷徨う。そんな彼の背に、親を呼ぶ子猫のような声が投げかけられた。

「……ねえ、あのね、スターライト」

「……?」

 どこか懇願するような声色に、山田は振り向いた。切れ長の黒い瞳は大きく見開かれていて、どこか涙が溜まっていて。口にしかけた言葉が砂のように崩れていくのを感じながら、無理やりに口を開く。

「……なんだ」

「ぼく……ずっと、君に謝らなきゃって、思ってた」

「……?」

 小さく目を見開き、森永を凝視する。強い北風が癖っ毛を揺らし、泣きそうな瞳が懇願するように彼を見つめる。

「……本当は、あんなこと言いたくなかった。……君のことを、すごく傷つけた。だから、ごめんなさい。本当に……あんなこと、言っちゃって……」

 泣きそうな瞳、震える指先。それらを見つめつつ、山田は失くした言葉を探す。本当は、謝るべきなのは自分の方なのに。何もしなかったのは、自分なのに。

「……違う。悪いのは、俺だ」

「そ、そんな、違っ……」

「北条が何かヤバいっていうのは、気付いてた。気付いてたのに、何もしなかった。結果、お前は傷ついて、駄目になって……むしろ、謝るのは俺の方だ。本当に、すまなかった」

「違うってば……!」

 泣きそうに震えた声に、山田は思わず顔を上げた。彼の言葉を遮るように片手を伸ばし、森永はどこか縋るように語る。

「あのね、スターライト。ぼく、君を傷つけたくなんてなかったんだ。だけど、だけど……あんなこと言っちゃって、本当に……!」

 慟哭のような声が響く。癖っ毛を掻きむしり、森永は切れ長の瞳から大粒の涙を零した。山田はそんな彼にそっと歩み寄り、潤んだ瞳をじっと見つめる。母猫が子猫の足先をぽんぽんと叩くように。

「……スター、ライト……」

「お前は悪くない。許せとは言わない。……ただ、自分を責めるな」

「……ぅ、え」

「お前がそんなんじゃ、俺もいつまでも前に進めない」

 その声は叱咤するように、その髪を優しく撫でるように。何度かしゃくりあげ、森永は子供のように涙を拭いた。山田の瞳を濡れた瞳で見上げ、彼は口を開く。

「……本当に、ぼくは……」

「ああ」

 何もかもわかっているというように頷き、山田は彼に背を向ける。

「一応言っとくと、俺が好きなのは爽馬ただ一人だ」

「……そう、なんだ。そっか……」

「帰るぞ」

「あぁ、うん」

 さっさと歩き出す彼の背を、森永が小走りで追いかけてくる気配。それは彼の隣に並ぼうとして、ふと立ち止まり、ほんの少し距離を取って再び歩き出す。特に気にも留めぬまま、山田は空を見上げた。灰色の雲は未だに分厚いけれど、遥か遠くは淡い紫色に晴れていて。



 部屋の扉を閉め、森永は深く息を吐いた。狭い部屋の片隅にちまりと座り、木目調の天井を見上げる。

(……疲れた)

 電気もつけぬまま、しばし呆ける森永。やがて視線を伏せ、小さく息を吐いた。目を閉じると、黒く染まった視界に浮かぶのは青みがかった髪色。両手で顔を覆い、空気をすべて吐き出すような溜め息を吐く。

(清算しようと思ってたのに。忘れようと思ってたのに。あんなに優しくされたら、嫌でも意識しちゃうじゃん……)

 中学時代のような胸の高鳴りはない。頬が熱くなるようなこともない。そこにあるのはインクが切れかけた蛍光ペンのような想い、壊れてしまった彗星のような感情。

(……まだ、好きなのかな。でも、忘れたい……)

 それはまるで磁石のように相反する感情。離れたいけれど、引き寄せられてしまう。彼から突き放してくれたなら、どんなに楽だっただろうか。顔から手を離し、深く息を吐く。

(さようならって言いたいな。ありがとうって言えないよ)

 電気もつけぬまま、森永はただ自身の膝に顔を埋めた。

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