第97話 それでもボクはスターライトのことが

「おはよ……あれ、森永くん? どうしたんだい?」

 教室の後ろ扉を開け、神風はすぐそばの机に目を向けた。ひどく重苦しい空気とともに突っ伏している森永。後ろ扉から吹き込む空気に癖っ毛が鬼火のように揺れる。彼は降ってきた声に顔を上げ、神風に焦点を合わせるように幾度か目を瞬かせた。その目の下を見て、神風は思わず声を上げる。

「ど、どうしたんだい? すごいクマだよ」

「えっ……」

 ガタッ、と椅子を蹴立てるように立ち上がり、森永は後ろ扉のガラスに歩み寄った。そこに映る自分を呆然と見つめ、目を伏せる。霧のような、陽炎のような横顔に、神風は思わず声をかける。

「……森永くん」

「な、なんでもないんです……ちょっと、徹夜しちゃって」

「……そっか。でも、あんまり無理するのはよくないよ」

「はい……」

 力なく答え、弱々しい動作で席に着く。よく見るとその頬はどこか青白く、切れ長の瞳はどこか虚ろで。ふっと目を伏せ、神風も自分の席に着いた。ちらりと隣に目を向けると、シャーペンを顎に当てている山田。その視線は参考書に注がれているようで、どこか上の空にも見えて。



「ん、森永クン、どこ行くの?」

「つ、通信コースの職員室、です。先生に呼ばれてて……」

「あー、なるほどね。行ってらー」

 ひらひらと手を振り、柿原は人のよさそうな笑顔で森永を見送る。と、その側頭部をピシリとデコピンされた。

「たっ! ……え、御門クン?」

「柿原どいて」

「ちょっ!? ひどくない!?」

「諦めろ柿原、御門はそういうやつだ。あ、桃園もこっち来んの? オーケーオーケー」

 あっさりと机の上を片付け、自分の席を桃園に明け渡す矢作。何か言いたげな表情でそれを眺め、柿原も渋々それに追随した。空いた席に帝王のように腰を下ろし、御門は不遜な表情で弁当が入ったミニバッグを開ける。中からホットドッグを取り出しつつ、山田に視線を向けた。

「あのさ。昨日の放課後、うちの教室にが来たんだけどさ」

「……奴?」

「北条だよ北条」

 やれやれ、と肩をすくめつつ、御門はホットドッグをかじる。山田はプラスチックスプーンを持った手をゆっくりと下ろし、俯いた。かすかに見開かれた瞳に、あらゆる感情が嵐のように目まぐるしく映る。だけどそれは一瞬で過ぎてゆき、彼は何事もなかったかのように顔を上げた。

「……爽馬、何か」

「だ、大丈夫だよ」

「えっ」

 食い気味に言葉を被せられ、山田は思わず目を瞬かせた。桃園が変な声を漏らし、御門が呆れたように額に手を当てる。神風は半ば無理やり口角を上げるけれど、その笑顔がぎこちないことは火を見るよりも明らかで。肩をすくめ、山田は神風の茶髪にそっと手を伸ばした。ぽんぽんと軽く頭を叩き、口を開く。

「別に隠さなくていい」

「……心配かけたくないんだよ」

 憮然としたように目を逸らし、神風は弁当の唐揚げをかじる。しばし口をつぐみ、山田はその髪をそっと撫でた。ふっと顔を上げる神風と目を合わせ、告げる。

「そう言われると逆に心配になるんだが。いいから言ってみろ」

「……うぅ……わかったよ」

 一度俯き、神風は観念したように顔を上げた。それを見て、御門と桃園も頷き合う。山田はそっと神風の頭から手を離し、傾聴するように口をつぐんだ。


「……スターライトと森永くんが帰ってすぐ、北条くんが教室に来たんだ。森永くんに何かしようとしてたみたいだけど……」

「その時北条が森永のこと愚弄したから、爽馬が珍しく言い返したんだよ。そしたら北条も黙ってなくてさ」

「神風くんのことは許さないーみたいな、山田くんに一番ふさわしいのは自分だーみたいな。でもそこに犬飼くんが乱入して、一回北条くんは帰ったよ。そんな感じ?」

 三人の言葉に、山田はふっと目を細めた。視線を伏せてしばし思考を巡らせ、口を開く。

「……あいつ、まだそんなことしてるのか」

「桃園の一件で終わるような北条じゃないでしょ。あいつ真正のヤバい奴だよ?」

「それは身をもって知ってる」

「でも、森永くんにも神風くんにも、何もなければいいけど……あの北条くんだし、多分そうはいかない気がするなぁ……」

 アップルパイをかじり、桃園は困ったように呟いた。その声に、神風はふっと俯く。神風だって自ら進んで傷つきたいわけではないし、何より神風が傷つけば、大好きな人は絶対に悲しむ。しかし、それでも、と神風は机の上で拳を握りしめた。

「……北条くんがボクたちを引き裂こうっていうなら、ボクは立ち向かうよ。……それでもボクはスターライトのことが好きなんだから」

 顔を上げた彼の瞳には、十字架を握るような強い覚悟が滲んでいて。灯台のような光を宿す瞳をじっと見つめ、山田は深く、強く頷いた。


「……ねえ、僕は何を見せられてるの?」

「ん? 薫と壮五もそんな感じだよ?」

「あっそ……」

 能天気に首を傾げる桃園から視線を逸らし、御門はホットドッグを口に押し込む。



(終わったぁ……先生話長いよ……ただでさえ授業で体力使うのに、なんか余計に疲れた……お腹空いた……ご飯食べなきゃ……うぅ……)

 人気のない廊下を、焦げ茶色の癖っ毛が一人とぼとぼと歩いていた。未だ慣れない校舎の片隅を、きょろきょろと見回しながら歩くけれど、教室がどこなのかわからない。誰かに聞こうにも未だに人が怖くて、ただひたすらに足を進めていた――と。


「……こんなとこにいたのか。森永佑貴」

「――ッ!!」

 怯える小動物のように肩を震わせ、森永は一歩下がった。見開いた瞳は、正面に立つ人物から目を離せない。茶色の瞳と、目元を飾る泣き黒子、そして背中で一括りにされた長い黒髪。

「――な、なんで、ここにッ!」

「なんで? そんなこと、おれが言いたいよ」

 こつり、足音を鳴らし、北条は森永に一歩近づいた。呼吸が苦しい、膝が震える。すっと細めた瞳で、北条は森永を睨みつけた。追い詰めるようにもう一歩近づき、糾弾するように口を開く。

「なんで鶴天に来た? なんでまたスターライトに近づこうとする? ずっと引きこもっていればよかったものを。なんでスターライトに、おれだけのスターライトに近づこうとするんだ……ふざけてるのか?」

「ち、違っ……!」

 涙がこぼれてしまいそうだ、膝が折れてしまいそうだ。浅い呼吸を必死に繰り返し、森永は北条から目を逸らしたい衝動と葛藤する。だけど北条の茶色の瞳は、蜘蛛の糸のように彼を絡め取って離さない。触れられそうなほどに彼に近づき、北条は泥水のような笑みを浮かべた。

「いいか? お前はスターライトに選ばれなかった。スターライトはお前を好きにならなかったし、これからもそうなることは決してない。だからさっさと諦めて、スターライトの前からいなくなれよ」

 その声は針の雨が降り注ぐように、注射器から血が零れていくように。危機に陥った小動物のように震えながら、森永は揺れる瞳で北条を見つめる。その息は過呼吸を起こしたように荒く、浅く、それでも森永は涙に濡れた瞳で彼を見上げた。

「――でもッ! ぼくは、全部、清算したい!」

「……はぁ?」

「強く、生きたい……前に、進みたいんだ……!」

 瀕死の獣の遠吠えのように叫び、森永は床に膝を突いた。胸を押さえ、過呼吸気味になりながらも呼吸を繰り返す。それでも切れ長の瞳は北条を強く睨んでいて、彼は見下げ果てたように一つ舌打ちをする。


「……わかってて、それでも諦めきれない、なんて。馬鹿だな、お前は」

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