3学期編
第93話 森永くん困ってるじゃないか
「……?」
背中で一括りにした黒髪を揺らし、北条は特進生徒用の下駄箱に歩み寄った。そこに2学期まではなかったはずの名札を見つけ、目を細める。
「……森永佑貴……まさか」
思い出すのは、いつかに聞いた告白の声。彼を裏切った時の、頭を打ったような表情。教室での泣きそうな瞳と、走り去っていく後ろ姿。血が出そうなほどに唇を噛み、北条はその名前を睨みつける。
(何で、何で、何でお前が……お前なんかが、スターライトの近くにッ! おれよりも近いところにッ!)
握りしめた拳が震え、瞳が急速に血走っていく。世界が徐々に赤くなっていくような感覚の中、北条は唇を噛みしめ――と、唐突に声をかけられた。
「おい、そこの看護科。何してる」
どこか聞き覚えのある声に顔を上げると、硬質な黒髪をソフトモヒカンにした少年がこちらを睨んでいる。すっと目を細め、北条は派手に舌打ちした。
「生徒会長様じゃないか……別に何もしていないさ。ちょっと迷子になっただけ」
「じゃあ何故、他人の下駄箱をじろじろと」
「何でもないって言ってるだろ、うるさいな」
「というかいつまでもそこにいるな、通れないだろう。あと下駄箱前のカーペットを上履き履いて歩くな」
「はいはい」
オカンかよ、と内心毒づきながら北条は下駄箱の前を離れる。だけどその唇は再び、血が出そうなほどに噛みしめられていた。脳裏に様々な人間たちが現れては消えてゆき、怒り、悲しみ、絶望、様々な表情が流星のように、花火のように。自分の教室に向かいながら、その意識はただ一人の少年だけに注がれていて――薄い唇から、細く血が流れた。
◇
(……うぅ……人いっぱい……怖い……)
教室の片隅の席に、焦げ茶色の癖っ毛の少年がちんまりと座っていた。切れ長の黒い瞳が素早く教室を見回し、ふと誰かと目が合う。刹那、彼はさっと顔を隠すように俯いた。黒い瞳に徐々に涙が浮かんでいく。席のすぐそばの扉が開くたび、彼は小動物のようにびくびくと顔を上げた。ひどく泣きそうな目をした彼に刺さるのは、見知らぬ人たちの奇異の視線。中には気を遣っているのか、隣の席の茶髪の少年のようにあえて彼を見ないようにしている者もいるが……それでも、身体の震えは止まらなくて。
――ガラリ、音を立てて後ろの扉が開き、彼は怯えるように顔を上げた。と、眼鏡越しの瞳と目が合う。二年ぶりに見つめたその瞳には不思議と責めるような光はなくて……それでも、そこには拭いがたい影が。震える手を伸ばすように、彼は傍に立つ少年へと震える唇を開く。
「……スター、ライト……?」
「……森永、か?」
その少年――山田の声も、幽霊に会ったかのように震えていて。だけど、どことなく覚悟の響きがあった。震える唇から、彼――森永はすぅっと息を吸い込む。あの日言えなかったこと、言いたかったこと、言わなければならないこと。深海に沈んだ宝石のような瞳をじっと見上げ、どもりながらも口を開く。
「あっ、あのね、スターライト……」
――と、スピーカーから鐘の音。脇腹を撃たれたかのように震え、森永は怯えた小動物のように周囲を見回した。ふっと目を細め、山田は口を開く。
「悪い、話はあとだ」
「えっ、あっ、そのっ」
何を言うべきかもわからないまま、森永は魚のようにぱくぱくと口を開閉させる。そんな彼をじっと見つめ、山田は握った手をそっとほどくように口を開いた。
「……話したくなったら、いつでも言ってくれ」
◇
「さて、今日から通信コースの生徒が編入準備のためにうちのクラスに来ているんだが……森永、自己紹介を頼めるか?」
「え、あ、は、はひっ」
震えながらもなんとか立ち上がるのは、未だに着られている感じのするベージュのブレザー。わさわさと揺れる癖っ毛を見つめ、神風は考える。彼もまた、桃園と同じように北条の手に落ちた存在。人に慣れていないのか、彼はわずかに上ずった声を絞り出した。
「もっ、森永佑貴、です……通信コース所属で、来年から、へっ、編入予定です……よろしく……お願いします……っ」
徐々に小さくなっていく声。ひとまず名乗り終え、震えながらも席に着く。教師の話を聞きながら、神風は細かく震える彼の肌をじっと眺めた。
(やっぱり全日制に通うのは何年かぶりだし、緊張してるのかな……同じクラスにはスターライトもいるし。大丈夫かな……それをいうなら、スターライトも)
ふっと反対側に目を向けると、山田は何かを覚悟するように唇を引き結んでいて。どこか祈るような横顔に、神風はそっと頷きかける。
(……大丈夫。ボクがいるよ)
◇
「もーりなーがクンっ!」
「!?」
唐突に声をかけられ、森永は小動物のようにびくりと身を震わせた。恐る恐る顔を上げると、そこには人懐っこく微笑んでいるウェーブヘア。その隣には面長ベリーショートの少年が、腰に手を当てて笑顔を浮かべている。
「あ、えと……」
「森永クンだよね? 俺ちゃんは柿原
「いや誰もお前のこともっちーなんて呼んでねえし。あ、俺は矢作
「あ、はい……よ、よろしく、お願いします」
小動物のような仕草で頭を下げる森永に、柿原は軽快に笑った。頭の後ろで腕を組み、言い放つ。
「そんな同級生相手に敬語とかやめよー? もう『もっちーシクヨロちゃーん!』とかでいいんだよ!」
「い、いや、でも……」
「いやホント、そんなかしこまられても俺らもやりづらいし。『ゆーちゃんナイストゥミーチュー!』とかでさぁ」
「二人とも……森永くん困ってるじゃないか」
「えー?」
不満そうにハモる二人に苦笑しながら、神風は森永に向き直る。いつものようにふわりと微笑み、そっと片手を差し出した。
「ボクは神風爽馬。折角隣の席になれたんだし、これからよろしくね」
「あ、はい、えと……よろしく、お願いします」
恐る恐るといった感じで手を伸ばし、森永は彼の手を握る。その手は雪の欠片のように冷たくて……彼は切れ長の瞳をかすかに震わせながら、神風の茶色の瞳をじっと見つめた。
「あ、あの……昼休み、一緒に話しても……いいですか……?」
「うん、勿論」
森永の瞳はちらちらと神風の背後を……すなわち山田を気にしていて。ふっと目を細め、神風は頷く。何も心配ないと、そう伝えるように。
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