第74話 ごめん、全然参考にならない
「あ、おはよう、辰也」
「……っ」
聞き慣れた神風の声。春風のように柔らかく、陽だまりのように眩しい声。耳を塞ぎたくなる衝動をこらえるように、御門は唇を引き結んだ。機械のような笑顔を浮かべ、俯いたまま言葉を返す。
「うん……おはよう、爽馬」
それだけ言って、足早に彼のもとを過ぎ去った。神風の優しさが、苦しくて、痛くて、口の中に広がる苦味に耐えながら席につく。進研模試前の教室はいつものように静かで、ぴりぴりとした緊張感があって……耐えきれそうになくて。
『なぁ……オレじゃダメ?』
「……っ」
脳裏に響く幻聴。耳にこびりついて離れない、懇願するような声。思わず目を瞑り、声を追い出すように呼吸を繰り返す。
(違う、違うんだよ……クレアのことは別に嫌いじゃない。でも、それ以上の感情なんてない……何勘違いしちゃってんの、馬鹿みたい。なんなの? 本当に、なんなの……?)
両腕で頭を抱え、肺の底から吐き出すような溜め息。その瞳はどこか泣きそうに揺れていて、その指先は壁を引っ掻くように震えていて。
(爽馬は爽馬で僕のことは恋愛対象じゃないだろうし……どうしろっていうのさ。何なのこの絶対に叶わない四角関係。誰か助けてよ……っ!)
滲んでくる涙を必死に堪えながら、御門はただただ呼吸を繰り返す。
◇
「ナオツグ! ヨータロー! おはようっていうかどうしてくれんの!?」
「ンだよ、朝からうるせえ。黙って勉強させろよ」
「どうしました、フラれました?」
「なんでわかるんだよッ!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏み、クラレンスは叫ぶ。B組全員の冷めた視線が赤毛に集中する中、顔から湯気を出しそうな勢いでまくし立てた。
「そーだよフラれたよ! オレが普段ガンガンアタックしてたの全部冗談だと思われてたよ! 直接フラれてはないけど、なんかそんな雰囲気だったよ! 泣きたい!」
「いや朝っぱらから泣くなよ……」
「それにしては元気ですよね」
「どう見ても空元気だろ……とりあえずまぁ座れや」
「わかったよ座るよぉ!」
いちいち大声で返事し、机に突っ伏すクラレンス。それを眺め、昴小路は小さく息を吐いた。
「これは……しばらくそっとしておいた方がよさそうですね。話くらいは聞いてあげた方がいいと思いますけど」
「だなァ……」
「うぅ……タツヤぁ……」
突っ伏したまま、泣きそうに彼の名を呼ぶクラレンス。その姿はまるで子供のようで、昴小路と鎌取は頷き合うのだった。
◇
「郁君こんにちはー」
「何故来る」
「相変わらずつれないですねー。一緒にご飯食べましょう」
犬飼の前の席を強奪し、昴小路はホットドッグを食んだ。犬飼も大人しく弁当を取り出し、包みを解く。手を合わせ、米飯に箸を伸ばす犬飼に、昴小路はそれとなく問うた。
「ねえ郁君。好きじゃない人に告白されたら、郁君だったらどうしますか?」
「…………」
箸でつまんだ米飯を見つめ、犬飼は石のように固まった。黒い瞳は右に流れ、左に流れ、また右へと彷徨う。ホットドッグの欠片を飲み込み、昴小路は思わず吹き出した。同時、頬を朱く染め、犬飼は食ってかかる。
「何がおかしいッ!」
「あはは……いや、こんなどうでもいいこと真面目に考えるとか、やっぱり郁君、真面目だなーって思って。あはっ」
「笑い事じゃないだろうッ!」
「まぁ、そうなんですけどね……でも、よかったです」
「何がだッ」
噛みつくような犬飼の声に、昴小路はタンポポの綿毛をそっと吹き飛ばすように笑う。そっと片手を伸ばし、彼の硬質な黒髪を撫でた。
(今の言葉で失恋したこと思い出す可能性もありましたけど……この調子なら大丈夫そうですね。思えばあれから2ヶ月くらい経ってるんです、多分大丈夫ですよね)
「なんでもないです」
微笑みを絶やさず、ただ犬飼の頭を撫で続ける。その感触に毒気を抜かれたのか、犬飼は肩に入れていた力を抜いた。そっと彼の頭から手を放し、ホットドッグをもう一口。
「まぁ、郁君は郁君のままでいてくれればいいんですよ」
「……っ、うるさい」
さりげなく差し出した言葉に、犬飼は撥ね退けるように言い放つ。そのまま弁当をかき込み始める彼に、昴小路はナナカマドの白い花のように笑いかけるのだった。
◇
「おう、薫。大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよー……しんどいっていうか、しんどいっ!」
後ろの席から響く呑気な声に、御門は思わず顔を上げた。振り向くと、わちゃわちゃと両腕を振り回している色素薄めの茶髪と、彼を見守るオールバックの黒髪。
「……桃園に鹿の人じゃん」
「だから覚え方ァ!」
「っていうか御門くん……クマひどいよ? 大丈夫?」
「え、嘘」
思わず目元に手を当てる。桃園は机の中から折り畳みミラーを取り出し、御門に突きつけた。手を放してよく見ると、確かに目元は真っ黒で。目を伏せる御門を眺め、桃園は鹿村の手元に手を伸ばした。お菓子の袋から小さな塊を取り出し、御門に差し出す。
「……何、これ」
「いちごみるくの飴ちゃん。いる?」
「いや『いる?』って聞かれても」
とか言いつつ飴の包みを解き、口に放り込む御門。比較的やわらかめの飴を噛み潰しつつ、二人を眺める。溜め息を吐き、鹿村は桃園の机に手をついた。
「つーかテメ、飴なしで集中力続くのかよ? 大丈夫か?」
「だ、だいじょーぶだよ!」
「いや、割と普段から授業中気絶してるよね?」
御門の口から反射的にツッコミが滑り落ちた。一気に表情がぎこちなくなる桃園に、御門はさらにからかうように続ける。
「頻繁に寝息聞こえてくるんだけど。あとたまに僕の椅子蹴ってくるのやめてくんない? っていうか単位大丈夫? 留年しないよね?」
「だっ、大丈夫だよ! 流石に赤点はとらないもん!」
なお、その赤点回避も一夜漬けによるそれである。完全にダメ学生である。そんな桃園と御門の間に割って入り、鹿村は彼にガンを飛ばした。
「テメ、言い過ぎだろゴルァ。いとこ様に喧嘩売ってんのか?」
「売らないよそんなもの。自意識過剰じゃない?」
「あんだとテメェゴルァ!」
「ちょっと壮五ストップ。事務所に怒られるよ」
「……おう……わりぃ」
伸ばしかけた手を即座に引っ込め、縮こまる鹿村。そんな二人を見比べる御門の表情に、夕闇のような陰影が落ちる。揃った動作で彼に視線を向ける二人に、御門はそれとなく問いを投げかけてみた。
「……ところでさー」
「うん」
「もし、好きでもない人に告られたら、どうすればいいと思う?」
「……」
二人は顔を見合わせ、交互に瞬きを繰り返した。その間に流れる空気に目を凝らし、御門は頷く。もしかしたら彼らは、ただの
「んー……あくまで薫だったらだけど、とりあえず付き合ってみるかなぁ。あ、他に付き合ってる人がいるってんなら、話は別だけど」
「俺だったらとりあえず俺ハ……じゃない、キープしとくな。ついでにファンクラブに勧誘する」
「……ごめん、全然参考にならない」
「なっ!?」
「はァ!?」
絶叫のデュエットが響く。よく似た目が二人まとめて飛び出さんと見開かれる。呆れたように息を吐き、御門は飴を飲み込んだ。
「まぁ、そこまで重く考えなくていいってことだよね。サンキュ。鹿の人、もう帰っていいよ」
「あぁ!? 何でお前に決められなきゃなんねぇんだよゴルァ!!」
「だから壮五落ち着いてー!」
大騒ぎする二人を尻目に、御門は財布を携えて購買に向かう。
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