第72話 たった二文字さえも言えないんだよ

「おーい御門」

「矢作、ごめん今日はいいや。B組行ってくる」

 矢作の脇を素通りし、山田と神風の隣もスルーして、御門は弁当を片手に教室を出た。その後ろ姿を見送り、神風はチーズちくわを飲み込む。誰もいない扉の向こうを見つめ続ける神風に、山田は麻婆丼の器を机に置いた。頬杖をつき、問う。

「……どうした。爽馬」

「いや……なんか辰也の横顔が、暗かったなぁ、って」

「……」

 目を伏せ、神風は幼馴染の横顔を想う。それは暮れかけた空のような色をしていて、漆黒の瞳にはどこか泣きそうな影が落ちていて、口元は孤独に耐えるように引きつっていて。

「大丈夫かな、辰也……誕生日からもう少しで1週間だけど、このところずっと様子が変だよ。辛そうっていうか、悲しそうっていうか……やっぱり、ボクは何か……」

「……いや」

 静かな声に、神風は顔を上げた。山田は神風の方を向いてはいるけれど、俯いていて。とても言い出しにくいことなのか、珍しく逡巡している雰囲気。

「……なんだい、スターライト?」

 促すように問うと、彼は揺れる視線を上げた。眼鏡越しの瞳が語るのは、確認の意思。恐らく、「言ってもいいのか」というそれだろう。答えを促すように頷き、春風のように微笑む。山田はしばらく瞳を揺らしていたが、不意に意を決したように顔を上げた。


「……もしって言ったら、どうする」

 その声は鉛のように重く、松明を思わせる香りがして。ぐっと伏せた神風の視線が、耐えきれずに震えた。親に離婚を告げられた子供のような声が、溢れ出す。

「……本当に?」

「もしもの話だ」

 山田の声は淡々としていたけれど、おもりを吊り下げられているかのように重く。神風の胸に、ごとん、と確信が落ちた。ごつごつとした岩のように転がるそれを抱え、神風は廃墟に吹く風のような言葉を吐き出す。

「……応えていいものじゃないはずだよ、それは。辰也のことは好きだけど、あくまで友達として、幼馴染としてだから……何よりボクにはスターライトがいる。でも、だからこそ……辰也は悩んでるのかな」

 表面張力で震える水のような言葉が響いた。俯いたまま、神風はどこか涙をこらえるように語る。

「知ってて何も聞かないのは、辰也を裏切ることになっちゃう……でも、ボクから話すとそれはそれで傷つけてしまう……どうすればいいんだろう」

「……」

 神風の声は今にも泣きそうで、山田はただ黙ってその声に耳を傾ける。その声が重く途切れたのに気づき、静かに口を開いた。


「……あいつも、わかってる。わかったうえで、悩んでる」

「……?」

「だから、放っておいてやれ……それが、優しさだと思う」

 神風の視界の中で、山田がそっと目を閉じる。祈るようなまぶたの裏には、どんな光景が映っているのか。知る由はないけれど、それでも山田は神風の心を導く道標になろうとしてくれていて。ミスミソウの花が揺れるように微笑みを浮かべ、神風は口を開く。

「……そう、だね。ありがとう、スターライト」



「あれ、タツヤ? 珍しいじゃん、B組来るなんて」

「うん。なんとなく、そんな気分だった。椅子貸して」

 とか言いつつクラレンスを押しのけ、椅子を強奪する御門。だけどその表情には薄暮の空のような影が貼りついていて。クラレンスの前の席と隣の席から、呑気な声が降ってくる。

「本当に珍しいな御門。雪でも降ンのか?」

「神風君の方はいいんですか?」

「鎌取も昴小路もうるさいよ。サンドイッチ投げつけられたいの?」

「食いもん粗末にすんじゃねェよ……」

 呆れたような鎌取の声。御門は床に胡坐あぐらをかいているクラレンスを見下ろし、ベーコンレタスサンドを頬張る。その眉間に皴が寄っているのを見つめ、クラレンスは立ち上がった。ビシィッと彼を指さし、眉間に爪を食い込ませる。

「……痛い。何すんの」

「なんか皴寄ってんぞ! 気ぃ抜けよ、笑えよタツヤ!」

「そんな気分じゃないよ。ちょっと大人しくできないの? 子犬なの?」

「犬じゃねーわ! ドーベルマンは好きだけど!」

「っていうか放して」

 御門の片手がクラレンスの手を握り、二つの手がせめぎ合う。それを眺め、昴小路はオムライスを食べながら呟いた。

「……犬といえば郁君ですね。鎌取君、僕が毎晩塾終わってから郁君のおうちに行って数学教えてあげてるって話しましたっけ?」

「毎日聞いてるわッ! そんで毎日惚気るなっつってんだろうがッ! いい加減やめろや、こっちの身にもなれッ! つーかそれでマウント取ってるつもりかァ!?」

「取ってますよ? 鎌取君のこと好きじゃないので」

「認めんなッ!!」

「あーあーうるさい」

「食うの早っ!!」

 ベーコンレタスサンドの最後の一口を飲み込み、御門は昴小路と鎌取を交互にねめつける。しかし何の痛痒も感じていないような二人に、御門は追い払うように言い放った。

「幸せだよねー昴小路は。好きな人に好きって言えてさ」

「……言いましたっけ?」

「知らないけど。でも普段から死ぬほどアプローチしてんじゃん。それに引き換え僕はたった二文字さえも言えないんだよ、好きな人に彼氏いるから。君にはわかんないよ、この気持ちなんて。だから黙っててよ頼むからさぁ!」

「いや、僕も長く片想いを」

「うるっさい!」

 言い放たれ、昴小路は思わず口をつぐんだ。クラレンスが口を開きかけて、言葉を飲み込む。御門はスープジャーを開け、どこか泣きそうに声を上げた。

「……爽馬のことは大好きだよ。誰にも負けないくらい大好きだよ。でも……爽馬と山田が一緒にいると、間には入っていけない気がしてさ……それだけならまだしも、とか思っちゃうんだよ。しんどいよこれ……すごくしんどい」

 その声は冬の夜、独りぼっちの子供が泣き叫ぶようで。不意に鎌取の視線が揺れる。瞬きをしたその瞼の裏に映るのは、こちらを睨んでくる犬飼の視線。そして、そんな彼にしつこくひっつく昴小路の幸せな笑顔。それはいい。よくはないが。問題なのは、犬飼の方も満更ではなさそうなことで……。


「……」

「ん、おっ!?」

 鎌取は無言でクラレンスの腕を掴み、御門の方へ押しやった。突然のことにバランスを崩し、彼の両手が伸びて……気付いた時には彼の両肩を握っていて。刹那、クラレンスの心臓が異常な心拍を刻み始め、体温は沸騰して、ついでに思考回路も湯気と化して。昴小路が頷く気配、背中を押すような鎌取の視線。きっと御門はいつも通りの冷めた目をしているだろうけど、それでも彼らの思惑は手に取るように理解できて。大きく息を吸い込み、クラレンスは御門の黒い瞳を正面から見つめた。


「タツヤ。帰ったら、めっちゃ大事な話しようぜ」

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