第64話 飯を食え
教室に入るなり目を細め、犬飼は大きく息を吐いた。その視線の先にいるのは机に突っ伏して白い灰と化している雨トリオ。真ん中の席にいる雨取の脇で腕を組み、彼は声を張り上げる。
「起きろ、お前ら!」
――刹那、教室中の空気が震えるような錯覚。はっと人間に戻る雨トリオに、犬飼は腕を組んで説教を始める。
「いいか? 修学旅行が終わった今、俺たちは紛れもなく受験生なんだぞ。そんなところで灰になってる場合か。机に突っ伏してる暇があったら勉強しろ」
「なんだよ議長! ちょっとくらい感傷に浸ってもいいだろ!」
「よくない、雨宮。大体、お前の志望校どこだ」
「……法政だけど」
犬飼から視線を逸らし、ぼそりと呟く雨宮。犬飼は即座に他の二人に視線を移し、問いを重ねる。
「雨取」
「俺? 青学」
「雨谷」
「明治、だけど」
「ことごとくMARCHだな」
鶴ヶ丘天使学園は生徒の自主性を重視しており、特進生徒の志望校もまちまちだ。国公立なら旧帝大クラス、私大なら早慶MARCH関関同立クラスを志望する生徒が大半を占めており、一人一人に応じたきめ細やかな指導が持ち味である。……その分、教師陣が費やす労力は一般的な進学校の数倍に値すると囁かれているのだが。それはともかく、犬飼は腕を組んだまま、さらに問いを続ける。
「で、判定は?」
「C」
「C」
「C.C.レモン」
「ふざけるな雨宮。Aを目指せAを。それでも鶴天特進生徒か。そもそも高2の10月時点での模試の判定はだな……」
「郁君ー」
「っ!?」
唐突にかけられた声に、犬飼は思わず飛び上がった。弾かれたように横を見ると、見慣れた茶髪の猫毛が揺れる。
「な、何故いるッ!」
「郁君に会いたかったからです。というか郁君、それは酷ですよ。修学旅行終わって3日と経ってないのにそこまで要求しては、嫌になっても仕方ないと思いますよ?」
「そうだそうだー!」
雛鳥のように同調する雨トリオを一睨みで黙らせ、犬飼は昴小路をキッと睨む。対し、昴小路は変わらず温厚に笑いながら、犬飼の痛いところを的確に抉りはじめた。
「というかそういう郁君だって東大B判定じゃないですか。数学ダメなせいで」
「ぐっ……」
「大事なことなのでもう一度言います。数学ダメなせいで」
「オイ昴小路、あんま犬飼をいじめんじゃねェ」
「な、何故鎌取までいるッ!」
A組教室の前の扉から顔を出し、ひょろりと背が高い影が口を挟んだ。むっと頬を膨らませつつ彼を半目で睨む昴小路。
「そうですよ。何でいるんですか。っていうかいつから聞いてたんですか」
「電車遅れたンだよ。んで、聞いてたのは『というかそういう郁君だって』の辺りからだな。つーか天下の東大なんだからBでも十分すげェだろ」
「い、いや、俺はA判定をだなッ!」
「本人もそう言ってるところですし? というわけで郁君、今日からまた夏休みみたいに僕による個別指導とかどうですか?」
「だから何が悲しくてお前にッ!」
さりげなく抱きついてくる昴小路に、犬飼は顔を真っ赤にして噛みつく。されどなすがままの犬飼に、雨トリオは冬の蛍でも見るようにぱちぱちと目を瞬かせた。盛大に溜め息を吐き、鎌取はカマキリが両腕を振り上げるように言い放った。
「昴小路テメェ、犬飼にひっつくなっつってんだろうが! 何でやめねェんだよ」
「いいじゃないですか。鎌取君は黙っててください」
「よくないッ!」
顔を真っ赤にしたまま昴小路の腕の中から抜け出し、犬飼はビシィッ! と彼を指さした。その指先が細かく震えているのを眺め、昴小路は小さく微笑む。
「とりあえずお前はさっさと教室に行けッ!」
「はぁい」
「鎌取、お前もだッ!」
「へいへい」
引き際は弁えているらしく、大人しく教室を出ていく二人。肩で息をしつつ、犬飼も自分の席に戻り、世界史の参考書に顔を埋める。そんな彼を呆然と眺め、雨谷はぽつりと呟いた。
「……あんな議長見たくなかったよ。夢ならばどれほどよかっただろうなぁ……」
「Lemon?」
◇
「……うー……いたたぁ」
4時間目が終わるなり机に突っ伏し、頭をぶつけたのか額をさする桃園。鞄から弁当を取り出しつつ、御門は彼を振り返って言い放った。
「……ねえ、それギャグのつもり? 全然面白くないんだけど」
「……」
「……桃園、生きてる?」
「……」
「……まぁいいや。柿原、席代わって」
「どうぞどうぞー」
いつものごとく神風の前の席の柿原と席を交換しつつ、御門は小さく息を吐く。桃園の成績不振っぷりは特進内部ではそれなりに有名で、どうやって厳しい内部試験をくぐり抜けてきたのかは鶴天七不思議のひとつにも数えられているが、御門がどうこうできる話ではない。柿原の席に腰を下ろした瞬間、後方の扉が音を立てて開いた。
「薫、いるかァ?」
「何だ、鹿の人じゃん」
「だから覚え方ァ!!」
「あ、光ヶ丘って言った方がよかった?」
「それだけはやめろゴルァ!! だったら鹿の人の方がマシだわ!」
御門の軽口に派手にツッコみつつ、入ってくるのはオールバックの少年。片手に一冊のパンフレットを携えた彼、鹿村は大股で桃園の机の隣まで行くと、乱暴にその背中を揺する。
「おい起きろ薫。昼休みだぞ」
「うぅ……起きたくない……勉強したくない……」
「……」
起きようとしない桃園に、鹿村は小さく息を吐いた。しばし頭を掻き、大きく息を吸って――耳元で大音声を響かせた。
「――飯を食えっ!!」
「ぴゃっ!?」
変な声とともに跳ね起きる桃園、一瞬静まり返る教室。様々な意味の視線が全身に刺さるのを感じながら、鹿村は桃園を見つめる。
「……え、何、壮五……?」
「お前、とりあえず飯ぐらい食え。頭回んねぇぞ」
「えー……食欲ないよー……」
「しゃーねーな。いとこ様が『あーん』したろか?」
「それは要らなーい」
バッサリと言い放ち、弁当を取り出す桃園。急に元気になったな、と半目になりつつ、鹿村は彼にパンフレットを突きつけた。きょとんとそれを見つめ、桃園はぱちぱちと瞬きをする。
「……それなに?」
「芸能科が年1でやってる公演会のパンフ。暇ではねぇだろうけど、勉強の息抜きにでも見に来いや」
「あ、うん」
適当に頷き、パンフレットに目を落とす。妙に真剣にそれを眺める桃園の頭を乱暴に撫で、鹿村はどこか気の抜けたように笑った。
「ま、期待しとけよ。いいもん見せてやるからよォ」
「そっか……頑張ってー」
「……聞いてねぇだろテメェゴルァ……」
呆れたように息を吐き、鹿村は桃園の頭から手を放す。桃園はしばしパンフレットの表紙に目を凝らし、ふと顔を上げた。
「……なんで表紙にでかでか写ってるのが壮五なのさ」
「そりゃ、俺がトップアイドル光ヶ丘夏輝だからだよ」
「……ノーコメントで」
「いやなんか言えよ!」
ただ半目で睨んでくる桃園に、鹿村は思わず派手にツッコミを入れる。桃園はそんな彼を無視し、無言でパンフレットを開くのだった。
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