第25話 いつか絶対
「……」
「……」
昨日とは打って変わって、犬飼家の書斎には沈黙が流れていた。必死にシャーペンを動かす犬飼の背にもたれかかり、昴小路は考える。
(……どうすれば振り向いてもらえるんですかねー……)
ずっとわかっていたのだ。犬飼の瞳に映るのは、いつだって神風ひとりで。彼の傍にはすでに男がいるにもかかわらず、犬飼は諦めることができない。それは昴小路の鏡映し。彼もどうしても、犬飼を諦めることができなくて。彼に聞こえないように、そっと息を吐き出す。不意にシャーペンを動かす手を止め、犬飼は不機嫌そうに口を開いた。
「……おい、昴小路」
「直嗣です」
「どけ。重い」
「嫌です。……郁君に触れていたいです」
後半は消え入りそうな声で、リナリアの花が揺れるように。微かに頬を赤らめながら呟いた言葉に、犬飼は怪訝そうに顔だけで振り向く。
「……お前、変態か?」
「違います。失礼な」
「ゲイなのか?」
「郁君に言われたくありません」
ぷいっとそっぽを向き、昴小路は言い放つ。犬飼は小さく溜め息を吐き、机に向き直った。昴小路は壁に並べられた書籍の波を眺めつつ、何気なく問う。
「だいたい、郁君は神風君のどこを好きになったんですか?」
「っ!?」
バキッ、と音を立ててシャーペンの芯が折れた。制服を着たままの身体を細かく震わせながら、犬飼は振り返ることすらせずに問う。
「……な、ななななんで、そんなことをッ」
「声、裏返ってますよ」
「うるさいっ」
バッと勢いよく振り返り、噛みつくように犬飼は言葉を叩きつける。
「何でそんなこと聞くんだって聞いてるんだっ。答えろっ」
「……ちょっと気になったんです。郁君はどういう人がタイプなのかなーって」
「知るか。俺が聞きたいくらいだ」
そう言い放ち、犬飼は机に向き直る。シャーペンを持つが、その脳裏にいつかの声が甘く響いた。
『……それじゃあ、ライバルだな』
「……っ」
夏の太陽のような笑顔が、張りのある甘い声が、脳裏に焼き付いて離れない。それは天使がそっと手を伸ばしているような光景で、その手を取らないわけにはいかなくて。幾度か目を瞑り、開く。参考書に集中しようとするも、脳裏は彼の笑顔で満たされたままで。頑として動かないシャーペンを放り出し、犬飼は振り返る。
「……昴小路」
「直嗣です」
「お前のせいで集中できなくなっただろうがッ」
「知りません」
顔を背けたままの昴小路は、誘いを断られた子供のように呟く。
「……郁君がわかってくれないのが悪いんです」
「何をだ」
「そのくらい、自分で考えてください」
再び犬飼の背に寄りかかり、昴小路は目を閉じる。
◇
『初めまして。特進A組、昴小路直嗣でーす!』
1年生の春、新生徒会の最初の集まり。学科・クラス混成とはいうものの、実質的にはほとんどが特進コースの生徒で占める生徒会役員には、毎年それなりの数の生徒が加入する。昴小路もその一人で、最初に自己紹介を頼まれたのだった。
『これから生徒会役員の一員として頑張ります。よろしくお願いしまーす!』
拍手が沸き起こる中、席に座る。当時の生徒会長が名簿を見ながら、次の新規加入者を指名した。
『――次、犬飼郁くん』
『はい』
短く返事し、立ち上がったのは硬質な黒髪をソフトモヒカンにした少年。鋭い漆黒の瞳が役員たちを睥睨する。彼は薄い唇を開き、鮮烈な言葉を響かせた。
『――特進B組、犬飼郁です。生徒会役員として、中途半端なことをするつもりはありません。この学園のために尽くすつもりです』
そして彼は選挙公約を語るように、堂々と宣言する。
『そして――生徒会長になります』
――世界が、虹色に塗り替わった気がした。
よく晴れた春の日差しに短い黒髪がきらめく。真摯な視線は叶えるべき未来を真っ直ぐに見据え、同時に誇りをもって輝いていて。昴小路の視線は気付いたら彼に釘付けだった。他の生徒たちの自己紹介など耳に入らず、ただ彼の横顔を見つめていて。不意に視線を感じたのか、その漆黒の瞳が昴小路を捉える。心臓がわずかに跳ねるのを感じながら、微笑みを返した。
◇
――あれから、一年と少し。
(……何で、気付いてくれないんでしょう)
いや、それは何度も考え、何度も同じ結論を出したことだ。それでも悩んでしまうのは、それが昴小路には変えられないから。
「……わからん」
不意にそんな呟きが聞こえ、昴小路は犬飼に視線を移した。彼はシャーペンを持ったまま、どうでもよさそうに言い放つ。
「お前が何を考えてるんだか、さっぱりわからん」
「……っ!」
昴小路の頬が、かすかに桜色に染まる。思わず彼は犬飼の肩をガッと掴み、全力で前後に揺すりはじめた。
「もー! 郁君の鈍チンー!」
「やめろ、何するんだ」
「この甲斐性無しー! ひどいですー!」
「は、な、せっ!」
半ば無理やり昴小路を振り払い、犬飼は口を開く。
「本当にお前、なんで拗ねてるんだ。気が散るだろ」
「だって、郁君が……」
そう言いかけて、昴小路は口を閉ざす。
『お前が何を考えてるんだか、さっぱりわからん』
その言葉はつまり、一瞬でも犬飼は昴小路のことを考えていたということで。少しずつ疼き出す心臓が道を示すまま、一度唇を引き結び、昴小路はにぱっと笑顔を浮かべた。
「――郁君に、もっと僕のこと、見てほしいんです」
「……はぁ?」
「神風君よりも、僕のことを」
訳がわからないというように目を細める犬飼に、昴小路は小首を傾げ、尻尾を振る犬のように微笑む。
「その方が郁君にとっても生産的でしょ?」
「まるで意味がわからん」
ふん、と視線を逸らす犬飼。そんな彼に小さく笑みを零し、天井を仰いだ。書斎の照明は、蛍光灯ではなく古めかしいランプが使用されている。
「……今はわかんなくていいです。でも、いつかわからせてあげますよ」
ゆらゆらと揺れるランプを見つめながら、昴小路は囁く。それは、ピンクのゼラニウムの花がそっと開くように。再び犬飼に寄りかかり、口を開く。
「あと、僕は僕です。神風君と比べないでください」
「……お前まさか、そんなことで拗ねてたのか?」
「そんなことって何ですか! 郁君の甲斐性無しー!」
「のしかかるなっ」
もたれかかってくる昴小路を振り払いながら、犬飼は振り返って彼を一瞥する。しかし反転して考えてみれば。得心がいった。犬飼だって、神風が他の男と仲良くしていれば気分はよくない。昴小路から視線を逸らし、ぼそりと呟く。
「その……すまなかった」
「わかればいいんです」
犬飼の頭をそっと撫で、年下の恋人に対するように微笑む。その額にキスを落とそうとして、やめた。昴小路から顔を逸らし、犬飼は再び机に向かう。満足げに頷き、昴小路は天井を仰いだ。
(――いつか絶対、振り向かせてみせます)
胸の中だけに決意を響かせ、昴小路は慈しむような目で犬飼を見つめる。
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