夏休み編
第23話 そうじゃないと困る
「だるい!」
「しんどい!」
「遊びたーい!」
――夏休み。そのはずが、教室には何事もなかったかのように生徒たちが集まっていた。窓の外で大合唱する蝉に負けじと、雨トリオの絶叫が響き渡る。教室はエアコンのおかげでからりと涼しいが、生徒たちを包む空気は梅雨に戻ったようにじっとりと重い。そんな彼らを睨みつけ、犬飼は噛みつくように言い放つ。
「甘ったれたことを言うな。俺たちは誇りある特進コースの生徒なんだぞ」
――鶴天普通科特進コースは、その名の通り超難関大への進学を目的としているコースだ。1学年80名という少数精鋭のため東大進学者の絶対数こそ少ないが、ほぼ全員が旧帝大クラス、あるいはMARCH以上のランクの大学に進学している。
「お前らも最難関大への進学を目指してるんだろ? つべこべ言わずに勉強しろ」
「んな親みたいなこと言うなよ、議長ー」
「俺たちだって遊び盛りの高校生なんだ。嘆くことくらい許してくれよ……」
「嘆く暇があったら勉強しろと言ってるんだ」
言うなり再びノートと向き合う犬飼。机を掘るような勢いでシャーペンが走る。
「海の日とお盆以外ぶっ続けの夏期講習なんて、この高校ふざけてるー!」
雨宮の悲鳴が教室の壁に
「……平常運転だね」
ひどく平和な光景を、神風は穏やかな瞳で見つめた。でも、と隣の席の山田に視線を移す。
「休みがほとんどないのは流石にちょっと辛いよね。折角の夏休みなのに……」
「別にいいだろ。どっちにしろ学校行けばお前と会えるんだ」
「……い、いや、それはそうなんだけど……」
乙女のように頬をほの赤く染め、神風は俯く。彼の内心を察したのか、山田は開いていた参考書を閉じ、問う。
「……8月3日の夜。予定空けとけ」
「え、いいけど……なんで?」
「これ」
山田が片手を振ると、魔法のように指先に二枚のチケットが現れる。思わず目を瞬かせ、神風はそこに記された文字を見つめた。
――第60回 いたばし花火大会
「……両親が見に行こうって取ったんだが、急に親父の仕事が入って。お袋もお袋で、どこだかの会社の株が不安定で目が離せないとか言ってたし、払い戻しもできない。捨てられかけのチケットが可哀想だったから」
「へぇ……山田のご両親も忙しいんだね」
「それなりには」
両親の本当の職業をあえて飲み込み、山田は片方のチケットを神風の机に滑らせた。彼はそれを受け取り、まじまじと見つめる。
「7時からだ。鶴天の最寄り駅から浮間舟渡までは電車で20分。徒歩でさらに20分」
「講習は5時に終わるから……途中、屋台を巡る余裕はありそうだね」
「ああ。ついでに場所取りする必要もない」
「あ、本当だ。指定席だ……って、S席じゃないか。本当にいいのかい?」
「お前以外誰を誘うんだ」
自分の分のチケットをクリアファイルに収めつつ、山田はいつものように淡々と言い放つ。その言葉は神風の胸に春風のように届き、思わず彼の表情が花の蕾のように綻んだ。
「……ありがとう。夏休みの間に、一緒にどこか行きたいと思ってたんだ」
「そうじゃないと困る。俺たち付き合ってるんだぞ」
「……うぅ、そうなんだけど……」
また顔を赤くして俯く神風を、山田は相も変わらず無表情で見つめていた。
◇
数学の参考書と睨み合い、犬飼は不意にシャーペンの動きを止めた。昼休みの喧騒も耳に入らない様子で、苛立ったように頭を掻く。相対しているのは空間ベクトルの問題。球利用したベクトル方程式の問題なのだが、何度挑んでも正解に辿り着けない。だが、諦めるわけにはいかなかった。ここで折れて何が都議会議員の子息、何が東大文科一類志望。歯を食いしばり、教科書に視線を移す――と、そこに背の高い影が落ちた。
「なーにしてるんですか。郁君」
顔を上げると、見慣れた猫毛の少年。相変わらず大型犬のような人懐こい笑みを浮かべ、犬飼を見下ろしている。
「……何故、お前がここにいる」
「5時間目で使う英表のワーク忘れたからですね。なので、貸してくださいっ!」
「仕方ない奴だな」
溜め息を吐き、机の脇に置いた鞄からワークを取り出して突きつける。
「ほらよ」
「ありがとうございます。やっぱり郁君は優しいです」
リードを出された大型犬のようにはしゃぐ昴小路だが、すぐに落ち着きを取り戻し、口を開く。
「でも、言い方がぶっきらぼうです。そんなだから郁君には友達が」
「何度も言うな、鬱陶しい」
バッサリと言い放ち、昴小路を追い払うように片手を振る。
「用が済んだならさっさと帰れ。勉強の邪魔だ」
「ふーん、球のベクトル方程式ですかー」
「勝手に見るなッ」
鉄球を投げつけるような犬飼の言葉をさらりと受け流し、昴小路は教科書を1ページめくった。そこに記された例題を指でくるくると囲う。
「わざわざ難しいやり方しなくても、球の方程式使えば余裕ですよ」
「……」
穴が開くほど例題を見つめたのち、犬飼は問題に目を移した。試しに手を動かしてみると、先程までとは打って変わって簡単に解が導き出せる。宇宙人でも見るような目をしている犬飼に、昴小路は思わず笑みを零し、口を開いた。
「見てられないので、理系の僕が教えてあげますよ」
胸を張る昴小路はB組、理系クラスだ。こと数学に関しては、文系クラスたるA組より秀でている。しかしその言葉を、犬飼は冷たく突っぱねる。
「要らん。何が悲しくてお前なんかに」
「だって郁君、友達いないじゃないですか」
――が、逆に情け容赦など一切ない一撃に、口を閉ざす羽目になった。散々弄られているが、事実、犬飼には友達がいない。仲良くなりたい人はいるのだが……と、斜め後方を見やる。当の神風は全くの無神経で山田と談笑していて、犬飼は思わず視線を逸らした。そんな彼を撫でるように見つめ、昴小路は口を開く。
「本命には想い人がいることですし、ここは僕で妥協してくれませんか? あと、しばらく郁君の家に泊めてください。うちは両親医者で、当直とか緊急オペとか頻繁にあるんです。だからろくに家族の時間が取れなくて、いつも寂しいんですよー」
「知るか。何でそこまで譲歩しなきゃならない」
険しい瞳で言い放つ犬飼に、昴小路は捨て犬のような表情で、ぽつりと呟く。
「……じゃあ、僕も通い婚で妥協しますよ」
「帰れ!!」
◇
「はぁ……」
7時間目を終え、桃園はふらふらになりながらも玄関を出ていく。
(勉強難しすぎるよ~……半分もわかんない……)
と、いうか。
(ニチゲイ行けって皆に言われて幼稚舎から鶴天通ってるはいいけど……小5辺りから段々ヤバくなりだして、中3ったらもう絶望……特進の内部試験もマークシート適当に塗ったら通りましたなんて、今更言えないよ~……)
壁に寄りかかり、嘆息する。
――と、サブバッグの中からバイブ音。スマートフォンを取り出すと、画面には「壮五」の文字が表示されていた。眉をひそめ、スマートフォンを耳に当てる。
「……何? 今、壮五と話す気分じゃないんだけど」
『ンなこと言うんじゃねェよ。俺も忙しいから手短に言うぞゴラ』
荒っぽい言葉遣いはプライベートの証拠だ。鹿村は桃園の返事を待たず、マシンガンのように続ける。
『8月18、珍しく丸一日休み取れたからよォ。表参道のカップル限定スイーツ、予約取っといたぜ』
「嘘!?」
――水を得た魚のように、桃園の瞳が一気に生気を取り戻した。色素薄めの茶髪を揺らし、兎のように周囲を跳ね回る。
「やったー! やったー! 見直したよ、壮五ー!」
『ハハッ、相変わらず単純だなオイ。ま、いとこ様に感謝するこった。じゃ、講習頑張れよオラ』
――ブツリッと音を立てて、通話は一方的に切れた。マンゴーの花を揺らす夏風のような衝動に突き動かされるまま、桃園はスマートフォンすら放り出しそうな勢いで玄関先を跳び回る。どうせ鹿村はインスタ映えしか考えていないだろうが、それでもよかった。カップル限定スイーツが食べられるなら、この際どうでもいい。
「やったー! やったー! これで地獄の講習もがんばれるー!!」
夏の青空の下、桃園は誕生日を間近に控えた子供のように、思いのままに飛び跳ね続けた。そこを家のものに見つかり、こってりと叱られるまでがワンセットである。
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