第2話 証明すればいい……

 今ならまだ引き返せる。

 お願いだから、誰か私を止めに来てよ。

 後悔は足から力を奪い取って私の心を鈍らせる。


 何度も何度も振り返る。

 目に映るのは、せせら笑う己の影のみ。

 期待は足から光を奪い取って私の心を擦り潰す。


 見上げた青空と並び立つビル群は、

 今や親指と人差し指でちょっとつまむ程度、ほんの2センチにまで縮んでしまった。


 それと反比例しながら膨らむのは、

 私にしかできないのだという使命感であり、絶対に成し遂げようという決意だった。


 あの坂を登ればきっと見えるはず。


 そう自分に言い聞かせながら歩き続けること数刻。疎らに生えた木々の隙間から覗く蒼い山肌に、再三挫けそうになる。


 それでも上を向き、歯を食いしばって一本道をつき進んだ。


 一本道?


 道無き世界に道が有る――誰かが私の道を作ってくれている? 一直線に海へと向かう道を。


 私を導く者がいる!

 そう思い至ったとき、私の足に活力の芽が生える。


 峠から見下ろす先、小さな背中を見つけた。


 必死に追いかけるも、なかなか距離は縮まらない。


 小高い場所に着くたび、立ち止まって前を覗き込む私と違い、ひたすらペースを維持して突き進む背中。


 もはや感嘆を通り越して驚愕の域に達する。


 しかし、道を切り拓くのと、辿るだけの差は大きい。


 ビー玉くらいだった背中は、やがて石を軽く投げれば届くほどになった。


『ネコさん、待って!』


 勇気を振り絞って声をかけた。

 思いが詰まった声が届いたのか、ペースを乱さず歩き続けてきた背中が突然止まる。

 一気に手の届く距離に迫る私。


『やっと追いついた! って、大丈夫?』


 振り返ったネコの姿を見て、全身に悪寒が走った。

 ボロ雑巾のような服を着て血塗れで立つ姿――それは、生と死の狭間を彷徨う亡者に見えた。


「ウサギが僕に何の用?」


 視線を外して呟く彼。

 悪意のない生ある音を聴いた瞬間、固まりかけの心臓が動き出す。

 軽く首を振り、先ほどの失礼な感想をリセットする。


『やっぱり気づいていなかったのね』


「何?」


『私がずっと後ろを歩いてたこと』


「え?」


 やはりそうだ。

 もし私に気づいていたら、逃げるか立ち止まるはずだもん。


「僕は帰らないよ」


『は? 何言ってんの?』


 私を凝視した後に出た彼の意外なセリフに、直観的に突っ込んでしまった。


「連れ戻そうとしても無駄だよ。僕の決意は固いから」


『ぷ……はははっ!』


 凄い勘違い!

 偶然に同じ道を歩いていたおじさんに“ストーカーはやめてください”と声をかけて恥をかいた思い出がよみがえり、思わず吹き出してしまった。


 実際問題、道を作ってくれる君を連れ戻すなんて、私には損しかないよ。


「お前は、何なんだよ」


 笑いを堪えていると、上目遣いに睨んでくる赤い顔と目が合った。

 あ、まずい……怒らせちゃった?


『ふふっ、ごめんね。私も同じ方向を目指しているだけだよ。君を追いかけていたわけじゃないからね。ふふふっ』


「偶然……ってことか」


 意外にもすぐに納得してくれて一安心。


『そう、本当に偶然』


「でも、目的地は違うだろ」


 そうかなぁ。

 遠くばかり見ていた私、足元しか見ていない君。

 でも、同じ所を目指している気がするよ。


『どうかしら。一斉に言ってみる?』


「いいよ」


『じゃあ、合わせてね。せーのー!』


「『海!!』」


 やっぱり!

 ガッツポーズが出ちゃいそう。


『あははっ! その顔、凄く驚いてる!』


「な、な、なんで海なんかに行くんだよ」


『海なんか、じゃないでしょ! 貴方だってそんなになってまで目指しているじゃん』


 改めて見ると、本当に酷い格好。

 爪が剥がれかかっている両の足、垂れた血が固まってできたであろう赤いシミだらけの服。

 見る物全てが彼の強い執念を感じさせる。


『でも、私だって海を目指す気持ちは負けないよ』


 ここまでは楽をしてきちゃったけど、もし立場が逆なら私が彼みたいな姿になっていたのかもしれない。


「どうして海に行くんだ?」


『初対面の子には話しにくいかな』


「初対面だから話せることもあるだろ」


 私なんかに興味を持ってくれる人がいるんだ。

 久しぶりに誰かとたくさんお話ししたいかな。


『初対面の時期はもう過ぎてるから君の理屈には納得できないけど……いいよ、教えてあげる。でも、まずは君からね!』


 私は足元に落ちていた小枝を拾い、蜘蛛の巣を払いながら小走りになる。

 私のリードはほんの数秒間で、すぐさま彼が私の隣に追いついた。


「僕が先頭だぞ!」


 こうして、私とネコさんの奇妙な旅が始まった。



✩.˚✩.˚✩.˚✩.˚✩.˚✩.˚✩.*˚



 死にに行くため


 そんなこといきなり言っても引かれちゃうよね。

 理解できない人に言っても、届くわけないよね。


「死ぬ? お前にそんな勇気ないだろ」

「死ぬ? 解決せず逃げたいだけだろ」

「死ぬ? ふざけないで勉強しなさい」


 誰も私を信じてはくれないんだ。

 誰も私を認めてはくれないんだ。

 誰も私を助けてはくれないんだ。


 誰も、誰も、誰も……。


 ある日、机の中で見つけた手紙。

 書かれていたのは、時間と場所。

 何も考えずに向かった単純な私。


 ただ、目的が知りたくて。

 私の好奇心の赴くままに。


 そこに居たのはクラスの男子一人。

 壁に寄りかかりチラチラ見てくる。

 そして小さすぎる声で告白された。

 私は何も返事をせずにただ逃げた。


 怖くて、

 意外すぎて、

 信じられなくて。

 追いかける音は聴こえず、

 いくつもの笑い声だけが耳に届く。


 前後反対向きに置かれた机。

 上下逆さまに寝転がる椅子。

 机に彫られた汚く怖い言葉。

 最初は友達が直してくれた。

 友達は泣いて怒ってくれた。

 私は気づかないフリをした。


 でも、でも、でも……。


 目を合わせてくれなくなった。

 挨拶ができなくなっていった。

 気づいた頃には独りになった。

 学校にいる時間が長く感じた。


 父は友達を虐めていたことを自慢する。

 母も虐められる方が悪いと笑って言う。

 私は家族に相談する勇気が出なかった。

 先生は知っていて見て見ぬふりをした。

 学校を休む理由を考えるようになった。

 学校なんか消えてしまえと神に願った。


 そっと首を振る。

 そんなに便利な魔法なんてない。

 そうか、私自身が綺麗に消えればいいんだ。


「死ぬ? お前にそんな勇気ないだろ」

「死ぬ? 解決せず逃げたいだけだろ」

「死ぬ? ふざけないで勉強しなさい」


 そっと耳を塞ぐ。

 そんなに軽薄な決意で言ってない。

 そうか、できることを証明すればいいんだ。

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