第20話 Three card Deal!
意気揚々と先導するジャックに連れられたダンとアンネがやって来たのは、大通りの先にある広場だった。
ちょっと待ってろ、と少年少女に言い残すと、ジャックは出店の一つへと向かって行った。
去り際に指し示された道路沿いの花壇の縁に、アンネは素直に腰掛ける。ダンはその側、少女を庇うように立ち、辺りを警戒するように見回していた。
通りの様子は、一見した限りではごく平和な昼下がりだ。しかし人が多いという事は紛れて近付くのも容易だということに他ならない。行き交う人々の中に見知った顔が——或いは見知らぬ殺気立った顔が——ありはしないかと、ダンは隙の無い視線を巡らせる。
「ダン」
頑なに緊張を解かない少年に、アンネが声を掛けた。
「どうかした?」
少女との距離を数歩分詰め、ダンが小さく答える。アンネは小さく首を振った。
「ううん。あのね、ダンと会えてよかったなって」
投げかけられた話題は随分と唐突だった。首を傾げるダンに向け、大袈裟なほどに広い帽子のつばの下、辛うじて覗いた色素の薄い唇がにこりと笑う。
「ヘクターがね、ダンはいなくなったんだ、にげたんだって言ってたの」
「それは——」
言葉に詰まったダンの脳裏に、ヘクターと最後に会った夜の記憶が蘇る。
複数人に一部屋という比率であてがわれていたシングルルームに訪れたヘクターは、ダン以外の住人に出て行くよう指示し、碌な説明も無しに例の薬を打とうとした。アンネがこっそり教えてくれた事前知識が無ければ、有無を言わさず毒牙に掛かっていた事だろう。
土壇場でのダンの抵抗は、ヘクターにとっては予想以上のものだったらしい。互いに睨み合いになっていた所に、慌てた様子のヘクターの部下が、薬と売り上げの一部が持ち逃げされたとの報を持って来た。
常に沈着そのものだった男が苦々しげに顔を歪めたその一瞬で、少年は今しかないと腹を括った。
ヘクターも伝令の男も突き飛ばし、ダンは部屋から、ひいては雇い主であったホテル・ロイヤル・ロイスそのものから飛び出した。
逃避行に一切の躊躇も迷いも挟まなかったのは、ここを逃げ延びねば後はないと判じたからだ。その判断に間違いは無かったと、自信を持って断言出来る。
しかし、アンネと交わした約束を果たさぬままホテルを去ったのもまた事実だ。
——悪気は無かったとは言え、傷付けてしまっただろうか。
知らず顔を強張らせたダンの内心を察してか、アンネは再び首を横に振る。
「あのクスリのことだろうなって思った。ヘクター、ダンならもしかしてっていつも言ってたから。だからその時は、ダンはちゃんとにげられたんだなって思って……だけど、もう会えないのは、ちょっとさみしいなって」
声のトーンを落としたアンネに、ダンはホテルで関わった面々を思い出す。あそこにはアンネと同じ年頃の——否、それ以前にそもそも子供など一人もいなかった。だからこそアンネは、歳の割には寡黙なダンにも臆せず話しかけて来たのだろう。
とは言え、二人が言葉を交わした日々はたった一月にも満たない。「居なくなって寂しい」などと面と向かって言われるのは、ダンにしてみればどうにも不思議な心地がした。
「だからね。新しいようじんぼうの人が外に出してくれたとき、わたし、ダンをさがしに行こうって思ったの。会えるかどうかはわからないけど、まずは探してみようって」
そう言葉を続けたアンネは、そっとダンのパーカーの裾を引く。
「だから、また会えてよかった」
「……そう、だね」
笑みを深くした少女とは対照的に、ダンは浮かない表情で視線を落とした。
アンネの脱走を、ダンは当初から快く思っていない。ただでさえ平和そのものとは言えない街で、仮にも庇護してくれていた組織からたった一人で逃げ出すなど無謀に過ぎる。その一因を自分が担ったようなものだとあれば、少年の胸中は複雑だった。
それから程なくして、ジャックが二人の元に戻って来た。「いやぁ待たせた!」と満面の笑みを浮かべる彼の手には、紙に包まれた焼き菓子が三つ抱えられている。
「これ、なぁに?」
ジャックから手渡されたものをまじまじと見つめて、アンネが訊ねた。
「これはな、ワッフルっていう……まあケーキみたいなもんだな。普通はもっと小せえが、ここのは特別デカくて美味いんだ。食ってみな?」
ざっくばらんな説明と共に世間知らずの少女を促すと、ジャックは少年の方にも気遣うような視線を向ける。
「ダン、お前は?」
「知ってはいるよ」
食べたことは無いけど、と視線を逸らすダン。決まりが悪そうなその様子に苦笑を漏らし、ジャックはダンにもワッフルを手渡した。
「んじゃ、ほら。ガキが遠慮するもんじゃねぇぜ?」
「……ありがとう」
釈然としない顔で受け取ったダンの隣で、ワッフルを一口かじったアンネが声を上げる。
「おいしい……!」
「だろ! 味も腹持ちも良いって街でも評判なんだぜ」
得意げに話し始めるジャック。アンネはそれを興味深そうに聞く傍ら、ワッフルを口に運ぶ手も止まらずにいる。余程気に入ったのだろう。
そんな二人を見詰めるダンの表情は晴れない。
すごいね、美味しいねと小さく呟きながらワッフルを頬張る幼い少女。それが見た目通りにか弱いだけの子供でない事は——保護者の元を一息に飛び出せてしまう強さを持っている事は、ダンもよく知っている。けれどそれは、世間を一人で生き抜いて行く為に必要な強かさとは違う。
そして、たった今彼女の見せている純粋さも笑顔も、守らなくては——護られなくてはならないものだと、少年は思うのだ。
手元の焼き菓子を手早く片付けると、ダンは少女の名を呼んだ。
「アンネ、やっぱり君は帰らないと」
「え?」
少年の提案に、アンネは驚いて顔を上げた。暫しまじまじとダンを見詰めていたアンネだが、やがてその表情に冗談も迷いも無い事を悟ると、静かに唇を震わせる。
「なんで……? 折角外に出られたのに……それに」言いかけて、一瞬の躊躇を見せるアンネ。続く言葉には、明らかな怖れが透けていた。「戻ったら、ヘクターが」
そんなアンネの両肩を、ダンが正面から掴む。びくりと身を竦ませた少女の顔を正面から捉えて、いいかい、とダンは噛んで含むように告げた。
「確かにあいつは凄く怒るかもしれない。けど、このまま外に居たら君はどうなる? この先ずっと一人で生きていくつもり?」
「それは……」
口籠った少女の視線は答えを探すように暫く宙を彷徨い、やがて地に落ちた。その様子を見たダンは、自身の主張の正しさを確信したように小さく頷く。
ダンに言わせれば今回のアンネの脱走は事後処理にまで考えの及んでいない、衝動的な家出のようなものだ。計画性や勝算といったものからは程遠い。
そういう要素の少ない盤面がやがてどちらへ傾いていくか、少年は身をもって知っていた。
「ヘクターは君が嫌がることをするかもしれないけど、絶対に君を殺しはしない。あいつと居た方がずっと安全なんだよ。分かるだろう?」
そこで一度言葉を切る。長い息を吐き、ダンは続けた。
「あいつが怖いのなら、僕も、一緒に行くから」
「おい、良いのか?」
少年の予想外の言葉に慌てたのはジャックだ。
雇い主から逃れる事は、当面のダンの第一目標だった筈だ。それも、危険があるから逃げ出したのではなかったか。
ジャックがそう問い質すより先に上がった否定の声は、しかしダンのものではなかった。
「──……いや。」
小さく、しかし決然とした呟きに、ダンとジャックが驚きの視線を投げる。二人分の注視を受けて、尚もアンネは頑なに首を振った。
「いや。わたしは、もどらない」
「アンネ、」
宥めようとするダンの声をかき消すように、アンネはこれまでになく鋭い声を上げる。
「いやなの!」
勢い任せに腕を振り払われ、ダンが大きく姿勢を崩した。思わず数歩よろめいたダンの前に立ちはだかり、アンネは叫ぶ。
「ずっとひとりで、外に出られるのはお仕事のときだけで! それだって、いやだって言ったらすごく怒られて! わたし、あんなの、もうやりたくないのに!」
「アンネ……だけど」
食い下がろうとするダンの言葉も耳に届かぬように、アンネは更に言い募る。
「わたし、わたしだってずっと、他の子みたいにあそんでみたかった! でもヘクターといっしょにいたらそんなのきっとずっとできない、ぜったい許してなんてくれない! だからわたし、もう、今しかないって……なのに、なんで……」
相変わらず窺えない顔を俯かせ、アンネはきつく拳を握り締めた。言葉を重ねるにつれ小さく震える声は激情のせいか、それとも。
「——いよっし!」
重たい空気を破るように、唐突にジャックが声を上げた。最後の一口だったワッフルを飲み込んで、勢いその外紙を握り潰す。
「お前らに何か事情があんのは分かった、それに対する立場がダンとアンネの嬢ちゃんで違うのも分かった。なら」
空いた両手をパン、と威勢良く鳴らし、ジャックは満面の笑みを浮かべた。
「とりあえず、遊んでみっか!」
「ジャック!?」
食ってかかろうとする少年の肩を抱き、ジャックは「まあ聞けよ」と少年を宥める。
「お前の言うことも分かるけどな。それは、一番最後は嬢ちゃん自身が決める事だ。違うか?」
ぽんぽんと肩を叩かれたダンは、反論の言葉を見つけ出せずに口籠った。
仮にダンの言い分通りにホテルに戻り、例の保護者とアンネとの間に何らかのトラブルがあったとしても、赤の他人でしかない少年がたった一人で責任を取り切れるような話ではない。結局のところ、最後に状況に対処するのはアンネ自身だ。その意味で、ジャックの言葉に反論の余地は無い。
「んで、話聞いてる限りじゃ嬢ちゃんは碌に遊んだことが無い、と。だったらまずは遊んでみねぇと、知らないままじゃ何にも選べやしねぇだろ」
少年少女の間に入ったジャックは、「な?」とアンネに笑いかける。アンネは随分と高い位置にあるその笑顔を見上げ、恐る恐る呟いた。
「……あそんで、良いの?」
「おう。ただし条件がある」
言いながら、ジャックはアンネの目線の近くにまで腰を落とす。無理に顔を覗き込むような事はせず、代わりに帽子の上から少女の頭に手を添えた。
「良いか、よぉく考えて遊ぶんだ。俺は嬢ちゃんが普段どんな風にしてるかは知らねぇが、一人で生きてくってのはすっげぇ大変な事なんだ。かと言って、元いたところに帰るっつっても、滅茶苦茶に怒られるかも知れねぇんだろ? それこそ、ダンが危ないって言うくらい。そんな中で、嬢ちゃんは何をしたいのか、すべきなのか。難しいだろうが──」
「考える!」
食い付くようなアンネの反応に、ダンは勿論、提案者であるジャックまでもが思わず面食らう。そんな二人の反応に構わず、アンネは必死な様子で言葉を繋いだ。
「ちゃんと、いっぱい、考えるから! だから、わたし……!」
「だとよ、オニイサン?」
物理的にもアンネの肩を持ったジャックにそう笑いかけられれば、ダンに反論の余地は無い。
「……分かったよ」諦めの吐息と共に、ダンは頷く。「ただし、少しだけだからね」
渋々といった様子の返答に、アンネも満足はしていないらしい。帽子で表情こそ隠れているが、明らかに不服そうなオーラを放っている。
「……ダンがいいって言ってくれるように、いっぱい、考える」
「おっ、言うねぇ嬢ちゃん」
じとりと呟かれた宣言に合いの手を入れれば、すかさずダンの一睨みが飛んで来る。持ち主より雄弁な視線を受け流して、ジャックは少年の背をばしんと叩いた。
「安心しな。嬢ちゃんがそれを決められるまで——お前が身の振り方を決められるまでは、俺達が力を貸してやる。この街でも最高のホスト役、カジノ・ショーメイカーがな」
そのまま少年少女の背を押して、ジャックは高らかに宣言する。
「よっしゃ、じゃあ早速行くか! ショーメイカーの名物ディーラー直々に、この街の見所って奴を教えてやるよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます