完全再現

 木目が美しいスタインウェイのグランドピアノ。

 俺は鍵盤蓋を開け、鍵盤の上に被せられた布を丁寧に折り畳む。


 これから弾くショパンのスケルツォ第二番は、発表当初音楽評論家達からのウケが悪かったのだそうだ。

 暗い曲調からの最序盤や、十分以上もかかる演奏時間は、“スケルツォ”の定義から外れるからとかなんとか。

 頭でっかちな事を言う輩はどの時代にも居るのだ。


 瑠璃さんの幼馴染、倉橋大和はこの曲が持つ意外性を際立たせるような演奏をしていた。

 その華やかさや大胆さは、瑠璃さんにも通ずる所であり、この一週間繰り返し聴く中で、俺は幾度となくCD-Rをかち割りそうになった。


 少し辛辣な事を言ってしまえば、叙情的すぎてクドイかな、と思いはした。

 だけど俺の価値観なんぞどうでもいいのだ。少なくとも今は。


「大和はね。プレッシャーに弱すぎたんだ。どれだけ練習しても、本番でそれを発揮出来なかった。自分よりも実力のない人にコンクールで抜かれて、煽られたみたいだね」

「たぶん、ピアノの練習よりもメンタルトレーニングとかの方が必要だったかもしれませんよ」

「ああそっか、そういう乗り越え方もあるんだ」


 舞台に一人上がり、楽譜に書かれた膨大な情報量をミスらず弾く、というのが重圧なのは分かっている。

 他人事に思えるのは俺がそうではないからだ。

 母親の方針で幼少期から大人達の前で演奏させられていたため、人前でもあまり緊張しない。

 これが俺にとって大きなアドバンテージになっている。

 幼少期の自由を奪われた俺と、本番に弱い倉橋大和のどっちがマシなのかは不明だけど。


 ピアノの前に置かれた椅子に腰掛け、瑠璃さんの方を見た。

 容姿に恵まれ、才能も人望もあるのに、何でたった一人に拘るのかと思う。

 付き合いが長かろうと、所詮は他人だ。足並みを揃えようとか、フォローしてやろうとか、考えるべきじゃない。

 そろそろ目を覚ましてほしい。


「弾きますね」

「うん」


 両手を鍵盤の奥の方に翳し、軽いタッチで下ろす。


 倉橋大和の演奏は、作曲者本人がそう指定したと言われるように、“遺体安置所の中のような”陰鬱さでスタートしていた。

 そして、すぐに起こる劇的な変化。

 俺は指を鍵盤の先へと移動し、弦が良く鳴るポジションでヒステリックに奏でた。


 そこまで完璧に再現すると、瑠璃さんは感嘆の声をあげた。


「素で驚いちゃった! 本当に大和みたい!」

「ここで終わりじゃないです」


 出だしと同じフレーズに変化を付け、よりドラマ性を持たせていく。

 拘束から解放されたかのように自由になる音色。

 両手を鍵盤の上で走らせ、清々しいフレーズを情感タップリに表現する。

 会った事もない相手がこの部分を気に入って、何度も何度も練習していたのは明白だ。

 他の箇所よりもかなり小慣れていた。


 曲の中盤に差し掛かる頃、瑠璃さんはもう何も喋らなくなった。

 たぶん、この演奏に引いてしまったんだろう。

 こんなに長々と彼女の親友の演奏を再現しているのだから、無理もない。


 俺は母親の遺伝で、音楽分野に限っては妙に物覚えが良い。

 母親の演奏を模倣する所から始まり、技量が伴うようになってからは有名ピアニストの弾き方を真似た。

 自分独自の演奏をするようになったのは、本当に最近だったりする。

 江上琥珀から合唱部に拉致られ、“歌の翼に”を披露した時が初めてなのだ。


 だけど、今彼女の姉の為に、また他人のコピーをしているのだから不思議なものだ。


 後半部の音域の広いアルぺジオを華やかに弾く。

 鍵盤の右側に指を走らせていくが、最も高い音を捉えるよりも早く、右手が捕まえられた。


「あ」


 口を半開きにして、俺の手を包む綺麗な手を見る。

 この部屋には今二人しか居ない。

 瑠璃さんが、俺の演奏をやめさせたんだ。

 恐る恐る彼女の顔を見上げれば、気まずそうな表情を浮かべていた。


「もう充分だよ。分かったから……」

「今の演奏を聴いて、どう感じましたか?」

「……想像していたのと少し違ってたかな。あまり懐かしくなかった」

「え、似てましたよね?」

「それは間違いない! でも、同じようには感じられなかったかな」


 ということは、勝負に負けたんだろうか? 評定をハッキリ告げてほしい。

 怪訝な顔をする俺にかまわず、瑠璃さんは話を続ける。


「あたしずっと大和を才能の塊みたいに思ってた。一度や二度コンクールを失敗したとしても、いつかきっと芽を出すだろうなーって考えてたんだよね」


 俺の右手を握る彼女の手に力が篭った。

 手の骨がゴリッと移動したけど、苦情は言わないでおく。


「でもさ。今日改めて聴いてみたら、かなり子供っぽいっていうのかな。浅いなって思ったんだ。前は特殊なフィルターごしにでもアイツの演奏聴いてた感じ?」

「俺に聞かれても……」


 彼女が言うところの“特殊なフィルター”とやらは、恋愛補正とかなんだろうか。

 潜在意識の中で倉橋大和を好きだから、素晴らしい演奏に聴こえやすくなっていたが、俺の事は心底どうでもいいので、チープな演奏に聴こえたとかか?


 だとしたら俺は哀れなピエロになってしまう!

 倉橋大和の演奏を再現してしまったばっかりに、彼女に秘めたる想いを自覚させる事態になりかねない。

 それを阻止するため、適当な事を言って、瑠璃さんが己の心と向かい合わないように仕向ける。


「あー、たぶんそれって、倉橋さんの記憶が薄れたからですよ。そのうち存在自体を完全に忘れます」

「ふーん」


 瑠璃さんはその可愛らしい顔に、性質の悪い笑みを貼り付け、俺の左肩と椅子の背もたれに手をかけた。

 やたらと近い。


「な、なんですか!?」

「そんなにアタシの事を分かってくれてるんなら、今の望みも分かるよね?」


――全然分からない!!


 意味不明な質問に混乱するけれど、この距離感は素晴らしい。

 クラクラしながら俺の望みを口にした。


「キ、キス」

「ブブー!! 違うんだよなぁ!」


 乱暴に頬をつままれ、俺はギリリと歯軋りする。

 こんなに近寄られたら、そう思ったとしても仕方がないじゃないか!


「じゃー、何ですか?」

「君の演奏を聴かせてよ」

「今弾きましたよね!?」

「分かってないな~、”大和の“じゃなくて”君の“スケルツォを弾いてほしいんだよ」

「あの……、俺で遊んでません?」

「このくらいの意趣返しくらい、許して」


 瑠璃さんはデスクから自分の椅子を持ってきて、俺の隣に座った。

 そこに居られると、ピアノを弾く時に腕が当たりそうなのだが……。


――てか、この人さっき俺とかわした約束を有耶無耶にする気だったりしないよな?


 疑いの眼差しで彼女の方を向くが、その横顔からは俺の演奏への期待しか読み取れない。


――まぁ、弾き終わったら問い詰めてみよう。


 ゲンナリしながら弾き始めたスケルツォは、倉橋大和と比べものにならない程に雑だ。

 しかも、ひたすらにテンポを上げた所為でミスりまくる。

 呆れた眼差しに笑って誤魔化し、今度はちゃんと弾いた。



 

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