2章-47話 月を見上げて
部屋に戻ったシンヤは誰もいない室内で自身の変化を確認していた。
その場で跳躍してみたり、地面を殴ってみたり、反復横跳びをしてみたり、傍で見ている人がいたらおかしな人だと揶揄されたことだろう。
「別段変わった事はない……か」
結果変化はない。先ほど魔物と相対しているときに感じた肉体の向上感もなく、殴った地面も拳が痛くなっただけ。ならばと座り込んで自身の内面に向き合い、魔力の流れをみてみるもよくわからない。
シンヤは自覚を持って肉体強化していたわけでは無く、アウラの力で強制的に魔力を流してもらっていただけだ。魔力の循環等々に理解があるわけではない。他に考えられる理由は、応答の無いアウラの助けか、そう考えればあの身体強化も頷ける……だがそれでもまだわからない事があった。
肉体の崩壊が起きなかった事だ。
アウラによる身体能力の強化は器を壊すほどの魔力の奔流で、強弱はつけられない。シンヤの肉体は二秒も強化していれば壊れ始めるはず。だが、今回は二秒どころか数分は動きが向上していた。
アウラの強化だったのであれば、今頃血みどろになって倒れていただろう。
首を捻るシンヤだったが、答えはわからずにクロエ達が帰ってくるまでの間うんうんと唸っていただけ。
帰ってきたクロエ達の集めた食料、それをシンヤ達は日持ちするように加工し、日の出と共に山頂へと出発することになる。
準備を終え翌日に備えて、床につくことになったのだった。
◆ ◆ ◆
全員が寝静まったのを見計らってシンヤは部屋の外へと出る。
聖都を出てから上手く睡眠がとれていない。
この世界に来てからシンヤは疲れない身体になっている。それでも眼を瞑っていれば、まどろみの中意識を手放す事が出来ていた。それは肉体の疲れとは別に精神を支える上で必要な事だからだ。
だが最近は目を瞑るとシーナの最後が瞼に浮かび、シンヤは碌に眠る事が出来ていない。
壁に背を預け座り込んで空を見上げる。谷の合間から薄っすらと見える大きな月は、立ち込めた霧のせいで霞んでいた。それでも月の光は霧中を照らしており、視界を確保できる程度には明るい。
「シーナ……」
意図せず口から洩れ出た言葉、その名は誰に聞かれるわけでもなくシンヤの頭の中にだけ反響していた。
ほんの数日。
たったの数日程度の事しか彼女の事を知らない。
それどころか本当の彼女すらわからないままいなくなってしまった。シンヤの中にあるのは数日間の現実と植え付けられた記憶、そして届かなかった想いだけ。
後悔していないと言えば嘘になるだろう。
あの時、彼女に殺されていれば良かったのではと。そう思い出すとシンヤの瞼が熱くなってくる。未だあの瞬間の決断を飲み込めてなどいないのだから。
「……シンヤ、どうしたの?」
「クロエ……ちょっと寝付けなくて……」
不意に声がかけられる。シンヤは負の感情を一旦押し殺して、声の主であるクロエへと顔を向けた。
「隣……座ってもいい?」
「あ……うん」
返事を待ちクロエは隣に座る。
風の音以外のない屋外で、二人は言葉なく佇む。お互いの顔を見ずに空を見上げ、時間だけが静かに過ぎていった。
「シーナさん……どんな人だったの?」
「っ?!」
静寂を破るクロエの唐突な問いに、シンヤは驚きながら彼女の顔を見る。その表情は憐れみでも慰めとも違い、ただ純粋にシーナの事を知りたいという、そんな問いかけだった。
「……シーナと会ったのは記憶を操作されている時だった。だから本当の彼女をおれは知らないんだ……」
しばらく言葉を選ぶようにして、俯いていたシンヤだったが、一度口元を引き締め、ゆっくり口を開く。聖都を脱出して一週間は過ぎているが、一度もシーナの事を話さなかった。
自分の中で整理が出来ていなかったという事もあるのだが、シンヤ自身が人に話せるほど彼女を知らないからだ。
「でも、シンヤは好きだったんでしょう?」
「……ああ。好きだった。好きになったんだ……」
あの時、シーナに伝えたかった言葉。その言葉が届いていたのか確認する術はもう無い。シンヤの胸の奥には今もじりじりとした想いがしまわれている。
ほんの数日だけの記憶と、何十年も前から知っている偽りの記憶。そして彼女の決意と行動。シンヤはそれら全てでシーナを好きになったのだ。
「おれはさ。小さいころから大人の目を気にして生きて来たんだ。そうしなければ生きていけないって思って……だから自分の感情をぶつけたことがなくて、自活できるようになるまでは嫌いな大人の言いなりだったんだよ」
正面を見据えるシンヤの眼には霧に包まれた崖が見えているが、脳裏には思い出したくない幼少期の辛い日々が映されていた。
幼い頃の生きる術。両親を亡くしたシンヤが過ごした生活は決して楽なものではなかった。親類をたらい回しにされ、行きついた先で暴力から逃げる為に身に着けた術。
逆らわずに生きる事が学生時代までのシンヤだった。
「シーナは自分の中にいる違う自分を受け入れて、その上で逆らえないはずのものに逆らっておれを助けてくれたんだ。もちろんそれが本当の彼女かって言われればわからないんだけど……でも、それでもおれといた彼女は最後まで自分を見失わなかったんだ」
魔法による精神への作用で、シーナは不安や苦悩、激しい苦痛すら感じていたであろう。シンヤも多少ではあるがそれを実感させられた。
だが彼女は、そんなそぶりも見せずにシンヤの為に行動して見せたのだ。
「……たぶんそんな姿が眩しくて、かっこよくて、あの子の為に何かしたいって思った。だから好きになったんだと思う……」
「素敵な人、だったんだね……」
「ああ……」
人を好きになったのは初めてだった。それを自覚し、認識し、自分に確認して、シーナの好意に答えようと思った。それなのに、希望を抱き未来を想像して、想いをきちんと伝える前に彼女はいなくなってしまった。
全てあの男が、マグルスが元凶なのだ。人を思いのままに操ろうとするあの男さえいなければ、シーナが苦悩する事も、シンヤが彼女をその手にかける事もなかった。
それを思い起こすと身体の芯から怒りが込み上げてくる。
「……あんな風に利用されていいはずがないんだ」
「そうだよね……でも……憎しみだけで生きちゃダメだよ……」
クロエの声にひび割れた心の中心から叫びが起こる。シンヤを一瞬で黒く染め上げるような瞬間的憤怒。
「……っ!! クロエに何がわかるって言うんだっ! シーナはおれが殺した。おれが殺したんだよっ!」
怒声が響く。
クロエを見つめ、シンヤは抑えられない怒りの言葉を並べる。それは彼女にぶつけるものでは無く自身に向けた怒り。
あの男を憎まなければ、行き場の無い怒りはどこに吐き出せばいいというのか。
自身の手で犯した過ちを誰が正してくれるというのか。
やりようのない想いが霧の谷に木霊する。
「今でもこの手に剣を振った時の感触が残ってる……お前にはわかんないだろっ!」
「……」
クロエは何も言わない。言い返さない。沈黙し、怒りの声に耳を傾けている。その顔は悲しみに満ちているが、それでもシンヤに対する憐れみでは無く。
まるで当事者だったというような瞳。
なぜそんな眼をするのか。
不意にシンヤの脳裏に前にセラが語った話が甦る。
クロエの弟アルベルト。その最後を思い出したのだ。
彼は村を守る為に魔物に殺されたと、クロエは間に合わなかったのだと。
ならば、彼女の弟はクロエが屍人にならぬように火葬したのだろう。
母親も同じくきっとクロエの手で……。
「っ!? ごめ、おれ、怒鳴るつもりは……」
「いいの。シンヤの今の気持ちは、少しだけわかるから……でも……」
この世界では死が近い。家族が、恋人が、友人が、明日には死んでいるかもしれない。そんな世界なのだ。事実シンヤ自身も森の村での知人や尊敬できる師、友人になれたであろう人々の死をこの短期間で経験している。
そんな世界を五年もの間生きてきたクロエが、わかっていないはずがないのだ。
それを理解した上で彼女は言葉を続ける。
「シンヤが死んだら……彼女は悲しむよ」
「……っ!?」
「わたしはシーナを知らないけど、シンヤが好きになって、彼女もシンヤを好きだったのなら、絶対に死んでほしくないって、そう思ってるはずだよ」
声にならない。クロエの穏やかに話す言葉に、返す言葉が見つからない。世界の理に抗ってまで、殺したくないと、そう言ったシーナがシンヤの死を望むはずがないのだ。
「この世界ではね……本来死んだ人の魂は天界に行くけど、しばらくは現界に留まるの。そうして近しい人の傍で見守ってくれてるんだって」
どこかで聞いたような話。日本で生きていたころはそんな話あるわけないと、そう言っただろう。だが、ここは異世界、あらゆる非現実が現実になっている場所。
「天界が閉じて行き場を失った人は屍人になるけど、シンヤのおかげで屍人にならなかった彼女はきっと、見守ってくれてると思うの」
シーナは屍人にならなかった。だから、天界には行けずとも、魂の変異はなされず、まだシンヤの傍にいると、クロエはそう言っているのだ。
放心し、辺りを見回すが、当然幽霊などという存在をシンヤは認識できない。
「だから。絶対にシンヤは死んじゃダメ」
「……いる、のかな。見ててくれてるのかな」
「……うん。きっと見てるよ」
「……そっか」
シーナはきっとシンヤを見守ってくれる。そう言ったクロエの言葉に、心の重しが少し軽くなった気がした。
「クロエ……ありがとう」
「ううん。いいの。あと、無茶もしちゃダメだからね。シンヤ弱いんだから。アウラも寝たままなんでしょ?」
「弱いは余計だけど……アウラは眠りっぱなしだよ。おれにはまだいるのかすらもわからない。レアなアイテムだって言ってたくせに、肝心な時に役に立たないんだからな」
右手に嵌めた指輪を見つめ、反応の無い相棒に文句の言葉を並べる。まだここに居るのなら少しは答えてもらいたい。だが、霧を抜けて届く薄い月の光に、指輪の宝石は瞬くばかりで、あの独特な声が聞こえてくる事は無かった。
「もしかしたら聞いてるかもよ」
「聞いてたらむしろ怒鳴ってこいって」
「ふふっ」
もし答えてくれるなら小言くらいいくらでも聞くと、シンヤがしかめた顔をしていると、それを見てクロエは短く笑う。
「さて、もう寝ますか……明日早いんだしな。クロエごめんな、気を回させちゃって」
「いいの……もう、大丈夫そうね。じゃあ先に戻ってる」
「ああ、ありがとう」
心のひび割れが治ったわけでは無い。未だマグルスに対する深い憎しみはシンヤの中で燻っている。ただ、刺し違えるつもりでいたが、あの男の為にせっかくシーナが生かしてくれた命を使うのはもったいないと、そう思えるようになった。
部屋へと戻るクロエを見送り、シンヤは薄っすらと見える大きな月を見上げる。
死んででも殺すのではなく、生きて、生き足掻いてマグルスを殺すのだと、シンヤは改めてそう誓うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます