2章-48話 崖底の川

 どんな物事でも回数を重ねれば、ある程度ではあっても慣れる事が出来る。だが、数回外に出たくらいで、恐怖を完全に克服する事は出来なかったようだった。


 柵の無い崖は垂直に切り立っていて、左右に広がる暗闇の裂けめはシンヤの肝を縮み上がらせていた。


 「うわぁ……」


 シンヤは別に高所恐怖症というわけでは無い。


 それでも、見下ろす崖下は前回同様霧に包まれ、底を見通す事は出来ず、身体を打つ吹きさらしの風は、シンヤを吹き飛ばしてしまいそうな程に強いのだ。


 この状況で怖くありませんなどとは口が裂けても言えない。落ちれば死ぬと本能がシンヤに訴えかけてきているのだから。


 この世界に来てから鍛えた身体は、垂直な崖を登攀とうはんする事を可能にしているかもしれない。時間はかかるだろうが、慎重にそしてゆっくりと降りれば……いや無理だろう。いくら身体能力が上がろうと、シンヤにはこの切り立った崖を落ちずに降りるイメージが出来なかった。


 となれば来た時と同じようにステラの世話になるかだが、それはそれで怖い。シンヤは背後の崖の壁と眼下の崖下を見比べて顔を青くしていた。


「なんだまだブルってんのか? こんなのひょいって飛び出せば地面に着くだろう」


「その時はおれ、死んでるけどね……」


 不意に声をかけてきたのはステラだ。シンヤはその言葉に振り向かず崖下を見たまま固まっている。脳裏に地面に血の花を咲かせている光景が過り背筋を冷たい物が伝った。


「あ、飛べないんだっけっか。人間は不便だなぁ……でもないか、あいつらは平気で降りてたしな」


「おれにはあんな身体能力も魔法も使えないのっ!」


 あっけらかんと話すステラは腰の翼をはためかせて言うが、普通の人間は垂直の崖を滑り降りないし、重力を無視して浮かんだりできない。


 簡単に人が来れないからこそ、鳥人達はここに仮里を造ったのだから当然と言えば当然だ。


「……おまえ……なんでついて来たんだ?」


「すみませんねっ! こんな場所にあるって知らなかったんですっ!」


 完全に足手まとい状態のシンヤが、なぜ他の二人と一緒に行動しているのかステラは疑問なのだろう。


 まさか断崖絶壁に里があるなどとは考えてもいなかったのだからそれも仕方のない事。だからといってシンヤに着いてこないという選択肢は無かったのだが……。


「まあ。なんにせよもう行くぞ。ほら捕まれ」


「あ、ああ。ごめ……てっ!? ステラさんっ?! ちょっ、まっ……あああぁあぁあぁあぁあぁぁぁっ!」

 

 捕まれと言っておきながらステラは返答を待たずシンヤの腰を掴み、来た時と同じにいきなり地面を蹴る。浮遊感に包まれ落下していく恐怖に悲鳴が漏れ出てしまう。


 地面に着くまで悲鳴が伸びていたのだが、幸いにも今回は魔物に目を付けられることは無かった。


「ほら、すぐ着いたろ?」


「はぁ、はぁ、あんたは鬼かっ!」


「こういうのは思いきりが大事だって爺も言ってたぞ」


 数十秒の滑空で崖底に辿り着き両手を地につけたシンヤは、良い笑顔で笑うステラを恨めしそうに睨んでから周囲を窺う。そこは地の底なのだと言われても違和感がない、浅く水が流れている川の岸。濃い霧のせいなのだろうが、太陽の光はあまり届いておらず薄暗い。


 それでも何も見えないと言う程では無いのは、崖上に比べて霧が薄いからなのだろう。


「はぁ。死ぬかと思った……」


 未だ心臓がバクバクと耳に届くほどに打ちなっていたが、シンヤは立ち上がって空を見やる。まるで水の中から見上げているように幻想的な光景なのだが、時折、魔物の影が見えるので、純粋に景色を楽しむことは出来ない。


 ほどなくクロエも降りてくる。ゆっくりと降りてくる彼女と違い、リュートは数十m以上ありそうな高さから飛び降りてきた。鍛えれば自身もあれほどに強靭な肉体になるのだろうかと、シンヤはその姿に艶羨えんせんの眼差しを向けた。


 あんな力があればロニキスは死なずにすんだのだろうか?


 シーナを死なせてしまう結末も変える事が出来たのではないだろうか?


 そんな考えが頭の中を埋める。わかってはいるのだ。シンヤにリュート程の力があったとしても足りない事を。もっと全てを変える事の出来る力。例えば神の力でもない限り結果は変わらなかったと。 


 ぴしりっ!


 また心にヒビが入る。シンヤの中で治ることの無いひび割れが広がっているのを感じた。


 昨夜クロエの言葉で少しは救われた気持ちになっていたのだが、負の感情を消すには至らない。


「なんだ? あまりじろじろ見るな。気持ち悪い……」


「……いつも妹をガン見してるお前にだけは言われたくないっ!」


 無言でリュートを見ていると棘のある言葉が飛んでくる、そのもの言いに、思考の海から強制的に引き戻されたシンヤは、考えていた暗い想いをしまい込み言い返す。


「はっ! 俺はクロエを見守っているだけだ」


「いやいや。お前のはストーカーだからなっ!」

 

「はいはい。そこまでにして。あんまり騒ぐと魔物が寄ってきちゃうよ」


 リュートと言い合いを始めるとクロエが止めに入った。


 頭上で飛んでいる魔物達も、今はシンヤ達を襲い来る様子は無くとも、いつ気が変わるかわからないのだ。


 四人は川の左岸を進み始める。多少霧が薄いとはいえ、日の光が届きにくい崖底は視界が悪く足場も悪い。森とはまた違う歩きづらさに気を使いながら目的地へと向かうのだった。


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