閑話 幼き出会い
大貴族に嫁ぐ。
それはずいぶん前から決められていた。軍務を取り仕切る侯爵は齢五十を超えている。自分の父親よりも年齢が上の男に嫁ぐ事に、抵抗が無いわけでは無かったが、父の決めた事に反論するなどとは、幼いセラにとって思いも付かなかった事だ。
それでも、もう鞭で打たれる事が無くなるのだと、心のどこかで安堵している自分がいた。
侯爵の邸宅に移ってすぐ、婚礼を前に彼は反逆罪で捕まってしまう。軍を私物化していたことが公になったからだ。
醜悪な顔をした未来の夫が捕まった事に、何の感慨も浮かばなかったが、また父の元に戻らなければならない事にセラの心は沈んでいた。
「貴女がセラね」
そんなセラが居るのは皇都の城内。
父の住まう伯爵領に戻されることなく、来た事も無い場所になぜ自分が連れてこられたのか城の一室でセラが不思議に思っていると、ノックもせずに入って来た少女が話しかけてきた。
自分よりも幾分年下に見えるその少女は、腰に手を当てて自慢気に見上げてくる。
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
初対面のはずの少女に名を訪ねる。透き通った白い肌に鮮やかな碧眼、長い栗色の髪を丁寧にまとめているその顔だけ見れば、きっと上流貴族の御息女なのだろうが、その服装はちぐはぐだ。
ここは皇城なのだから、女性であれば普通はドレスを着る。だが、目の前の少女は質こそ高い物なのだろうが、着飾るという言葉と逆の姿。
ここでは少なくともズボンを履く者などいないはずだった。
「わたし? わたしはクロエよ」
「……皇女殿下っ!? 申し訳ありません。大変失礼致しました」
少女が名を口にすると即座にセラは頭を下げる。
その名が帝国の皇女の名だったからだ。皇女殿下は栗色の髪をした少し破天荒な方だと、話には聞いていたはずだったのにとセラは冷や汗を流す。
この国を支配する皇帝には三人の子供がいて、娘が一人いる聞いていた。不敬だと言われてしまえば、また父に鞭打ちをされることだろう。
「ちょっとセラ。いいから顔を上げて、お話出来ないでしょ?」
頭を下げ自身の失態に歯噛みしていると、頭上から皇女の声が降ってくる。とりあえず叱責を受ける事が無いと、セラは安堵しながらゆっくりと顔を上げた。
「わかりました。それで皇女殿下が私にどういった御用なのでしょうか?」
自分のような一貴族の娘に、なぜ皇女が会いに来ているのかセラには状況が飲み込めない。表情には出さぬように思考を巡らせながら必死で顔を造る。
なんにしてもここで皇女の不興を買うわけにはいかなかった。
「貴女はブレダ侯爵と婚姻予定だったのでしょ? 侯爵が捕まったから、父様が貴女の事を知って、わたしのお付きにしてくれたのよ」
「皇女殿下のお付き?」
物心つく頃からセラは様々なスキルを身につけさせられている。それは上流貴族の妻になる為でもあり、また高貴な方へと仕える為でもあった。当然メイドとしても大人に負けない程にこなす自信があった。
「そうよ。専属でわたしのお世話してもらうの。本当は他の人が伝えるはずだったんだけど、気になって抜け出してきちゃった」
「……っ!?」
セラは言葉を失う。
微笑むクロエの笑顔に目を奪われたからだ。
それが初めて見る作り物でない他者の笑顔。
早くに母を亡くしたセラの周囲には、父アリオンの歪んだ性格もあって笑顔を見せる人など誰もいなかった。眼にするのは憐憫か偽りの笑いばかり、皆父の不興を買うまいと仕事としてしかセラに接していなかったのだ。
「それでね。年の近い子が世話係になるって聞いて、嬉しくなったの。わたしより少し年上見たいだけど、セラはいくつなの?」
「……わ、私は今年で十になります」
「じゃあ二つお姉さんなんだ」
ぐいぐいと悪意無く話かけてくる皇女に、セラは困惑の表情を浮かべ言葉を返す。それを聞いてクロエは嬉しそうに両手を顔の前で合わせた。
「……ふう……失礼ですが、私が世話係になるとしましたら、もう少し下々の者との対応を学んでもらわなければなりませんよ」
対応に苦慮したセラだったが一度目を瞑り、大きく息を吐き意識を切り変える。文字通り血の滲む思いをして身に着けた教養の中には、上位の人物との接し方も含まれていたのだから。
「えーっ。良いでしょ。今は他に誰もいないんだから」
「駄目です。普段の行いが公の場に出てしまうものなのです」
これは良い機会だ。
父はきっと喜んで自分を皇室のメイドにしてくれるだろう。侯爵の妻の肩書よりも、皇女の傍仕えの方が余程箔がつくというもの。
あそこにはもう戻りたくない。そう考え思考を忠実なメイドへと切り替えた。
「セラって見た目通り堅苦しいのね」
「なっ……」
せっかく切り替えた思考を眼前の皇女はばっさりと切り捨ててくる。
厳しく躾けられてきたセラにとって、当たり前の事を否定された上、堅苦しいなどと言われ言葉に詰まったのだ。
「もう少しじゅうなん? にならないとダメよ。母様が言ってたわ……じゅうなんで合ってるのよね」
「……柔軟ですね。合ってますよ」
話し方も考え方もおよそ八歳には思えない程のクロエだが、まだまだ覚えた単語を使っているだけのようにも思える。それでも、年齢に似合わないそのどこまでも透き通った青い瞳は、従者としての仮面を被ろうとするセラの内面を見透かしてくるように感じられた。
「でも、嫌な人じゃなくて良かった。これからよろしくねセラ」
「わかりました皇女殿下。よろしくお願い致します」
「だから固いのよ。それと、皇女は禁止ね」
畏まって会釈するが、むくれた顔のクロエは納得しない。だが、言われた通りにするわけにもいかず、困惑するセラは二の句を言い淀む。
「……では姫様と」
「ダぁメっ! 名前で呼んでっ」
どうしていいかわからないままセラは口を開くが、それでも目の前の小さな暴君は気に入らないようで、頬を膨らませている。
何が駄目なのだろうとまた必死で思考を巡らす。
「……クロエ様」
「呼び捨てでもいいわよ」
「いえ流石にそれは……」
敬称を省くわけにはいかない。どこで誰が聞いているかわからないのだから。出来れば一定の距離を保って世話係をすることが理想なのだが、どうやらそれは叶いそうになかった。
「うーん……まあそれでいっか。じゃあよろしくねセラ。じゃあさっそくだけどわたしがお城を案内してあげるね」
「っ……!?」
そう言って腕を引くクロエの顔には満面の笑みが浮かんでいる。想像以上に奔放な性格だった皇女の、日の光にも劣らない眩い笑顔につられて、セラも少しだけ頬を緩ませるのだった。
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