猫のセールスマン
凡野悟
第1話
○
今日も今日とて代わり映えしない1日だった。起きて、飯を食べ、刑務作業。物盗りどもと同じ建物で生活。ベッドに横たわっていると外から発情した猫の可愛げのない呻きが隙間風と共に侵入してきた。猫は好きだ。凛とした佇まいで姿勢よく歩いていると思ったら、だらんと横になったり、俊敏に逃げ出したり、こちらへ媚びを売るような態度をしましたと思ったら次の瞬間には爪を立てて引っ掻いてくる。そんな不揃いの情緒がまた愛くるしいのである。
窓を開けて外を覗くと、口元にちょび髭のような模様のある三毛猫がこちらを見ていた。その猫の目は真っ黒で目を合わせていたら吸い込まれてしまいそうな、そこの見えない池のような深い目だった。普段ならやらないことだが、ここ静岡の非日常に溶け込んだ私は猫に声をかけてしまった。こんばんはと礼儀正しい挨拶を雨に濡れた三毛猫に、しっかりと頭も下げた。猫はこちらを見つめたまま右前足を自らの懐に差し込んでごそごそと何かを探したと思うと、白い紙を取り出した。両前足を添えてこちらに向けてきたその紙切れには名前が書いてあった。どうみても名刺だ。
『畠山 三毛』
そう書かれた名刺を、私は両前足で丁寧に受け取った。礼儀正しく名刺を渡してくれたはいいが、こんな時間に窓の外にいるのは些か無礼ではないだろうか。その旨を伝えると猫は申し訳ないと眉を寄せて、首をペコリと折った。あまりにもきちんとした謝罪にこちらが申し訳なくなり、つい気にしないでくださいと口走ってしまう。猫の、畠山三毛の表情がパッと明るくなり、彼はハキハキと要件を話し始めた。
○
つまりとても良い石鹸があるから売りつけに来た。そういうことだった。しかし最初に名刺を渡してくるなんて丁寧な押し売りは初めてですよと伝えると畠山は心底おもしろそうにそうなんですと微笑んだ。
押し売りはもうだめだ。あんなやり方では誰も買ってくれないし、法律もかわってやりにくくなってきた。押して駄目なら引いてみろという言葉があるでしょう。それと同じことなのです。私は押し売りではなく"引き売り"なのです。畠山の言っていることは意味がわからなくて愛想笑いをする他なかった。ハハハ、乾いた愛想笑いは静岡の雨を吸い込んで重く膨らみ、行潦を流れて消えていった。愛想笑いを覚えたのは14歳のときだった。当時心身ともに脆弱だった私に目をつけた、同じく14歳の小悪党に毎日いびられているうちに自然と、面白くもないのに笑えるようになったのだ。カピカピに乾いていても笑い声は人と人の間に滑り込み摩擦を減らしていく。こんな不毛なことで表情筋を使いたくない。可能とあらば、嘘の笑顔なんて必要ないくらい楽しくて可笑しい毎日を送りたいものだ。
さて本題に入りましょうと彼は再び懐に前足を突っ込み、猫の手のひらサイズの小さな石鹸を取り出した。まるで小石のような白くて丸い石鹸をこちらに見せながら、この石鹸がどれだけ良いものかを説明してくる。これで頭を洗えば、余計な脂はすべて流れ落ち、薄くなった毛髪はフサフサに生え始め、枝毛はくっついて1本の毛に戻るという。これで顔を洗うと肌荒れはたちまち治ってゆで卵のようなつやつやプルプルになる。体を洗えば、たちまち異性が寄ってくる素敵な匂いだという。
こんな大げさな商品説明は、デパートに売っていたら誇大広告もいいとこである。しかし同じ眉唾商品でも猫の口から聞くと不思議と信ぴょう性があるというか、数万円なら試してみようかという気持ちになってくる。これが引き売りと言うやつの効果なのだろうか。お一つ試してみたいな、と申し出て畠山の前足に乗った石鹸に手を伸ばすと、彼はいきなりシャーッと声を荒げ、鋭い爪で私の手を引っ掻いた。彼の目にあった夜の海のような深みはすでに失われ、かっと開かれた瞳孔が野生の警戒心を隠そうともせずこちらを睨んで来るのであった。どうしたんですかと声をかけるやいなや、彼は素早く振り返って走り出し、雨降る夜に消えていった。
一人窓際に残された私は血の滲んだ右手を擦る。突然走り去った彼が残した石鹸を手に取ると、それは紛れもなくただの小石であった。『畠山 三毛』と書かれた名刺を見ながら、これだから猫は気まぐれで困る、とため息を漏らした。
猫のセールスマン 凡野悟 @TsuKkue
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