第3話 影法師は黒いまま

 その日から人間の暦では一年近く、錆たちの縄張りである和尚とやらのお寺で過ごした覚えがある。

 しかしながら、チビだとか、地位がどうだとか言われては、ろくにまともな食事にありつけた覚えがない。それでも、寺の獲物は全部自分のものだと言い張る錆の目を盗んでは寺の下に潜んでいるネズミを四苦八苦しつつ獲り、なんとかかんとか命だけは繋いだ。

 そのうち、ボクは好き勝手にネズミを獲って食いつないでいくほうが性に合っているのだと認識していくようになった。生まれついての性格なのかボクはどうも他人に隷属することは好きになれないようだ。

 ボクは、人の言うところの冬のある日、錆に断ってから寺を出た。彼のことだ。別れくらい正式に済ませておかなければ、いつ何時取り巻きを伴って大変なことをしでかしかねないと思った。

 寺の境内の植物という植物に霜を降らし、和尚の頭を悩ませるほどに朝は冷え込んでいたものの、空は気持ちよく晴れ、昼頃には比較的動きやすい気温にまで上昇してきた。

 さて、ねずみ取りはもう熟練したとして勇んで出ていくと宣言したものの、行くあてなどあるはずもなく、ただ街を彷徨い歩いた。

側溝や裏路地などで目についたネズミには漏れなく仕掛けてみたが、街の複雑な地形をまんまと利用され、勝手知らぬボクの脚の間を何度もネズミたちがすり抜けていった。たったひとりで越す最初の半日は散々な結果に終わった。

 ボクは四足歩行のために落とせない肩を落として東京の大通りの脇をとぼとぼ歩いた。

日が西の方角に傾き始めている。そろそろ本腰を入れて休める場所を探すべきだ。我々猫族は、人族のように朝起き出して昼に活動し夜に床につくといった規則正しい生活を送っているわけだはなく、各々の好きなときに動いて好きなときに休息する。しかし今日のような冷え込む日の夜は寒さに弱い猫にとってはゆっくりとしたいものであった。

 とぼとぼ歩きのまま、暖かくて暗く寝床にちょうど良さそうな場所を探す。何処も彼処も人間だらけだ。気の休まる間もない。生け垣をくぐった先の立派な建築に手頃な破れ目を認めて潜りこもうとするも、先客の三毛猫に「にゃーお」と間延び気味に威嚇された。

惨憺たる思いで騒がしい大通りに逆戻りする他なかった。もとに通った生け垣を抜けだして歩道に出る。

 そうしてボクは不本意ながら通りがかりのご令嬢の前を横切る形になった。


「あ、黒猫さんだ」


 突然に頭上から降ってきた声にボクは立ち止まってそちらの方を見上げる。


「ねえねえ、お母さん。黒猫がわたしの前にいるよ。なにか起こるの?」


 しきりに洋服の裾をつまんで引っ張る娘を、母親は優しくたしなめた。


「そんなの迷信よ。大丈夫。またお祖母ちゃんに変なこと吹き込まれたのでしょう。黒猫が目の前を横切ったら不幸になるなんて、気にしないの」


 語りかけながら、母親は娘を守るように手を回し、ボクのそばをいそいそと過ぎ去り、曲がり角に消えた。

 ボクは特に気にするべきものは何もないと自らに言い聞かせ、あくまでゆったりと交互に四本の脚を動かす。しかし思考は独自に走り始めていた。

 どういうことだろう。

黒猫が目の前を横切ると不幸になる? そんな迷信があってたまるだろうか。

ほんの偶然、人間の少女と黒い猫のボクが進む方向と、二者がとある一点に差し掛かる時間が重なっただけだ。

それだけで、ボクがどうしたら少女とその母親の運命に干渉できるというのだろう。

 馬鹿馬鹿しい。

 ヒトはこのような根も葉もないことを信じることがあるのだという和尚の立ち話を小耳に挟んでいないこともなかったが、実際身をもって感じるのとは大違いだ。

 何度も言うが、馬鹿馬鹿しい。

 それに、どうして猫ではなく黒猫なのであろうか。果たして黒猫だけが人族の害悪になることでもあっただろうか。

 思えば、黒猫がもたらす不幸の存在を否定した母親の方でさえ娘を腕で庇って、ボクへ不用意に近づけまいとしていた節があった。

この迷信はそれだけ人族の間に浸透しているのだろうか。

 通りからそれて住宅街に縫うように張り巡らされた砂地の道路をあるき続け、ようやくボクは先客の気配がない古ぼけた納屋を見つけた。柵を飛び越えて庭に侵入する。

 木を組み合わせた母屋であろう建物には、片方が欠けた耳をそばだてても人気は感じられなかった。それでも念には念を押して、見通しの良い開けた庭は駆け足でやり過ごした。例の迷信がどうも頭を離れない。もしこの家の主が御在宅中で、家の外壁越しにでもボクがその前を横切ったのだとしたら、ボクは顔も知らない人族の運命を不幸なものにしてしまうのだろうか。

 納屋の正面に設けられたヒトのための正規の出入り口は、残念ながら固く南京錠で閉ざされていた。仕方なくボクの足の先から耳の天辺までの高さの三倍はあるところに設けられた小窓から入ることにする。後脚に思い切り力を込め、地を踏み切る。庭の雑草が全て枯れており足場が良かったことが幸いし、一度目の挑戦で窓枠に前足を引っ掛けることに成功した。今度は前脚に渾身の力を入れ、重力に抗って体をうんと持ち上げた。

 窓はボクの体がちょうど入るか入らないかの大きさだったが、狭い場所を通り抜けるのは猫の十八番である。難なく向こう側へ身体を入れ込んで手頃な箪笥の上へとよじ登った。振り返れば小窓は明り取りの役割をしているようだが、他にそのようなものや明かりのついた光源などはない。数々雑多な用途の伺いしれぬ用品がうず高く積み上がっているようである納屋の中は当然薄暗く、風の通り道も少ない。どうぞ休息しておいきなさいとでも猫に言っているような場所だ。

 今日はここで休もう。まともな食事は明日に見送ろう。

 目を閉じると、一瞬だけ錆たちの寺に戻ったほうがいっそ楽なのではという考えが脳裏をよぎった。だが、すぐさまそんなものは仮想の肉球で塗り潰す。第一に一日と経たずに戻れば群れの笑いものにされるのは目に見えているし、第二に寺に戻ったところでどうせ錆のもとでは満足に腹も満たせない。

 自分には都会のど真ん中で一人孤独に生きていく道しか残されていないのだと、ボクは暗闇に慣れてきた目を閉じた。

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