第2話 猫の掟に影法師
どれだけ鳴いたのかわからなくなって、黙ろうかと思案していた頃、後ろで木が軋む音がした。
「おや、今度は小さな黒猫かい。世話が焼けるのう」
普通なら毛に覆われているはずの頭部まで顔の延長であるかのようにきれいに皮膚が表れ出た奇怪な姿のヒトが、石の道の突き当りに建った木造建築の脇に立っていた。
「ちょっと待っとれよ」
言われたとおりに、待ってみる。この頃のボクは、まだまだ無垢で人族をまるっきり信じることを知っていた。戻ってきた皮膚頭のヒトの手には小さな皿があった。
「ほれ」
ボクの目の前に差し出されたそれには白い液体とも固体ともつかないとろっとしたものが入っていた。試しに舐めてみると、それは微かに温かく、甘く、少し懐かしいような味がした。
「可哀想に。いっぱい食べろや」
今日初めての食事に夢中なボクの額を軽く撫でて彼はどこかへ引っ込んでしまった。
途端、視界いっぱいの皿が一面暗くなった。皮膚頭のヒトが戻ってきたのかと思ったが、どうも様子が違う。耳元で猫語が聞こえるのだ。何事かと視線を上げたそこには恰幅のいい錆柄の猫が仁王立ちになっていた。
「お前さん、何もんだね」
ドスの効いた声をこうも耳元で囁かれては無視する気にはなれない。だから無論ボクは答えようとした。そしてどうしようもなく沈黙した。
自分が何者なのか、生まれてこのかた意識したことなど全くなかった。だから終いには素直に「黒猫」と供述した。
「んなもん見たらわかるわ!」
敏感な鼓膜が張り裂けそうなくらいの爆音が耳をつんざいた。
「オレはお前さんが飼い猫か野良かを聞いてるんだ」
ボクは再び答えに詰まった。ひとつひとつ、状況を胃の中で消化して、やっとこさ「野良」と答えた。
「だろうな。うちの和尚さんに飯貰いに来るのは野良しかいねえってもんだ」
「うちの和尚さんってさっきのヒト?」
「おうよ」
「じゃあ、あのヒトはあなたの飼い主?」
「んなわけねえだろうが!」
再度爆音が鼓膜をぶっ叩いてボクは男に尻尾を掴まれたときのように全身の毛がざわつくのを感じた。
「ここにいる猫は、オレだって、お前さんとおんなじ野良だ」
言われて初めてボクは、左右でこちらを手招く植物の間に無数の視線があることに気づく。皆遠巻きにボクと錆のやり取りに耳をそばだてているようである。ボクが何か下手なことをすれば一斉に飛びかかって来ようとする圧力まで感じた。
「だが、お前と俺との間には大きな隔たりがある。オレは、ここのトップっちゅうやつだ」
「とっぷ?」
「で、お前さんは新入り」
「しんいり?」
「だあめだこりゃ」
恰幅のいい錆はボクの目と鼻の先で大欠伸をした。沈みかけの夕日が長く鋭利な牙に橙の光を這う。
「あぁーーう…………いいか、ちびっ子。お前を守ってくれる人間はもういねえ。つまり自分で生きていかなくちゃならないんだ。だがお前は一人で生きていくにはまだ小さすぎるんだ、わかるな」
ボクは同意する。この錆の言うことは正しい。
「だからこそ、お前さんの飼い主はここにお前さんを捨てていった。ここじゃ和尚が食べ物を恵んでくれるからな……だがな、こっちにはこっちの掟があるのさ。無理矢理連れてこられたのであろうと、気づいたらここにいたのであろうと、郷に入っては郷に従って貰わんにゃ困る」
そして錆は突如として牙をむき出しにしてシャーッと唸った。最大級の威嚇行為であることは解っている。かつてボクの耳に癒えない裂け目を作った爪もこの唸り声のあとに飛んできたのだ。ボクは本能的に後退った。
それを認めた瞬間、この機を待っていたように、これまでねっとりとした視線を送ってくるだけだった他の猫たちが草木の間から我先にとボクが一瞬前まで舐めていた皿へと群がった。どの猫もお世辞にも毛色が良いとはいえない。
「お前さんは新入り。ここじゃあ地位で見ても体格で見ても、一番下なんだよ。和尚の恵みは限られてるからな、お腹を空かしてんのは他の奴らとて変わらねぇんだ」
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