第二章 第十九話「姫の心のひとしずく」
倉庫の大量の荷物に隠れるようにして作られた、小さな小さな勉強机。
そこに刻まれた千景さんの努力の痕跡を見つけた時、千景さんはノートを閉じて隠してしまった。
千景さんは見つけてしまったことを責めるように、私をじっと見つめてくる。
もしかすると、あの隠したノートは私にとっての「妄想ノート」のように絶対の秘密だったのかもしれない。
……そう思うと、いたたまれない気持ちになってくる。
「あぅぅ……ごめんなさい。……で、でもすごいです。あの商品の膨大な知識はここで
その言葉はお世辞なんかではなく、本心だった。
しかし千景さんは冷めた表情で机を眺めている。
「こんな場所で、こんなにも必死にならないと……なにも覚えられない。……その机は、ボクの不器用さの……ただの象徴だから」
「あぅ……。千景さん。そんなこと、言わないでください……」
その時、千景さんのお腹から大きな音が響き渡った。
千景さんはお腹を押さえながら、顔を赤らめ、うつむいている。
「……千景さん、ひょっとして、お腹減ってます?」
千景さんは恥ずかしそうにコクリとうなずく。
空腹は無理もない。
部活が終わった後から夜の八時まで仕事をしていたはずなのだから。
自営業には自営業の悩みがあるかもしれないし、千景さんの場合は自分で望んで家のお手伝いをしているという話だったから、ご飯の時間にも事情があるのだろう。
むしろこんなところに閉じ込めてしまったわけなので、罪悪感が半端ない。
その時、向かいの棚の中にカンパンが置いてあることに気が付いた。
「あ、あの……。カンパンを食べるのって、どうでしょう?」
しかし千景さんは首を振る。
「ダメ。商品に手を出すのは、店員の恥」
そうつぶやいた瞬間、千景さんの目から雫が零れ落ちた。
「このお店は、父と母が……すごく苦労して作ったお店。お山と、お山のご飯が好きで、みんなにも楽しんで……欲しいって。……助けたい。困らせたく、ないです……」
千景さんはだんだんと肩をふるわせはじめ、声も涙ぐんでくる。
「……なのに、ボクはいつも……イジイジしてて。声も、小さいし、ボソボソ……しゃべるし。は……はずかし……がり屋、だし」
千景さんがかがみこむと、お腹がひときわ大きく鳴り響いた。
「……もう、ダメ。きっとここで……干からびて、死ぬ運命。ボクにお似合いの……最期」
「あぅぅ。こんなことで死にませんよ! 落ち着いてくださいっ」
「……ボクに生きてる資格なんて、ない……。ボクはどうせ、こんな影の世界がお似合い」
まるでこの世の終わりを嘆いているかのように、床に突っ伏して動かなくなってしまった。
千景さんがヤバイ。
鬱トークが止まらない。
その時、私は自分のスクールバッグの中に小桃ちゃんのお菓子が入っていることを思い出した。
チョコとバナナのマーブルチーズケーキ。
幸せホルモンで元気になれるという、魔法のお菓子。
小桃ちゃん手作りの桃印の箱を開けると、甘くて
私は生唾を飲み込み、均等に切り分けられていたパウンドケーキを千景さんに差し出した。
「これ、一緒に食べませんか? 親友の小桃ちゃんの手作りなんです。小桃ちゃんのことだから、本当においしいと思いますし……」
そんな私の言葉なんて聞こえていないように、千景さんの視線はケーキに釘付けになっている。
そうだ。説明なんていらない。
私たちは四角く切りそろえられたケーキを、口いっぱいにほおばった。
△ ▲ △ ▲ △
突然、景色が一変した。
真っ白で何もない空間に投げ出されたかと思うと、乳白色のふわふわな雲の中に落下してしまう。
雲は私のすべてを受け止めたかと思うと、体中を包み込んで制服も下着もすべて泡のように溶かしてしまった。
体が……軽い……。
体を包み込む雲の、このかすかに甘酸っぱい香りはチーズ……!
小さくほぐれた真綿のようなチーズの雲は、私を乗せて真っ白な世界を飛び続ける。
すると今度は、雲の周りに茶色い液体が噴き出してきて、一糸まとわぬこの体をコーティングし始める。
ほのかに甘く漂う香りは……チョコレート!
決して甘すぎず、チーズの香りを邪魔しない。それどころか、あふれ続けるチョコレートは大きな渦となり、チーズの雲に乗った私を翻弄し始める。
その時、チョコの渦の中心からクリーム色の塔が姿を現した。
その塔は横倒しになったかと思うと、つかまって欲しいとでも言っているように私に近づいてくる。
そのまろやかでフルーティな香りはまさにバナナ!
私はバナナという箱舟に寝そべり、甘く
あぅぅ……。癒される……。
△ ▲ △ ▲ △
「はっ……」
気が付くと、周囲には大きな棚が並ぶ倉庫の風景が広がっていた。
幻覚でも見ていたのだろうか。
まるで料理バトル漫画の実食のシーンのような幻想的なイメージに包み込まれていたような気がする。
千景さんを見ると、私と同じように呆然としながら、体中の毒素が抜け切ったようにすっきりとした顔色になっていた。
ひょっとすると、同じイメージの世界を味わっていたのかもしれない。
さっきまでの鬱トークはすっかりと鳴りを潜め、静かで冷静ないつもの千景さんに戻っていた。
恐るべし家庭部。
恐るべし……小桃ちゃん。
私は心の底から親友に感謝の念を送るのだった。
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