第二章 第二話「ましろ、雨湿りに虫の息」

「……ほたか先輩って、なんか、とんでもない人ですね……」


 三十キロという、私では持ち上げることもできない重い荷物を背負っているのに、ほたか先輩はスイスイと階段を登っていく。

 すでに見えなくなった後ろ姿を仰ぎ見て、私はあっけに取られていた。


 重量三十キロという設定は、ほたか先輩だけだったようだ。

 私と千景ちかげさんには重過ぎたので、二リットルのペットボトルを五本分。つまり合計で十キロまで減らしてもらえることになった。

 それでもずっしりと背中にのしかかってくるので、ほたか先輩のすごさは身に染みて感じることができる。


 なによりも「ほたかは、四十キロでトレーニングすることがある」という千景さんの一言が印象的だった。

 ほたか先輩はほたか先輩で「プロの歩荷ぼっかさんは八十キロぐらい持つから、お姉さんはぜんぜんだよぉ」と、なんか意味の分からないことを言っていたし……。

 ちなみに「歩荷ぼっかさん」とは、山小屋などに荷物を運んだりする、すごい人たちのことらしい。


「……ほたか先輩って、どこに行こうとしてるんでしょうね?」


 当然、山に登るつもりなんだろうけど、そう言うことじゃなく。

 なんだろう……。

 ほたか先輩は「プロの歩荷ぼっかさん」を目指しているんだろうか。

 なんか……知らない世界はまだまだたくさんあるんだなと、感慨深くなってしまう。


 ちなみに、いま背負っている、長さが一メートルぐらいあるリュックのことを先輩たちは「メインザック」と呼んでいた。確かに「ザック」のほうが濁点が付いててかっこいいけど、「メイン」ってなんだろう。「サブ」もあるのかな……?

 山道具にも専門的な呼び名があるようなので、いつか自分でも調べてみようと思った。


「……っと。なんかぼーっとしちゃってた!」


 しみじみと思いふけってる場合じゃなかった。

 ほたか先輩よりも軽い荷物なんだから、さすがにサボるわけにはいかない。

 今日は一時間ほどのトレーニングだ。

 休みながらでいいと言われてるけど、なるべく頑張ろうと気合を入れる。


「千景さん。私たちも登りましょうか!」 


 そう言って振り返ると、隣にいたはずの千景さんがいなくなっていた。


「あぅ、う? 千景さん? どこですか?」


 とっさにあたりを見回すと、千景さんは廊下の柱の陰に隠れていた。

 小さな体をさらにちぢこまらせて、落ち着きなく視線を泳がせている。


「ど……どうしたんです?」

「……学校でザックを背負って登ると、目立って恥ずかしい」


 そう言って、千景さんは顔を前髪で隠してうつむいた。

 後ろ向きなところがあるとは思ったけど、ここまでとは想像していなかった。

 校内に千景さんの隠れファンはいっぱいいる気がしていたけど、そのことを伝えるのは絶対にやめよう。少しでも意識させてしまったら、千景さんは恥ずかしさのあまりに学校に来なくなりそうだ。


 しかし、だからと言ってこのまま隠れているわけにもいかない。


「あのぅ……千景さん。今までも、こういうトレーニングをされてたんじゃ?」

「……恥ずかしいから、雨の日は部室で待ってた。今日はましろさんがいるから、頑張ろうと思ったけど……無理だった」

「あうぅ……私のため、ですか……?」


 声を振り絞って教えてくれる千景さんに、私の胸はキュンっと締め付けられた。


 か……可愛い……。

 このまま、千景さんをお持ち帰りしたい!

 私はワナワナと震える指を必死に抑えて、心を静める。


 ダメダメ、ましろ!

 落ち着け、ましろ!

 私は決して百合ではない。

 千景さんが可愛いだけで、私の反応は普通だと思う。


 精神統一の深呼吸を繰り出して、なんとか踏みとどまることに成功した。


 とにかく、千景さんは周りから注目されるのが怖いのかもしれない。

 私も自分の性癖がバラされた時の恐怖は身に染みてわかるし、千景さんには千景さんなりの事情があるのだろう。

 私は真剣な表情で、千景さんに手を差し出した。


「大丈夫です! この学校の放課後なら、階段には誰もいません! みんな、ビックリするぐらいに部活に真剣なんです! 文化系の部活だって部屋にこもってますし……。今だって耳を澄ませても、ほたか先輩の足音ぐらいしか聞こえません!」

「……でも」

「いざとなったら、私が盾になりますっ! 歌って踊って、注目集めます!」


 千景さんを守りたい気持ちは本当だった。

 私の本気が伝わったのか、千景さんはかすかに微笑んでくれた。


「……ありがとう」


 細くて白い指が私に触れる。

 その時、千景さんの手の美しさに目を奪われた。

 千景さんの手は、まるで手のモデルさんのようにきれいだった。

 指の関節が細くて、爪の形も美しい。

 すごく……うらやましい。

 絵のモデルになって欲しいぐらいにきれいだ。


 私が絵を描くとき、人物の手はいつも自分の手を見ながら描いている。

 でも私の手は分厚くてムチムチしているので、キャラの手をうまく描けないのが悩みなのだ。

 そんな私にとって、千景さんの手は理想的な美しさだった。


「……何?」

「あぅっ。な、なんでもないです! ……あはは」


 千景さんは首をかしげて、不思議そうな顔をしている。

 私が絵を描くことは秘密にしているので、説明するわけにもいかない。

 愛想笑いを浮かべながら、私は逃げるように階段を登り始めた。



 △ ▲ △ ▲ △



「ほ、ほ、ほたか先輩……。そろそろ、一時間ですよ……」


 息も絶え絶えになりながら、私を颯爽さっそうと追い抜いて登っていくほたか先輩を呼び留める。

 校舎の一番上、四階の廊下まで上り詰めたところで、ほたか先輩は振り返った。


「もう一時間なんだねっ。時間がたつのって早いねっ!」

「そんなぁ……。私は『まだかな、まだ一時間にならないかな』って、待ちわびてましたよぉ……」


 さわやかな汗をぬぐうほたか先輩は、息が全く乱れていないように見える。

 化け物ですか?

 体力お化けですか?


 それに引き換え、私は全身が汗でぐっしょぐしょのベッタベタ。

 雨の日の校舎をなめていた。

 湿気がたまった階段でのトレーニングは、まるでミストサウナの我慢大会。

 滝のように流れる汗は、まるで水から出たての河童かっぱですよ、河童かっぱ


「登山大会は……審査項目はいろいろあるけど、体力が一番大事。いっぱいあっても、困らない」


 振り返ると、千景さんは頬を紅潮こうちょうさせながら息を整えているところだった。

 最初は私の背中に隠れるように歩いてたけど、階段を二往復もした頃には慣れてきたようで、いつもの静かな千景さんに戻ってくれていた。


「……ありがとう。確かに……誰も、いなかった」

「そう言っていただけると、うれしいです~」


 千景さんは恥ずかしがり屋だけど、言葉は飾らずに直球で投げてくれる。

 たいしたことをしてないのにお礼を言われてしまったので、なんだか心がむず痒くなってしまう。



 私と千景さんが息を整えて休んでいると、今度はほたか先輩がそわそわし始めた。


「千景ちゃん、大丈夫? 屋内トレーニングの日は休んでいいって言ってたのに……。頑張るって言うから、お姉さんは何も言えなかったけど……」

「ましろさんのおかげで、大丈夫だった。……そろそろ部活が終わる時間。人が出てくるから、早く部室に戻ろう」

「そ、そうだね! 柔軟体操は部室でやろっか。……ザック、お姉さんが持とうか?」

「……さすがに悪いから、いい」


 そう言って、先輩たちは階段を下りていく。

 その後姿を眺めながら、私はすこしだけ、ほたか先輩のことが気になった。


 優しくて楽しい先輩だけど、心配性で過保護な気がする。

 ほたか先輩は自分だけ重い荷物を持ってトレーニングしているけど、それってみんなを守るために何でも背負おうとしているからじゃないのか。

 あんまり一人で抱え込みすぎると、壊れてしまうんじゃないかと不安になってくる。


 私が立ち止まっていることに気が付いたのか、ほたか先輩は振り返った。


「ましろちゃ~ん! 早くおいで! 汗、いっぱいかいちゃったし、あとでシャワー浴びよっ」


 ほたか先輩は私の不安なんてつゆとも知らないのだろう。

 満面の笑みを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る