彼女は愛を頬張っていました。

辺伊豆ありか

第1話



僕の親友の話をさせてください。


彼女は僕が出会った中で一番魅力的な女性でした。世界中のどんなアーティストよりも感受性が豊かで、表現力にあふれて、世界に光を見いだす天才でした。常に眼に映るものに興味を注いで、起こること全てに一喜一憂し、まるで万華鏡のようにくるくると表情を変えるのでした。それはもう、喜怒哀楽では分けられないような、複雑で繊細な感情で。


まず彼女は、愛することをこの上なく愛していました。

愛することとは理解することだ!とよく泥酔してはお決まりのセリフを口にしました。いつだって気になったものには疑問をもち、私に問いかけ、スマホに問いかけ、自分自身に問いかけ、答えを出しては「また一つ理解することができた」と満足げにハイボールのジョッキを傾けるのでした。彼女にとっての愛は、大好物のぶどうより、ふっくらした子持ちのししゃもより、煮卵よりも良いつまみになっていました。私たちはいつも夜に会っていましたから、今日一日何があったか、どんなことを感じたかいつもけらけらと報告しあっていました。ジャズのコンサートに行った日は、ベーシストの話から始まって、ポールチェンバースのベースがいかに素晴らしいか、土偶を見た帰りには昔の人間にとっての創作について、散歩をした日には池に映ったきらめき歪む風景のことを、とにかく、彼女は眼に映るものすべて、そしてそれを紐づけることがら、そして誰もしらぬ遠い遠い昔の出来事に思いを馳せてはにこにこと、ふくふくと酔っ払っているのでした。彼女の笑顔でふっくらと上がる頬、細くなる眼、両手で頬杖をつくポーズが今でもありありと浮かんできます。



彼女は表現者のことが大好きでした。

画家、彫刻家、陶芸家など美術を生業とするものから、演奏者や歌手、ラッパーなど音楽に生きる者まで、とにかく心に映るものを、感じたままに表現する者を愛していました。展覧会に行っては図録を買い、作品や分析、アーティストの歴史を前にさまざまな考察をしました。ルネ・マグリットの「これはパイプではない」という絵を見て、30秒ほど黙ったかと思いきや、レシートをくしゃくしゃに丸めて、これはダイヤモンドだから高く売れる!と酒に座ったまっすぐな目で笑いかけるのでした。僕が一生懸命その丸められたものがレシートである証拠を見つけるたびに、彼女はこねくり回した自論を悪戯な笑みとともに見せびらかしてきました。ようやく考えが落ち着いたようで、まあ、そういうことではないか、と子をあやすようにレシートを見つめ、なんの脈絡もなく、それならば仕方がない、さて、今日は奢りなのかね?と片眉をひょうきんにあげては聞いてくるのでした。そんな彼女はいつだって子供のままの自由さを持ち、未来に希望を持つ太陽の子のように見えました。




とりわけ彼女が好んだ話は、大好きな友達の竜人くんという男の話でした。


竜人くんは、確か、一度彼女と恋仲になった後に、彼女の友達となった人だったはずでする。とても芯のある、強く自由な男だそうで、彼女はいつも彼に振り回されることにワクワクしていたようでした。60キロ越えでドブに突っ込んだドライブ、サイコロで行き先を決めた旅など、彼との思い出が無謀であれば無謀であるほど彼女は嬉しそうに報告してきました。彼女は竜人くんに出会ってから、呑むときは毎回欠かさずに彼の話をしました。私が思うには、それは自慢話でもあり、ささやかな恋の話でもあり、また彼女の幸せな悩みでもありました。

ただ、彼女はいつからか、どんなに彼のステキな自慢話をしても、最後には「もっと竜人のことを知りたいのに、うまく竜人と話すことができないよ」と机に突っ伏してしょぼくれるようになりました。

話を聞く限りでは、竜人くんは正直者で、頑固で、少し歪んだ価値観を持っているようでしたので、僕はいつだって「なあに、全てを知るにはそう遠くないさ」とどこかの文豪を気取ってなだめていました。彼女は竜人くんのことが大好きで大好きで…自身よりも博識で、自由で、決断力のある彼を心から慕っていたように思えました。

僕は、彼女は竜人くんのことを隅から隅まで知っているのではないかと何度思ったことでしょうか。その時の身長から体重、どんな家で育ったか、小学校から大学までの友達の名前、バイト先の住所まで、聞けばなんだっていうことができるくらいに。その度に語られる思い出に、その時は何にも疑問を抱かなかったのです。いつだって、彼に嬉しそうに困らされていましたから。眉を下げ、でも口角は上がってしまうような、満ち足りた不幸を彼女はゆっくりと味わっていたと思っていたのです。もしかしたら、彼女は最高に都合のいい女であったのかもしれない。バイト先に財布を届けることも、風俗へ彼を見送ることも、人を人とも思わぬプレイを、そう、プレイを受け入れることも。彼女はそういった報告をするときには、きまってあの困ったような嬉しそうな顔をするのでした。また一つ竜人くんの知らない一面を見たよ、と溶けてしまいそうにこの言葉を吐き、ゆっくりと目をつぶりながら。

理解することで愛することができる。私はもっともっと知って、味わって、噛み砕いて全てを理解したいのだ。よく彼女が写真の中の竜人くんをなぞりながら言った言葉です。スマホの画面越しの竜人くんを拡大したり縮小したり、まるで恋人が相手の頬を摘んで弄ぶように。まるで竜人くんが目前にいるかのような、ここは2人だけの世界なのだと思わせる仕草でした。

これは後から気づいたことなのですが、彼女は愛されることに全く関心がありませんでした。いや、関心がないというよりも、愛されることなどないと断言していたようでした。見つかった彼女の日記の1ページを見てしまったのですが、そこには「愛されることを望むから崩れゆくのだ。確証の得られないことなど探すから狂ってしまうのだ。」と大きく書いてありました。後には愛されることに躍起になる者、いわゆるメンヘラと呼ばれる人々へのヘイトが連ねられていました。好きなものを好きというのには、理解のための努力しかいらない。他人が愛したかどうかなど、自身には到底わからぬ、判断のつかぬことだ。僕にはその考え方がよくわかりませんが、彼女が愛に飢えた怪物ではなく愛を探す冒険家であることははっきりとわかりました。そんな彼女はいつだって壁にぶつかり、頭を垂れ机に突っ伏しては、未知の世界を嘆くのでした。

つまり、本当に、彼女は愛することをこよなく愛する女性でした。彼女は少し不器用で、もっともお人好しで、人より勇敢であっただけなのです。どうか、心優しい神様がいたならば、彼女なりに掴もうとした幸せを理解してあげてほしいのです。



そして彼女は、知らないということを常に怖がっていました。

私が先ほど述べたように、そもそも彼女は知ることが好きでした。せわしなく動く彼女にはにとっては、本を読むという行為はなんだかじれったく感じていたようです。最速で、最多のことを知りたがりました。ラジオをきき、新聞を見つめ、彼女はいつだって多くの情報を入手していました。

世界情勢も、環境問題も、彼女は知りたいと思ったことは全ての情報を入手し、ノートに書き連ねていました。

ただしかし、彼女にはどんなに頑張っても知り尽くすことができないものがあったのです。

そう、竜人くんについてのことでした。

彼女はこれまで望むものをすべて手に入れてきたというプライドと、手に入らないもどかしさにもがき苦しんでいたようでした。日に吸うタバコは倍から2倍、3倍と増えていき、飲酒量も比例していきました。それでも私は彼女を絶対に止めませんでした。何かを考え、恍惚としたり、悶絶したりと表情を煌かせる彼女は僕にとって何よりの、一番の、世界中どこを探しても見つからない宝物でしたから。彼女は考えてこそ美しい。悩んでこそ可愛らしい。私は断固としてそれを疑ったりしませんでした。



彼女がパタリと酒をやめたと同時に、彼女は手巻きのタバコを持ってくるようになりました。竜人くんが教えてくれたんだ、と彼女はまた春の風のような暖かな顔で言いました。そしてゆっくり吸うと、いつもより長く息を止めて(正確には止めてないのかもしれませんが、私には詳しくわかりません)大きく息を吐き出しました。


私はすぐに勘付きました。彼女はもう、すべてを竜人くんに捧げる決心がついたのだと。自分の人生を崩してしまってでも、彼女は彼を愛していると。愛することを愛した彼女が本当に愛しているものは、彼なのだと。

ただ、この居酒屋以外で会える場所を探す場所も面倒でしたし、きっと彼女には時間がないように思えましたから、私は出来るだけ彼女の身を守ろうと考えました。

その手巻きタバコは、今となっては彼女がわかっていたかは定かではありませんが、きっと国内で許されているものではありません。油断すれば臭いで気づかれてしまうでしょう。ここが鉄板焼きの居酒屋で本当によかった。上に煙を吸う機会がありましたから。私はできるだけ強い香水をつけ、メニューで風を送り、店のものに気づかれないように些細ながら努力をしました。もっとも、こんなことで消える臭いではありませんでしたが。その「タバコ」を吸った彼女はゆったりと目を開き、普段よりもっと嬉しそうに、まるで撫でられている猫のようにふにふにと笑っているのでした。うわ言のように好きだよと、大好きだよとこぼしてはスマホの画面とこちらを交互にみて微笑むのでした。私は彼女に、永遠にこの時間に甘えていて欲しいと思いました。




その翌日だったでしょうか、よく覚えてこそいませんが、とにかくすぐのうちに、彼女から夕方ごろに突然電話が入っていました。

これから飲もう。今日は大事な日になる。彼女はそれだけ留守電に残していました。

私は、ああ、とうとうこの日が来てしまったのかと感じました。今後、きっと彼女に会えることはないでしょう。彼女はそういった性分なのですから。強く、自由で、決断力のある、誰かによく似た勇敢な彼女。奔放だけど、どこか弱くふわりと手から溶けていってしまう彼女。私は帰路から外れ、いつもの居酒屋へと急ぎました。ちょうどホームに着いた特快の電車が、運命を暗示しているようでした。




やあ。彼女は小さく手を上げ、相変わらず例のタバコに酔いしれていかげそを口の端からぴるぴると出していました。今までと全く変わらぬ彼女のようです。ハイボールのジョッキを傾ける仕草も、とろけた顔も、すべてを優しく包むような笑顔も。今日は忙しかったが、横浜の画廊に少し出かけた、と飽きもせず芸術の話をする様子も。そこで見た壺の話も、空いた中華街についても、流行りの台湾スイーツに想いを馳せる様子も。

爪の間に赤い汚れが詰まっていることも。寒がりの彼女が厚めに腕まくりをしていることも。疲れたであろう腕を仕切に揉みほぐしていることも。手のひらの、指の付け根が擦れてまめのように赤くなっている様子も。全く焦点の合わない目も。充血しきった白目も。自身の身体のどこかに絶えず触れているのも。それが、小さな震えを落ち着かせるためだということも。仕切に腕の内側をかきむしる仕草も。彼女は、彼女は至って普段と変わるとこのない、世界で一番魅力的な女性のままでした。

彼女は、世界で一番高級な肉を手に入れた、と言いました。あまりにも小声すぎて、本当はそう言っていないのかもしれませんでした。私は、ああ、と思いましたけれど、見せて欲しいと力なく笑いました。彼女は嬉しそうに、小さなジップの中に入った肉片のようなものを出し、こっそりとイカげその踊る鉄板の上に載せました。肉は薄かったからでしょうか、きう、と音を立ててたちまちくにゃくにゃとした不思議な形になりました。彼女は待ちきれないというような顔をしてそれを冷ます様子もなく口に入れました。溺れた子犬のように宙にもがき、はっふはっふと荒い呼吸を繰り返していました。きっと舌に火傷をしたでしょう。彼女は涙をぼたぼたとこぼしながらじっくりと口に入れた肉を噛みしめました。彼女は鉄板の上に残った方の肉片を見つめ、時折涙がじゅうと音を立て、一生懸命に泣いていました。

「幸せなんだ、ほんとに」

彼女は噛み締めるように、味わうように、また自分に信じ込ませるように、たった一言だけ呟きました。成仏する瞬間が見えるとしたら、こんな感じなのでしょうか。存在自体が薄くなり、消えてしまいそうに感じました。不思議と私は寂しくも悲しくもありませんでした。彼女がこうして彼を知り尽くすことを知っていたのです。2人が一つになることも、これが彼女の愛しかたであることさえも、なんとなく感じとっていましたから。


さて、私も残った肉片を口に入れなくてはなりません。どんなに人の道を外れようとも、これがこの場、この瞬間の礼儀であるように思えました。これを口にしなかったからといって彼女は怒らないでしょう。またきっと、意気地なし、とでも言ってペロリと食べてくれるはずです。ただ、私と彼女の信頼関係の上ではそんなことは許されないのです。私はぐっと唾を飲み、鉄板の上で既に硬くなりつつあるその物体をどうにか口に入れました。味やら食感やらは、あまり思い出したくはないので、普通のお肉だと思った(思い込んだのかもしれませんが)と言っておきます。何か味付けをすべきだったかなあと少し後悔しました。

彼女は私が箸をつけてから物体を口に入れるまでを、子供のようにキラキラした瞳で見ていました。美味しいでしょう?と微笑む彼女に、うん、まあ、と曖昧に返すと、いたずらっ子のようにけたけたと笑うのでした。そして細めた目をゆっくり、黒目と黒目をしっかりと合わせるように開くと、

「私はもっと、丸ごと食べちゃったんだからねぇ」

と血走った目を1ミリも逸らさずに言いました。

一瞬、電気が走ったように鳥肌がたった後に、ふっと全身の力が抜けました。そして彼女に、君ほど強くて、魅力的で、愛の意味を知る女はいないよ、と手を取って言ってやりました。彼女はまたいつものように恍惚とした表情に戻り、だと思ったぁ、と言うとお手洗いへ消えてしまいました。本当に、本当に消えてしまったのです。店主から、あの娘、お会計して行ったよと言われて私は店を後にしました。


あの日から今まで、彼女のことを聞いたり見たりしたことは一度もありません。竜人くんのこともニュースや新聞で聞くことはありませんでした。もしかしたら全てが私の作り上げた彼女という理想像なのかもしれませんし、単に彼女がすべてを上手くやった、ということなのかもしれません。ただ、彼女が本当に本当に魅力的に見えたことは間違いありません。


きっと、あんまり深く愛について考えるのはよくないのだと思います。知り得ないことにも、知ったことにも溺れて、いつの間にやら共にいた人を巻き込み引きずり込んでしまいますから。私は美味しいステーキを食べながらそう思うのでした。

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