アザゼルの休日 ~辺境でのバカンス~
芳野まもる
第一章
1
祖父母の家に滞在していたAは、その日、妹と近所の沢に釣りに来ていた。
釣りの道具は、Aの祖父から借りたものだった。Aの釣りの腕前は、ぜんぜんたいしたことなかったが、妹にどうしてもと頼まれて、一緒に近所の沢にまでやって来たのである。
真剣な表情で釣り針に餌をつけている兄を見て、Aの妹は言った。
「お兄さま、わたくし、思ったのですけれども」
「なんですか、妹よ」
「釣りって、けっこう残酷じゃありませんこと? なにせ、魚の口に鋭い針を突き刺して、ぐいぐい糸でひぱって、釣り上げるのですから。魚の身になって考えると、ぞっとしませんわ」
Aは怪訝な表情で言った。
「妹よ、あなたが川魚が食べたいと言うから、わざわざやって来たのに、いまさらなにをおっしゃるのですか?」
「そんなケチな餌でおびきだされて、鋭い針で刺されるなんて、ぞっとしないとわたくしは申しております」
兄は妹をたしなめて言った。
「祖父からいただいた餌代をあなたがケチったから、こんな安い餌しか買えなかったのです。それに、あなたの言うことは、道徳的な欺瞞に満ちているとわたしは考えます。妹よ、あなたは、針で刺される魚の心配はするが、同じく針で突き刺されて、餌として供される幼虫の心配はしないのですね?」
妹は、痛いところを突かれたので、兄の前に平伏した。
兄はあきれ顔で言った。
「いいから、あなたははやくたきぎを集めて、火を起こしてください。このままでは、日が暮れてしまいます。――ところで、妹よ」
Aは妹の巾着袋を指さして言った。
「ずっと気になってはいたのですが、あなたが家から持ってきたその袋の中には、何が入っているのですか?」
「いまはまだ内緒ですわ。お兄さまが川魚を釣り上げて、わたくしが集めたたきぎの火で焼いて食べたら、袋の中身をお兄さまに見せて差し上げましょう」
そう言うと、妹は森にたきぎを集めに行った。
一時間ほどして、妹がたきぎを集めて戻ってくると、兄はすまなそうな顔で、妹に言った。
「妹よ、悪いニュースです。まったく釣れません。このままでは、あなたががんばって集めたたきぎが、無駄になりそうです。わたしはそれを申し訳なく思っています。ところで、妹よ。あなたの袋の中身は、察するに食料ではありませんか? わたしの見立てでは、それは火で焼いて食べるものです。妹よ、お願いです。もったいぶらずに袋の中身を兄に教えてください。そして、兄を安心させてください」
妹は居丈高に言った。
「よろしい。そこまでおっしゃるのなら、わたくしの袋の中身を、お兄さまに教えて差し上げます」
妹は袋の中身を取り出して、兄に見せた。
「じゃーん! マシュマロです!」
「おお、妹よ!」
Aは歓喜して言った。
「あなたはそれを、火で焼いて食べるために持ってきたのですね? わたしの推測は、正しかったのですね?」
「しかりです」
「それを聞いて安心しました。このままでは、わたしはあなたに罰金を支払うことになってもやむなしと、途方に暮れていたのですから。ところで、あなたはそのマシュマロを、あなたの財布の中にあるお金をわざわざ支出して、買ってきてくれたのですか?」
「いいえ、まったくそうではありません。わたくしはこれを、無償で手に入れました。わたくしは、出かける前、これを台所の戸棚で見つけたので、火で焼いて食べるために、勝手に持ってきました」
「ああ、そう……。勝手に持ってきてしまったのは、感心しませんが、ひとまずは、あなたにお礼を申し上げます」
結局、その日、川魚は一匹も釣れなかったので、Aは妹と焼いたマシュマロを食べて帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます