伊吹さん、糸を垂らしてあげる

富升針清

第1話

 出戻り女。そう、大人達が呼んでいた。

 この村を捨てて、都会に出て行った女が帰ってきた。

 都会で卑しい仕事をしていて、私達を見下していた女が帰って来た。

 何でも都会で男に捨てられたらしい。

 あんな卑しい仕事をしていたのに、子供まで作って。

 どんな神経をしてたらここに戻ってこようと思うのか。

 彼女は汚物だった。

 どんなに酷い表現で、どれだけ人権を迫害した言葉であろうと、それ以外の表現が出来ないほど、村に戻ってきた女の扱いは酷かった。

 母からも大人達からも、誰もかれもが村にいる皆んなが彼女を汚物として扱っていのだ。

 だから、当時小学六年生だった私も、目の前にいる担任の女は人でも先生でもなく、汚物として見ていた。

 友達も、大人も、子供も、皆んなも。

 老若男女なんて、関係ない。

 きっかけは、十二年前の二月二十八日の夕方。

 友達の一人が、汚物に買ったばかりのマニキュアを取り上げられた事から始まった。

 学校に不要な物は持って来てはならない。そんなルールがあったにも関わらず、友達は買ったばかりの可愛いハートの瓶のマニキュアを私達に見せる為に持って来てしまったのだ。

 運が悪い事に、私達にこっそり見せてくた時に汚物に見つかってしまった。

 汚物はマニキュアを持って来てしまった友達をキツく叱り付け、彼女の大事なマニキュアを取り上げたのだ。

 買ったばかりの、大切なマニキュアを。

 大人になってしまえば、そんな事。

 でも、子供からしたら、大事件だ。

 まして、相手は人間ではない。汚物。

 立場は子どもの私たちよりも下の下なのに。

 そんな浅はかな幻想は、有り得ないほど私達を傲慢にさせ、訳のわからない怒りは、止まる事を知らなかった。

 誰かが言った。

 殺してしまおう。

 こんな突拍子のない言葉を、私達はゴミをゴミ箱に捨てる様な当たり前の事としてしか受け入れられなかった。

 マニキュアを取り上げられただけだと言うのに。

 可笑しかった。大人が汚物と呼ぶのだ。堂々と子どもの前で差別をするのだ。だからこそ、私達が先生を人として見えないのも致し方ない。子どもだから、分からない。そんな言い訳にもならない事を、真剣に盲目的に信じていた。

 誰かが止める訳でもなく、こう言った。

 どうやって殺す?

 毒殺とか?

 ナイフで切るとか!

 狂っている。無垢故の狂気の暴走。最早、歯止めの効かない純粋な殺意。

 そんな時、一人の友達が手を上げた。

 控えめで、物静かで、本が誰よりも好きな少女が狂った言葉を唱えた。

 本で読んだの。屋上の首吊りって話。

 恐らく、彼女の中には少しだけ、汚物と言えども人だという認識があったのだろう。

 だからこそ、トリックを使った殺人を提案したのだ。

 汚物は村人からの再三の迫害に家を飛び出し、ホテルで寝泊りをしている事は有名だった。

 だって、大人が言っていたから。

 都会に住んでいた人間はこれだからダメだと、私達に教えてくれていたから。

 彼女が言ったトリックは、最早トリックと呼んでいいかと迷うほどの簡単なもの。

 七階に居る汚物に窓から頭を出させて、屋上からロープで作った輪の中にその頭を嵌めて引っ張り上げる。ただ、それだけ。

 誰かが言った。面白そう。

 誰かが言った。やってみたい。

 誰かが言った。明日は、夏祭りだし、夜に子供だけで出掛けてもおかしく無いよね。

 誰かが言った。


 明日やろうか。


 と。

 私達の悪魔は笑顔で囁いた。

 私達は、その言葉通り、夏祭りの閏年の日の夜にホテルの屋上へ登って先生に電話をかけた。

 今までの事を反省している。

 謝りたい。

 ホテル迄来ている。

 窓から下を見てみて。

 先生。

 初めて、先生と私達は呼んだ。

 呼んだ時、電話先の汚物の嬉しそうな声。

 それが、汚物の声を聞いた最後だった。

 花火の上がる中、上へ上と上がっていく汚物。

 喚き暴れる汚物の姿が面白くて、誰かが笑った。

 でも、引っ張り上げる力も必要で、暴れれば暴れる程、大変で。

 笑ってないで、しっかりやってよ!

 ごめんごめん。

 まるで、クラブの様なノリで。

 私達は。

 人を一人、殺してしまったんです。

 そして、漸く気付いた。

 屋上に死体を引き上げた時、汚物を見てやっと。


 これは、汚物じゃない。死体だって。

 

 もう、誰も笑わなかった。

 皆んなが、やっと、気付いた時にはもう既に遅くて、漸く自分達が何かとんでもない事をしてしまった。子供だからと許されない過ちを犯してしまったのだと分かった。

 控えめな少女の悲鳴が花火で掻き消される。

 それが、私達の目を覚ます合図とも知らずに。

 怖くなった私達は、急いでその場から立ち去り、秘密基地がある山に入った。

 これからどうしよう。

 私たち捕まっちゃうの?

 お母さんに怒られる。

 そんな問題じゃないでしょ!

 でも、私達が殺したってバレなきゃいい話だよね?

 藁にも縋る思いで、私は言った。

 だってそうでしょ?

 バレなきゃ、私達は捕まらない。人を殺していない。

 そう、だよね。

 誰かが言った。そうだよ。私達が殺したなんて、誰に言わなきゃバレないよ!

 誰かが言った。うん! これは私達だけの秘密だよ!

 誰かが言った。そうだよ! そうしよう!

 でも、あの子は手を上げた。

 控えめで、物静かで、本が誰よりも好きな少女が私達が正気に戻る言葉を唱えた。


 無理だよ。私達、手袋もしてなかったし、指紋も残ってる。それに、あのホテルの屋上に行くのを誰かに見られたかもしれないし、隠しておく事なんて無理だよ。


 震える声で、まだ続けた。

 大人に話そう? 今なら、まだ、大丈夫かもしれないよ。

 秘密なんて、無理だよ。

 駄目だよ。

 必死に私達を説得しようとする彼女を、私達は覚めた目で見た。

 こいつも、汚物と同じ裏切り者なのだ。

 村を捨て出戻ってきた汚物と一緒だ。私達を捨てようとしているのだ。

 ねぇ! 皆んな村に戻ろう? 大人に……。

 その瞬間、彼女は倒れた。彼女の後ろには、いつの間にか太い枝を持った友達の姿があった。

 倒れた彼女に、友達は何度も何度も枝で殴り続け、漸く私達の方に顔を向けたと思ったら、その枝を私達に差し出した。

 次は、貴女達がやるの。これは、皆んなの秘密。誰も裏切ってはいけない秘密。早く。

 違う友達が、怯えた手で枝を受け取ると倒れた彼女をそれで殴る。

 泣きながらやる子も、吐きながら殴る子も。

 倒れた彼女の頭からは血が流れ、横を向いた顔は白目を剥いていた。まるで、あの汚物の様に。いや、私達が殺した、先生の様に。

 そして、私の前に枝が差し出された。

 聖奈子、貴女も。

 怖かった。

 全てが、全て。怖かった。

 私は、一目散に走り出した。

 後ろで何かを叫ばれても、脅されても、止まれなかった。

 無我夢中で山の中で一晩中逃げ回り、翌日保護された私は逃げる様にこの村を出た。

 きっと、あの子はあのまま死んでしまったんだ。

 あの子は、友達が私も埋められたいのかと叫んだ様に、埋められてしまったんだ。

 ああ、私は、二人も人を殺してしまった。

 こんな私が、幸せになれるわけなんてないのに。

 全てを諦めていたのに。

 あんな電話がかかって来るなんて。


『見つけたよ。人殺しさん』


 でも、もし、私の前に蜘蛛の糸が一本垂れ下がって来たのなら。

 私はあの子を殴っていない。埋めてもいない。先生を殺そうとも思っていなければ、輪っかを首に掛けた訳でもない。

 あの中で、誰よりも私が縋る権利があるとは思わないだろうか?

 

 誰を蹴落とそうとも。

 私が一番、相応しい。


 


「蜘蛛の糸ね。悪くは無いけど、面白味には欠ける話かな?」


 僕が笑うと彼女は蹲って泣き始めた。


「そう、嘆くものでは無いよ。僕は君のために新しい糸を用意してあげるから」


 蜘蛛の糸なんて、生温い。

 しっかり登れる丈夫なワイヤーをあげようじゃ無いか。

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