逃げる

水上雪之丞

第1話

 ……ここはどこなのだろう?

 空はどんよりと曇っている。周りを見渡すと灰色の砂利がどこまでもどこまでも広がっている。

 何もない、彩度のない世界。暑さも寒さも感じない。

 嫌な気分だ。何かないかと少し歩いてみる。踏み出して気付いたが裸足だった。服も簡単なワンピースというか、いや、そんな上等じゃものじゃない。布に穴をあけてそこに頭を通したような、ほとんど貫頭衣だ。上も下も下着をつけていない。恥ずかしいと思わないと、とどこか他人事のように思った。なんだか精神が鈍磨しているような気がする。いくらか歩いたが景色は一向に変わることはなかった。どれだけの距離どれだけの時間歩いたか全くわからなかった。周りの景色は変わらず、日の動きも分からない。判断する材料がなかった。ただどんよりとした嫌な気分とは裏腹に体は軽く、なんの疲れも感じない。どこまででも歩いてゆけそうだが、どこまで行っても何もなさそうだ。ただ、何もないことの虚無感や辛い、苦しいといった気分で足を進めることができなくなっていた。このまま座り込んで風化してしまいたい。ついに、足を止めてその場に膝を抱えて座り込んだ。


 ジャリ――。急に後ろから音が聞こえた。びっくりして振り返立ち上がるとそこに一人立っていた。その人物は同じような布でできた服を着ていたがその形は大きく違っていた。ローブのようにゆったりとした大きなフードのついた服で顔も、体系も何もわからなかった。私はこの人に初めて会った。ただ、どこか知っているような気がする。会ったことはないのにいつも隣りあわせだったような気がしてくるのだ。

 その人はこちらが気付いたことを確認してか、ゆっくりと踵を返し歩き始めた。

「ちょ、ちょっと待って。ここはどこなんですか? あなたは? 私は――」

 ここまで言いかけて私は気づいた。自分は誰なのだろう? 思い出すことができない。

 そうこうしてるうちにもローブの人物は歩を進めている。急いで追いかける。回り込んで顔を確認してやろうと思ったがそうすることはできなかった。いくら走っても、また、ゆっくり歩いてもお互いの距離は縮みも広がりもしなかった。

 ずっとローブの人物を追って歩き続ける。相変わらず時間感覚はないが、少し疲れてきた。足の裏が小石に押される感覚や足の腿が歩き続けたためか張ってきたような感じがする。ただローブの人物を追いかけるにつれて心を押しつぶすような圧迫感は薄らいできたように感じた。結局この人物がどこに向かっているのかも、いつかどこかに着くのかさえ分からないが、それでも何かやることがあるというのが心を楽にしているのかもしれなかった。

 どれだけ歩いただろうか。足の裏は血が出てるのではないかと思うほど熱い。息が上がる。もうそろそろ歩けなくなりそうだ。ただ、根拠はないが自分の求めるものがあるという確信がある。導いてもらえば、やっと自分は解放されるという思い、信念がなぜだか心に湧き上がってくる。ずっと二人分の足音しかなかった世界に新しい何かの音がかすかに聞こえる。その音は次第に大きくなりもういくらか歩くとその出所がはっきりとわかるようになった。

 大きな川が流れている。その川はタールか何かのように黒い色をしているが粘性はなさそうで静かに流れている。川の向こう岸がうっすら見える。こちら岸と同じような風景が広がっている。ただ、あちら側に行けばもう歩かなくていいということはわかった。それは本当に本当に、心から願っていたことだった。ローブの人物はさらに歩を進める。川の中にずんずんと入っていく。棒になった足を叱咤し急いで追いかける。足先が川を流れているものについた。


 記憶がよみがえる。女が男を指さしている。女は母だった。そこで記憶が途切れた。記憶がよみがえったことで私は母の顔もよく覚えていなかったということ、このことが非常に恐ろしかった。しかし、進まなければならない、いや進みたいという気持ちが私に次の一歩を踏み出させた。

 貌の失われた記憶の中の母が怒鳴っている。誰かが部屋の隅で座っている。体が震えている。この震えているのは、少女だ。少女が体育座りで頭を抱えてできるだけ小さくなろうとしているようだ。歩を進めるべく川の中の黒い液体をかき分けようとしたところで腕に鈍い痛みを感じた。腕に痣のようなものがいくつかできている。

 歩き出す、川に腰ほどまでつかる。痣は川から出している分には何も痛まないが、黒いものにつくと今殴られたように鈍く痛み出した。足を進めるたびに体のいろんなところに痣や傷ができているのがわかる。腕や脚や顔に黒い液体が跳ねる度、火傷のような痛みや切ったような痛みがする。痛くて足を進めるのが辛い。私は向こうまで行きたい、行きたいのに体の痛みがそれを留めようとしているかのようだ。私の邪魔をするこの体を脱ぎ捨ててしまいたいと思った。

 川のちょうど真ん中のところあたりまで来た。また記憶がよみがえる、がその記憶がどういうものであったかを見る、覚えようとする間もなく腕に激痛が走る。見ると腕の内側にいくつもいくつも線が走っている。血が流れださんばかりにずきずきと痛む。腕を振って黒い液体を傷口から吹き飛ばそうとするがその粘性のないはずの液体は腕から離れない。思わずよろけたたらを踏む。その拍子で前に踏み出す。

 頭が真っ白になる。今度は首の周りが強く圧迫されて息ができなくなる。強く強く締め付けられる。眼窩から目が飛び出、喉が砕けそうに感じる。記憶がよみがえる。少し高いところにいる。部屋は左右に揺れる。喉をひっかくが食い込む縄は切れない。苦しみながら縄は切ってはいけないと理性が命令している……。

 これ以上は無理だ。私は踵を返し、川から出るため必死にもがいた。不思議なことに基瀧氏に近づけば近づくほど体の痛みは失われて行った。息を切らして川から出る。振り返り皮を見やるとローブの人物が川の真ん中からじっとこちらを見ているのがわかる。これまでただ自分の前を歩いていただけのその人物がゆっくりと手招きをしている。急に恐ろしくなった。

 川を背にして走って逃げた。逃げれば逃げるほど、体が軽くなる。急いで加速する。しかし、なぜだろうか。苦痛から逃げているはずなのに、楽になろうとしているはずなのに、心が重くなる。ここで逃げちゃダメなんだと強く心のどこかから訴えかける。それがなぜなのか、記憶はよみがえってくれない。


――――


 私は目を覚ました。

 ピッ、ピッという定期的に響く音。

 白い天井。

 視界の端にある透明の液体が入った袋。

 全身のけだるさと体から感じる熱さ。

 私は気づいた。

 失敗したのだ、と。

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