オガワの日記
谷野 真大郎
プロローグ
わたしは今、とっても悩んでいた。
冷房の稼働する音と、型の古いデスクトップパソコンの低い唸り声が静かに部屋を満たす。
その隙間を、ぱちぱちとキーボードを叩く音で埋めていく。
モニターに表示されている無題の文書。その真っ白な余白を、文字で彩っていく。
描くのは、いつかの盆に親戚の家で見た景色。わたしが今書いていたのは、夏のお話だった。
茹だる暑さに草の碧、花と線香と土の匂い、せわしい蝉の鳴き声、車の通らない砂利道、人気のない商店、ラインナップが古臭くて価格が妙に安い自動販売機、等々。
眼鏡のレンズ越しに画面を見つめる目の、少し上。映画館で上映されてるのを観ているみたいにその光景が浮かぶような、不思議な感覚に浸る。
それから今度は、情景から連想される言葉が水面から顔を出すように浮かんでくる。
出来る限りきれいなものを掬うように選んで、それらを重ねて綴る。
これを読んだ誰かに、わたしの想像する景色が伝わるように。
ぱちぱちっ、たーん。ある程度入力したら変換して、薬指でエンターキーを叩く。ちなみに他の人がどうやっているかとか、正しい指の置き方とかはよく知らない。
キーボードは同居人に気を遣って、静音性のものを選んでいる。だからカタカタじゃなくてぱちぱちなのだ。
仕事柄、どうしたって深夜まで作業が及んでしまう。そんなわたしとは違って同居人は決まった時間に起きて外へ出かけるので、その迷惑になるようなことはできるだけ避けたくて。
別に気にすることないのに、なんて電気屋さんで言われたっけ。懐かしい。
合間に冷めてぬるくなった紅茶を啜り、またぱちぱち。
手元の辞書を捲り、閉じ、またぱちぱち。
そんな動作を機械みたいに繰り返して三時間ほど経ったことを、ふいに視界に入った時計がわたしに知らせた。
ちょっと休憩するかな、と椅子に置いた腰を少し動かし、背筋を伸ばす。
真っ白な天井を見上げると、凝り固まった首やら肩やらが一斉にぱきぱきっと合唱した。
骨と骨とが噛み合うような感触に、おおうっと間抜けな声が漏れた。
眼鏡を外して机に置き、こめかみを摘まむとじわっと涙が滲む。目薬、目薬と引き出しを漁る。数年前まで自力で目薬を差すことができなかったのを思い出す。というか、こうして小説が仕事になるまで、目薬のお世話になったことが無かった。
同居人の膝に寝っ転がって整った顔を見上げたあの感覚を思い出しつつ、雫を眼に落とす。
もう何年も一緒に過ごしてるって言うのに見つめると妙に恥ずかしがったりして、あぁ、可愛いなぁなんて思ったりして。それを何気なく口にしてみれば、火でもつけたように顔を赤くして。
手間ではあったけれど、あれもあれで悪くなかったなあ。
すーっ、とメントールの沁みるような清涼感に、視界が冴える。よし、と頬を軽く叩いて、また画面とキーボードに向き直る。また、ぱちぱち。
わたしは、しがない小説家。
特別売れっ子と言う訳でも無ければ、落ちこぼれって訳でもない。生活に困らない程度に収入はある、くらいの立ち位置で、賞を貰ってから七年くらい、この仕事を続けている。
仕事として書く前に比べれば、そりゃ決して楽しいという訳ではない。趣味とは大きな差違があった。でも、これの他にできることなんか何もないのも事実。
大学に在学中に賞をもらってからそのまま作家になったから、あと数年で二十代も終わりを迎えるというのに、普通の仕事ってやつの経験がこれっぽっちもなかった。
小説家として死ぬとき。物語を紡げなくなってしまったときを思うと、ほんの少しだけ怖くなる。だから書けるうちに、たくさん書いておきたい。そういう気持ちがあった。
自惚れる気はないけど、速筆作家として名をはせていたりするのだ。ふふん。
そんな、絶賛お仕事中のわたし。
それなりに指は動いているけど、少し難航中だった。スランプと言うほどでは無いが、ここのところ書いては消してを幾度となく重ねていた。消した文章を繋ぎ合わせれば、文庫本一冊分くらいにはなりそうだった。
一応、書けそうな話は頭の中にあるのだけど、それを良い形で外に出せないでいる。カーテンを挟んでシルエットしか見えない図形を、色付きの立体で描こうとしているような。
そんな、掴み処が無い、曖昧な作業と今の自分を重ね合わせる。あまり生産的とは言えないそれを、うんうんと悩み、唸りながらも強迫観念に押され、続けてしまっている。
よくないな、と思いながらマウスのホイールを操作し、書きかけの文章をさっと流すように見やる。
これもきっと、最後まで書ききらないまま没にしてしまうだろうな。
なんとなく、そんな予感があった。じゃあどうして閉じずに執筆をつづけているのだろうと、苦笑交じりに自問する。
今わたしが書いているのは、何かこう、夏に田舎で人がたくさん死ぬ話だった。
ネットの情報を見るに、どうやらわたしは過激な作品を好んで書く作家として名が広まっているらしい。これは速筆と違って、わたしとしてはあまり誇らしくない。
たしかに処女作はそんな感じの雰囲気だったけど、今でもそんなのばっかり書いてるかって言われたら、いやいやいやと言いたくなる。
爽やかな青春の恋の話とかも、一応書いてはいるのだけれど。売れ行きだって、そんなに悪くはないし。
とはいえ読者が求めてるものはと考えるとやっぱり、こういう作風なのかなぁという結論に落ち着いてしまう。
それに、これは趣味じゃなくてお仕事なわけだし。そうなれば、自分の好みだけで書くわけにもいかないよね、って話だ。お金を貰う以上、多少嫌なことだってしなきゃいけない。誰かの苦労を肩代わりして対価を受け取るってのが労働なんだから。
「ぬぅーん」
でも、それはそれとして。と、指が止まる。
イマイチ筆の進みが芳しくないのも、確かだった。
「……なんか、面白いものないかな。いんすぴれーしょん」
今自分が必要としているのは、それだ。カタカナ語をぶつぶつ呟く。
作業机から離れて、パソコンと本棚と封をしたままの段ボールしか無い部屋の中を、ぐるりと見回してみる。
ここはわたしの作業部屋、兼、物置。寝室は、他にある。
同居人とここに越してから、ずっと放置されたままの段ボール箱の群れを見下ろす。
何が入っているのかさえはっきりと分からないし、どれがわたしのでどれが同居人のものなのかも、よく分からない。
表面を埃が覆っていて、指でなぞれば文字でも書けそうだった。
こうしてそれなりに不自由なく生活してる中で放置されているわけだから、多分、そこまで重要なものでも無いのだろう。別に邪魔じゃないから、そのままにしてあるだけ。これで蓋を開けてみれば、全部わたしのものでしたなんてオチなら、少し恥ずかしいけれど。
視線を床の段ボール箱から外して少し上げると、百八十センチほどの高さがあるウォールナットの本棚がアパートの壁を隠すように並んでいる。
そのいずれにも隙間なく大小ジャンル等、整合性無く雑多に書籍やCD、DVDなんかが詰め込まれて、そろそろ新しい本棚を買わないとな、あと、整理もしなきゃ……と若干うんざりする。
椅子から立ち上がると、冷房の風が直に当たって少し寒いのに気が付いた。
下着の上に大きいシャツを一枚纏っているだけだし、そりゃ当然だ。
これだけ本があっても内容は全部頭の中に入っているし、見慣れた景色の中でいんすぴれーしょんとやらが刺激されるかなぁ、と考えて。
「あ、そうだ」
閃く。あったじゃないか、身近に、未知なものが。
先ほどまで眺めていた段ボールの群れに近づき、一番手前に置かれていたものの底を支えるようにして重さを確かめる。うん、非力なわたしにも運べる重さだ。
丁度部屋の真ん中、スペースのある場所までえっちらおっちら、と段ボールを運んでから、貼られたクラフトテープをべりっと無造作に剥がし、中身を見る。
「なんだこれ」
何故か、中にはさらに段ボール箱が入っていた。外側と比べて一回り小さくなったそれを取り出して床に置き、またテープを剥がす。するとまた一回り小さな段ボール箱が入っていた。
「マトリョーシカかっちゅーの」
悪態を突くみたいに呟きながら似たような工程を何度か繰り返すと、漸く段ボール箱以外のものが姿を現す。
「……ノートだ」
そこに入っていたたのは、A4サイズの大学ノート。冊数を数えるのが面倒なくらいには量があり、その表紙には何故か丁寧に年月日が記されていた。~を挟んで二つの日付が書かれているので、日記のように見える。
果たしてこんなもの書いただろうか、と訝しみつつ、一番古い日付のもの。表紙が黄色いノートを選んで、開く。ずっと開かれていないのが、まさに手に取る様にわかるような紙質だと思った。
「…………うわ、うわうわうわうわ、懐かしいなぁ」
思わずそんな言葉を漏らしてしまいながら捲るそれは、予想通り、日記だった。
表紙に書かれた年月日と内容から察するに、高校時代のものだろう。あまり綺麗とは言えない字で、というか、達筆? 省略文字をがんがん使っている。そんな感じの筆致で、言葉選びは拙く幼稚で、だけど内容はきちんと伝わってくる。
高校生で、こんなに書けるんだ。すごいなぁ。
この子はもしかしたら将来、いい作家さんになれるかもしれない。
気恥ずかしさを打ち消すように冗談みたいに笑いながら、読み進めてみた。
*
それは、二人の女の子の恋のお話だった。
ほんの些細なことで喜んだり、嬉しくなったり、恥ずかしくなったり。
想うが故に悩んだり、悲しくなったり、戸惑ったり、傷ついたり。
瑞々しい筆致で日々を記していて、読み進めれば色濃く刻まれた記憶をより鮮明にさせた。
ちょっとだけ変で、だけど痛いほどに真っすぐな想いを綴っていて。
偽りも飾りも無い、素直な気持ちを書き、描いていて。
まるで優しい空想の物語のようで。
温かい海に溶けていくような夢心地に浸っていれば、そういえばこんなこともあったね、と頬の綻ぶような思い当たる節もあって。
まさに文字通り、自己投影。
こんなに夢中で何かを読み耽ったのは、随分と久しぶりのことだった。
それは、そんなわたしとあなたの、恋のお話だ。
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