殺し屋の『セイ』

ゆにろく

殺し屋の『セイ』

 1


 午前二時半。町のはずれにある公園。

 そこには全体的に黒っぽい服装をした長身の若い男と、艶のある黒い髪の毛を長く伸ばした高校生くらいの少女が立っていた。深夜ともあり、公園には二人しかいない。

 いては困る。

「――お前が『神崎澪』か?」

 男は少女の名前を知っていた。それもそのはず、男はこの「神崎澪」という少女に呼び出されたのである。

「えぇ。あなたが『殺し屋』ね?」

 澪がそう聞くと男は黙り、しばしの沈黙が流れた。男は神妙な面持ちで口を開く。

「……どこで俺を知った? お前みたいなガキに呼ばれるほど、有名になったつもりはないんだが」

「あなた『神崎悟』は知ってるわよね?」

 質問に答える気がないような澪の発言に男の顔は一瞬強張った。しかし、すぐにその発言の意図を理解し、顔をさらに強張らせた。

「お前……『ボス』の親類か?」

「話が早くて助かるわ。そういうこと。ちなみに神崎悟の一人娘よ」

 男は神崎悟を頭とした『組織』専属の殺し屋であった。この『組織』は勿論、社会的な団体ではない。金儲けのためならなんだってやる――それが人殺しであっても――そういうクズの集まりだ。

 基本は『組織』全体のために、時には所属している人間からの個人的な依頼で、金をもらい、標的を仕留める。男の仕事はそういうものだ。

 今回、神崎澪を名乗る人間からメールを受けた時、個人的な依頼であるのは明確であったが、まさか高校生ほどの少女が現れると思ってもみなかった。男に連絡を取れる人間は少なくとも『組織』の人間であり、どうしたって普通の高校生が連絡を、果ては依頼まで頼めるわけがない。

 となると「神崎」という姓がボスの苗字と一致していること。これが偶然とは考え辛い。

「はぁ」

 男は澪に気づかれぬよう小さくため息をついた。彼自身、自分の仕事に対して何か誇りがあるわけではない。しかし、くだらない理由で依頼され、くだらない理由で人が死ぬことにはなんというか、嘆息をつく他なかった。内容を聞くまでもなくため息が出る。ただ地位がある人間から生まれてきただけの高校生からの依頼など、たかが知れている。

「……ターゲットは?」

 しぶしぶ男は聞いた。


「私よ」


 澪は平然とした顔でそう言った。


 2


 公園を後にした男は自分の住処に戻るため、町を歩いていた。

「ちょっと、どこ行くのよ」

「……」

 厄介な問題を抱えて。

「お前こそどこまでついて来る気だ?」

「アンタが引き受けてくれるまでよ」

「……さっきも言ったが、依頼を受けるには金が足りない」

「いいじゃない! 十万くらい負けなさいよ。抵抗しない人間が相手ならどう考えてもお得でしょう?」

「……俺の流儀に反する。金の払えない貧乏人に仕事をする気はない。金がないなら、その辺で身体でも売ってこい」

「嫌よ。『やりたくないこと』はしない主義なの」

 男は澪の潔癖というか、完璧主義、そういった何か複雑な彼女の思考回路に頭を抱えそうになった。

 彼女の依頼の動機もこれに準じていた。


「――『私よ』? お前正気か? 自分を殺してくれだって?」

「ええ。正気も正気よ」

 男は想像から乖離しすぎた依頼内容に一瞬思考が停止した。

「さっきも言ったけど、私は神崎悟の娘。父がどんなことをしているか、どういう生き方をしているかは知ってる。……私がこのまま成長すればいずれ、父は私に悪事を強要する。私は手を汚したくない。善人のまま死にたいのよ」

 澪はそう告げた。

「……だから、俺に殺してくれと? 死ぬ方法なんかいくらでもあるだろ? 人間は簡単に死ぬぞ。お前みたいな多感なガキが毎年何人死んでると思ってる?」

「……そうね。確かにそこの木にでもずっと頭をぶつければいつかは死ぬでしょう。でもね、私は楽に死にたいのよ。銃で痛みを感じる間もなく楽にね。それに私がここで死ねば警察や、いろいろな善良な人に迷惑がかかるでしょう? それも嫌」

 男には理解できなかった。言っていることはわかる。確かに、『組織』の頭の一人娘であれば、成人にもなっていない今はともかく、ゆくゆくは悪事に手を染めることになるだろうと。が、悪事に手を染める前に死にたい? それに関しては全く同感できなかった。

 そして、銃で痛くないように死にたいという、謎の繊細さ。

 男からはどこか歪んだ少女にしか見えなかった。

「……金は?」

「もちろんあるわ。これで足りるでしょう?」

 澪は肩にかけていたバッグに手を突っ込んで、一冊の通帳を取り出した。

「四十万はあるわ」

「……足らねぇな」

「は?」

「俺の仕事は五十からだ。じゃあな。よそあたれ」


 と、「金が足らないから依頼を取らない」としっかりと伝えたはずだが、澪は公園からここまで、男から離れようとしなかった。高校生という歳で四十万は途方もない大金だが、それとこれとは別だ。

 男にはルールがあった。彼は生きるために殺し屋をしているのであって、殺すために生きているのではない。金がなければ依頼は受けない、そう決めていた。

「ともかくだ。お前に金がないなら、依頼は受けない」

「何よ! あったま固いわね! あんたしか殺し屋知らないのよ!」

「知るか! 勝手に死ねクソガ――」

 男は仕事柄、他人からの視線に敏感だった。怒鳴りあっている二人、そのうち片方は成人しているようには見えない。深夜とはいえ、通りに人が必ず来ないというわけではないし、非常に不味いのは、警察に声を掛けられることだ。男は我に返ると口を閉じ、歩く足を速めた。

 自分が思っている以上に熱くなっている。

 ――彼女は自分の「正反対」なのだから。

「私は文字通り『死ぬまで』あんたに付きまとうからね。あと、父に連絡でもしようものなら、大ホラ吹きまくってやるんだから」

「くっ……」

 やはり、ボスの娘というのが厄介で、あまり邪険にもできない。そして、最近『組織』が、新しい殺し屋を雇ったという話を耳にした。『組織』は俺以外にも殺し屋を抱えている。つまり、『組織』にとって俺が絶対に必要な人材でもなければ、ボスからの信頼が特別厚いということもない。となると娘にでまかせを言われると最悪首が飛ぶ可能性がある。

「……わかった。こうしよう」

「なによ?」

「お前が俺の元で十万円分働け。一か月だ。そうしたらお望み通りぶっ殺してやる」

「はぁ? 私は善人でいたいって言ったわよね? 誰が殺しの手伝いなんか……」

「殺しの手伝いなんか素人に任すわけねぇだろ。炊事洗濯だの殺し以外の雑務だ。それならいいだろ」

「い、嫌よ」

「なんだ? 悪人の飯を作ったり食ったりすると、悪人になんのか? そしたら極悪人の飯どころか血がつながってるてめぇは根っからの悪人じゃねぇか」

「ぐぅ……」

「これが俺の譲歩できるラインだ」

「……わかったわ。その条件飲むわ。いいわよ、『二週間』なら」

「……クソガキ」


 3


「なーんもないのね」

 澪は、殺し屋の家に着くとそう言い放った。殺し屋の家は年季が入ったアパートの一室で、部屋には冷蔵庫、布団程度のものしか置かれていなかった。テレビもなければ本もない。一切の娯楽がないように思えた。

「ここは、仮住まいだからな」

 澪にとって二週間も殺し屋という最低最悪な人種と共同生活を送るのはとても不服だった。だが、そこを耐えれば楽に死ぬことができる。

 楽に死ぬ。

 彼女は最初、自分で死ぬことも考え、カッターを手首に押し付けたことがあった。しかし、刃は手首の皮の下にいる血管に到達することはなかった。痛み。澪はそれに逆らえなかった。

「じゃ、俺は布団で寝るからよ。おまえはそこで寝ろ」

 殺し屋は床を指さした。

「鬼」

「座布団があるだけマシだと思え。それとも一週間延長して布団でも買うか?」

「……ふん」

 無造作に置かれていた座布団に頭を乗せ、固い床の上で寝転がる。布団はなかったので、初秋で夏の暑さがまだ残る気温にあったことが唯一の救いだった。


 自分の父が悪人であると確信したのは二年ほど前のことである。

 澪は生まれてからずっと大きな家に住んでいた。母は澪が生まれてすぐに他界しているので、澪と父、家政婦が数人。それにしては広すぎる家だった。

 しかし、友人を招待することは許されず、家を訪れるのは父の知り合いだけ。父の知り合いは決まってガタイの良い男を連れた胡散臭い顔をした人間だった。

 小学生の頃、父の仕事を聞くことが宿題として与えられた。

 父は夜遅くにしか帰らず、ほとんど家にいない。話しかけたとしても、「ああ」や「そうか」といったそっけない態度しかとられることはなかった。澪にとって家で心を許せる相手は家政婦だけだったといえる。

 結果、父の仕事を聞くという宿題にも関わらず、父の元ではなくまず家政婦の元へ澪は行った。

「澪ちゃん、お父さんとお話できる良いチャンスだわ! 今日は書斎にいらっしゃるから行ってみなさい」

「で、でも」

「それくらい答えてくれるわよ!」

 そう家政婦に言われ、澪は勇気を出し、書斎へと向かった。静かにドアを開き――

「お父さん……っ!」

「……おい、だれが書斎に入ってよいといった?」

「で、でも、宿題で……」

 父は澪のそばに寄り――

 ぶった。

 頬に鋭い痛みが走る。

「私は忙しいんだ」

 そう父は澪を切り捨てた。

 それから、父に対して恐怖がより一層大きくなった。

 それだけなく『痛み』に対する恐怖も同様に。

 ただ頬をぶたれただけ。

 しかし、父という唯一血のつながった人間に裏切られるのは、澪の心に深い傷跡を残すに充分なインパクトを孕んでいた。

 澪に助言した家政婦はその日以降、現れることはなかった。


 中学二年生のある日、授業参観――もちろん父は来なかった――の振替休日で澪は平日であるにも関わらず、遅く起きた。十二時を回っていた。

 自室を出ると父と客人の声が、微かに聞こえてきた。普段は書斎といった澪がどうやったって盗み聞きができないような部屋で話をしているのだが今日はどうも違うらしい。

 ――平日だから、私がいないと思っているのか。

 澪はチャンスだと思った。普段から何を父は話しているのか。父の仕事を知ることができる、そう思った。父は澪のことが嫌いなだけで、澪の前でなければ、父を好きになれる一面があるかもしれない、と。

 淡い期待と小さな好奇心。足音を立てないように、息をひそめて声のする方へ向かい、ドアの前で耳をそば立てた。

「――君のおかげだ! 神崎クン!」

「いえいえ」

 父は落ち着ついた様子で、客人は機嫌がよさそうに会話をしているようだった。

「君の売ってくれた物にみな満足しているよ!」

「喜んでいただけたのなら、こちらとしても幸いです」

 物を売る仕事なのだろうか。

「トラブルの際の手際も良かったね! 君は全く良い人材を抱えている! 全く羨ましい限りだよ」

 父のことながら澪は少し嬉しくなった。

「いやぁ、あれは凄かったよ、取引場所でのことだったんだがね――」

 澪は満足した。父としては酷いのかもしれない。が、多くの人の役に立つ立派な人間であると。静かにドアから耳を離し――


「偶然、巡回に来た警備員をね! こうパーンと!!」


 澪は足を止めた。


「取引に使っていたアサルトライフル……えーと、AK……なんだっけ? まあそれはともかく、警備員が声を上げる前にハチの巣! 実演も兼ねて武器を売るなんてね! 商売上手だなぁ全く!」

「その節はすみません。人払いは完璧だったはずなんですがね」

「……ほんとかなぁ? わざとだったりするんじゃない?」

「まさか。 偶然ですよ」


 澪は静かにドアを離れ、一階の自室に戻り、その窓から家を抜け出した。十五時を回る頃、玄関を開け「ただいま」と言った。その声は無駄に大きな家に虚しく響き渡り、「お帰り」という言葉が返ってくることはなかった。


 澪はその後、父に関することを調べることに決めた。父が家に帰らない時間を見計らい書斎へと忍び込もうとした。だが、父が不在の際は書斎に鍵がかかっていた。澪はピッキングをひそかに練習し、鍵を開け、父の書斎へと侵入する。

 そこで見つけたのが殺し屋の連絡先である。


 父はなぜ澪を育てたのか。なぜ生かしているのか。

 澪のたどり着いた結論は一つ。父はいずれ澪に『組織』の仕事を手伝わせる、もしくは『組織』を継がせるつもりなのだ。実際、父にはそうできる力があり、彼女に逆らえる力はない。

 父にとって澪は都合の良い駒、そう思われているに違いない。

 もし逃げたとしても、いずれ限界は来るだろう。捕まればやりたくもない仕事をさせられるのだ。


 ならば死のう。

 楽に。

 私が「清潔」なうちに。


 4


「いつまで寝てやがる」

 澪は殺し屋に蹴って起こされた。

「……まだ、五時じゃない……」

「俺の朝は早いんだよ、ほら朝飯買ってこい」

 殺し屋は五百円玉を無造作に投げつけると、ノートパソコンを開き、カタカタと何やら作業を始めた。澪はしぶしぶ身体を起こし、洗面所に行き顔を洗った。鏡には苦虫を噛み潰したような自分の顔が映っていた。

「……身体中痛いわ」

 布団の購入を検討した方が良いかもしれない。


 澪はコンビニでパンを二つ買い、殺し屋の家に戻った。

「はい。買ってきたわよ」

「……なんだこりゃ」

「は? みりゃわかるでしょ? あんぱんよ。文句ある?」

「『こしあん』じゃねえか。あんぱんは『つぶ』だろうが」

「……どっちでも良いでしょ、そんなの」

「よかねぇ、明日からは『つぶ』だ」

 殺し屋の不遜なもの言いに少々腹を立てたが、これでいちいち言いあっていては、二週間も持たない。いずれカッとなって私がこの男を殺してしまいそうだ。……そこまではいかなくとも、いがみ合っていてもなんの得もない。澪は息を深く吸い込んで、怒りを鎮めた。

 それに、あんぱんは「こしあん」に決まっている。つくづく、機に食わない男だ、そう澪は思った。

「じゃあ、俺は今から外にでる。二十一時には帰る。飯の準備は忘れるな」

「わかったわよ」

「……そもそも、お前飯を作れるんだろうな?」

「はぁ? 馬鹿にしないで」

「不味かったら、タダじゃおかねぇからな」

 そう言うと殺し屋は出ていった。


「さて」

 澪のすべきことは決まっていた。

「探すかしら、銃」

 澪は死ぬことを望んでいる。だが、そこには条件がある。

 一つ目は痛みを伴わないということ。純粋に痛い思いをしたくはない。人生に幕を閉じるのだから少しくらい我儘でも良いだろう。これに適すのは一瞬で生命を吹き飛ばす銃。

 薬という手段もある。例えば、睡眠薬の多量接種などだが、痛みはないとしても、確実に死ねるかというと首をひねる。そもそも、痛みがなく確実に人を殺す薬など存在するのだろうか。

 二つ目の条件は、他人に迷惑を掛けないといことだ。澪の死はあくまで自分の意志である。他人を巻き込みたくはない。駅のホームから飛び降りるなどはもってのほかであるし、自分の死体を見た第一発見者さんにトラウマを植え付けるようなこともしたくない。

 と二つの条件を鑑みると、銃を持っていて、死体に対し抵抗がない人間。殺し屋にピッタリ当てはまっている。父の書斎で殺し屋の情報を見つけることができたのはラッキーだった。

 と、殺し屋と接触できたまでは順調だった。

 だが、澪は今、あの男と二週間も共同生活することを強制されている。そんなものお断りだ。

 よって、澪は部屋から自分で銃を探し出し、自殺を敢行する。そして、死体は奴に押し付ける。これが一番良いと結論づけた。

「多分、そう簡単な場所には隠してないわよね……」

 まずは、冷蔵庫、玄関にある靴の中。布団もひっくり返してみたのだが、特に何も出てきはしなかった。

「まあ、当たり前よね」

 殺し屋事情はわからないが、警察が何かの拍子に来ても見つからないようにはしているのだろう。

 部屋をうろうろしながら、隙間という隙間を探す。

「あっ」

 澪は一つの場所に目を付けた。トイレである。便器には水を貯めておくための貯水タンクが存在している。そこは比較的大きなスペースがあり、何かを隠すには最適ではないだろうか。貯水タンクに隠したいもの入れる、そんなシーンをドラマか何かで目にしたことがあった。

「け、けっこう重いわね……」

 タンクの蓋は高校生の澪にはかなり重かった。やっとの思いで蓋をはずすとそこには水が溜まっており――

 チャック付きのビニール袋が沈んでいるのが見えた。

「ビンゴ!」

 手を沈め、取り出す。

 そこには、黒い塗装が施された金属が入っていた。

「なにこれ……」

 確かに銃であった。しかし、これは銃の一つのパーツに過ぎない。つまり、銃を手に入れたければ、このようなわかりにくい場所からすべてのパーツを見つけ、組み立ててる必要がある。探すのはともかく、組み立てるのはまず不可能だろう。偶然、それっぽく組み上がったとしても、暴発を起こして、大けが。そんなことは避けたい。

「……布団買いに行こうかしら」

 太陽はすでに高い位置まで昇っていた。


「あれ、ここ空き家じゃなかったんですね」

 澪が布団を買いに行くため、外に出て、鍵を閉めていたところ、後ろから誰かに声を掛けられた。

「あっ、すみません。お隣の飯塚です」

 飯塚と名乗った男は、やせ細った長身の男性で、歳は四十代といったとことだろうか。

「……どうも。……佐藤です」

 とりあえず本名を言うべきではないと判断した。殺し屋にあとでぐちぐちと文句を言われても不快だ。それにしても、隣に殺し屋が住んでいるなんて思ってもいないだろう。澪は同情した。

「今日は良い天気ですね。お買い物ですか?」

 年齢が倍も違う相手に対して敬語を使うのかと、澪はなんとなく不思議に思った。独特のしゃべりかたをする人間はどこにでも一定数いるものだ。

「えぇ、まぁ。そんなとこです」

 そういえば今日は土曜日だった。飯塚には澪が休日に羽を伸ばす普通の高校生だと思われていることだろう。

「車には気を付けてくださいね。それでは」

 そういうと飯塚は自分の部屋に入っていった。

 やはり、独特な雰囲気の男だったと澪は思ったが、殺し屋に比べれば数段マシだ。殺し屋はぶっきらぼうな喋り方しかしない。丁寧なしゃべり方の飯塚の方が印象良く見えるのは当たり前である。

 殺し屋の歳は二十代だと思うが、今まで何をして生きてきたのだろう。そんなことがふと頭に思い浮かんだ。

 殺し屋。人を殺して生きる。なぜそんな仕事についたのか。

 ――なぜそこまでして生きたいと思えるのか。


 5


 男は一切の家具、物が置かれていない部屋にいた。もともと真っ白だったと思われる壁紙は年季が入り、少し黄ばんでいる。部屋に唯一特徴があるとすれば、紫色という奇抜な色をしたカーテンだ。白色の壁に対して、紫のカーテンはよく目立つ。

 男は静かに『組織』からの指示を待っていた。床に無造作に置かれたノートパソコンの前で、あぐらをかき、ただ時を待っている。

 ピコン。電子音がこの静かな部屋の中を反響する。

 男は閉じていた瞳をゆっくりと開け、ノートパソコンのタッチパッドに手を掛けた。メールアプリを開き、メールを確認していく。『組織』のボスである神崎悟からのメールが届いていた。

 メールには、殺すべきターゲット。つまり依頼内容が書かれていたのだが、今回の内容はいつもとは少々趣旨が違う。

「これは……」

『組織』は今、その勢力を大きく拡大しつつある。その余波だろうか。殺し屋としての腕を試すような、そういう思惑が垣間見える依頼内容であった。だが、報酬はいつもの比ではない。

「これはこれで……」

 男は口元を緩めた。


 6


「帰ったぞ」

 殺し屋が帰ってきたようだ。澪は結局、布団――できる限り安いもの――を買い、夕食の買い出しを済ませ、家へ戻ってきていた。

「飯できてんだろうな」

「当たり前でしょ」

 澪の家には家政婦がいた。しかし、澪は料理を時々することがあった。というのも、父にぶたれて以降、大人になったらすぐに家を出る、そんな決意をしていた時期があったのだ。

「カレーよ」

「おいおい。初日からそんなんであと、二週間持つのか?」

「持つわよ」

「……明日の献立は」

「シチュー」

「……次」

「ハヤシライス」

 料理をしていた時期は確かにあった。だが、その時期はあまり長くはない。というのも、一度包丁で指を切ってから、料理をする回数はめっきり減った。それほどまで、澪は痛みに対する恐怖があったといえる。

「でけぇのは態度だけじゃねえか」

「いいわよ、別に他のもの作っても。味の保証はないけど」

「……」

 殺し屋は呆れたような表情をしてから

「いただきます」

 そう言ってからカレーに手を付け始めた。

 意外だった。殺し屋は口調からも気品のかけらを感じさせない男だったので、食事の挨拶なんか絶対にしないと思っていた。

 澪も手を合わせてから、カレーを食べ始める。味は悪くない。カレーとはそういうものだ。壊滅的な腕でなければそうそう食べられないような物は出来上がらない。

 思えば、誰かと同じ卓を囲み、ご飯を食べたのもずいぶん久しぶりだった。


 次の日、殺し屋はまた朝早くから外へ出かけた。澪はその日、洗濯や食器洗い、夕食の買い出しなどをして過ごした。買い物から帰ったとき、隣に住む飯塚に会った。

「こんにちは、佐藤さん」

「こんにちは」

「今日はおつかいですか? 偉いですね」

 澪の持っていたビニール袋を見てそう思ったのだろう。

「……そんなところです」

「そういえば、親御さんは、あまり見かけませんね」

「いつも夜遅いので」

「大変なんですね。困ったことがあれば気軽に言ってくださいね」

「ありがとうございます」

 そんな会話をしてから家に入り、澪は夕飯の準備を始めた。殺し屋を父とみなされるのも癪に障るが実父もろくでもない男なので余計に腹立たしく思う。もちろん、飯塚はこのことを知らないのだから、飯塚に腹を立てるのはお門違いも甚だしいのだが。


「帰ったぞ」

 二十一時を回った頃、殺し屋は家へ帰ってきた。今日は宣言通りシチューを作った。自分と殺し屋の分を各々の器によそう。殺し屋は今日も「いただきます」とそう手をあわせてから食事を始めた。

 食事を済むと、殺し屋は布団を敷き始めた。

「……ねぇ、いっつも外で何やってんの」

「……何で言わなきゃならねぇ」

「別にいいじゃない言っても。口封じ大いに結構」

「……仕事の下準備だ」

 仕事。

「……人殺しの?」

「それ以外に何がある」

「……ねぇ――」

「話は終わりだ」

 殺し屋は強引に話を切ると、歯磨きといった寝る準備をそそくさと済ませ、布団に横になった。

「……おい」

「何よ」

「明後日にはここを出る。飯の支度は明日までで良い」

「? どこ行くのよ」

「拠点を移す」

 そう言うと殺し屋は部屋の電気を消した。


 翌日もほとんど昨日と同じようなことをして、過ごした。違うところがあるとすれば、飯塚と出会わなかったことだろうか。それもそのはず、今日は月曜日。飯塚にも仕事があるのだろう。

 澪はもちろん学校に通っていた。夜遅くに家を抜け、学校を今日はさぼった形になる。父は澪がいなくなったことについて、心配の一つでもしているのだろうか。……ないだろう。あの男がそんなことしているはずがない。いなくなって清々したとでも思うのだろうか。それとも、いずれ従順な駒として使うつもりだった娘が消え、少し困ったりしているのだろうか。後者ならざまぁみろだ。


「帰った」

 殺し屋がいつも通り二十一時を回る頃、帰宅した。

「明日、ここをでるのよね」

「あぁ。そうだ、あと六時間後にな」

 六時間後。つまり深夜三時ということになる。

「え。明日ってそういう」

「あぁ。人に見られると少々厄介なんでな」

「殺し屋だから?」


「いや、隣の家に警察が来るからだ」


「……警察?」

「あぁ」

「飯塚って人の家?」

「……なんで知ってる?」

「隣の部屋なのよ。買い出しにでも行けば会うわよ」

「そうか」

「なんで、警察が来るのよ?」


「殺した」


「え?」

「その飯塚って男を殺した」

 殺し屋の言うことがうまく飲み込めなかった。

「な、なんで」

「? 依頼だからだ。なんでもあの男、裏では――」

「違う……。……そうじゃない」

「なんだ」

「なんで、そんなことできるのよ……!」

 別に親しい人間ではない。つい先日知り合い、少しの会話を交わした仲で、苗字以外は何も知らない。

 だが、頭に浮かぶのだ。

 飯塚の顔が。

 殺し屋。わかっているはずだった。依頼された人間を殺す。そういう職なのは。だが、目の当たりにしていないだけだった。

 わかった気になっているだけだった。

「何が言いたい」

「お金がそんなの欲しいの?! 人を殺してまで! ねぇ! そんなことをしてまで生きたいと思うの!?」

「……俺の名を知っているか? 知らないだろう?」

「だから何よ?!」

「俺には名前がない。戸籍も。何も。あるのは『これ』だけだ」

 殺し屋は声を荒げる澪に対し、静かにそう言った。

「俺はガキの頃から、人を殺すための訓練を受けてきた。俺にはこの仕事しかない。人を殺すことを辞めれば、俺が死ぬ。すぐに『組織』に始末される」

「……じゃあ死ね! 死ねば良いのよ! あんたの命に何人も死んで良いような価値なんかない!」

「……お前は今日何を食った?」

「話をそら――」

「肉を食ったよな」

「はぁ? 何?! 肉を食べたから、家畜を殺して食べた私もアンタと変わらないって、そう言いたいわけ?」

「あぁ」

「人と動物は違うで――」

「違わない」

 殺し屋は変わらず静かに、しかし,言葉に熱がこもっていた。

「命の重さだの、そんな事、俺は知らない。だが、どんな命も尊い。一つしかないものだ。人も家畜もかわりゃしない」

 殺し屋は淡々と話を続ける。

「さっきも言ったが俺はこの仕事を辞めれば野垂れ死ぬ。生きるために人を殺している」

「わかんないわよ……。私には」

「死にたがりなお前がイカレてんだ。死は最も嫌悪すべきで、生きるためならなんでもすべきだ」

「そのためなら」

「あぁ。人をも殺す。俺の『生』の下には多くの屍が積まれている。自分勝手に死ぬのはその屍たちへの侮辱だ」

「飯塚さんはアンタの屍になりたくてなったんじゃない……」

「だろうな。だから屍にした以上、俺は『無駄死に』はしない」

「……醜い」

「それが本質だ。お前が気づかず生きてきただけで。目を背けていただけでな」

 澪は自分が言い負かされたとは思っていない。詭弁だ。自分を正当化するための詭弁。あんな理屈は通らない。人を殺すことは悪だ。この男が間違っている。

 そして、澪はそうまでして生きようとは思わない。手を汚し、父の仕事を継ぐくらいなら死ぬ。

 そうすべきなのだ。


 7


 男と澪は、午前三時になるとアパートを後にし、次の場所へ足を向けた。

 今回の依頼は飯塚吉男だった。殺す準備として、飯塚の住まいの隣室を借りた。飯塚の身辺調査をするためである。そして、得た情報をもとに、平日、家へ帰宅する時間を狙い殺した。澪に留守番を任せている間、男は殺害の最終確認を行っていたのだ。ちなみに、あの部屋には『組織』から派遣される『変わり身』がすぐに入居する。アリバイ工作のプロだ。男の仕事は殺すだけ。事後処理は専門外である。


「ねぇ。殺してよ、もう」

 澪はそうつぶやいた。

「……まだ数日だ。十万には全く届いてない」

 これは男の中でのルールだった。必ず見合った額をもらわなければ殺さない。生きるために殺している。男は殺すのが好きなわけでもない。例えボスからの依頼でも、金をもらわなければ殺すつもりはない。

 澪は黙りこくったまま、ただ男についてきていた。男からは特に声を掛けようとも思わないし、澪も頑なに口を開こうとはしなかった。

 四時を回る頃、男は澪を連れ向かっていた建物に到着した。住宅街を少し離れた小さな森の中。ポツンと佇む二階建ての小さな家。『組織』からの通達でここに来るように言われていた。

「着いたぞ」

「……」

 澪は未だ口を開こうとはしなかった。男はドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。この家の場所は昨日、『組織』から送られてきた電子メールで知った。よって鍵も受け取っていないので開いていて当然である。

 玄関を抜け、廊下を行くとすぐにリビングが広がっていた。

 その部屋には、一切の家具、物は置かれていなかった。もともと真っ白だったと思われる壁紙は年季が入り、少し黄ばんでいる。

 カーテンは紫という奇抜な色をしていた。そのカーテンがやけに目立つ。

「……妙だな」

「え?」

 男は違和感を覚えた。

「ついさっきまで、人がいた……」

 男はここには「一度」も来たことがない。

 だが、この部屋に着いたとき違和感を覚えていた。

「……なんでわかるのよ?」

「匂いだ」

「匂い? ……特に何も匂わないけど」


「――血の匂い。同業がいた、この部屋に」


 血を幼い頃から浴び、その匂いを嫌というほど嗅いできたからわかる。獣に近い嗅覚。本当に微かなにおい。しかし、不快感のあるこの鉄臭さは勘違いとは思えない。

 死体が運ばれて来たならもっとはっきりとわかる。これは本人からでた血の匂いではなく、染みついてしまった他者のもの。男と同じ殺し屋、もしくはそれと似た非合法的なことを生業としている者の匂い。

 嫌な予感がした。カーテンは開いていた。

「おい、澪。ここ出る――」

 澪に向かって振り向いた瞬間、窓の方から小さな破裂音。顔を「何か」が掠めた。すぐに男はその場に伏せる。

「な、なに?!」

 男は小さく舌打ちをした。誰なのかも、目的も、皆目見当がつかない。だが誰かに命を狙われている、それだけは確かだった。しかし、男は冷静だった。仕事はいつでも安全圏から人を殺すわけではない。ターゲットによってはこちらも命を懸けることはある。

 背負っていたリュックからハンドガンを取り出すと、安全装置を外した。弾は込めてある。

 澪はつっ立ったまま、落ち着きなくキョロキョロと辺りを見まわしていた。

「バカ。屈んどけ。ぶち殺さるぞ」

「……本望よ」

「勝手にしろ。ただ、外から照準を合わせた銃で、楽に死ねるかは保証しかねるがな」

「……」

 澪は男と同じようにその場に伏せた。

 とはいえ、立ったままの澪が撃たれなかったあたり、狙いは――。

 私怨? あり得ない。男の情報は『組織』から守られているといっても過言ではない。

 となると、『組織』から切られた? その線もないと考える。なぜなら、先ほど飯塚を殺した際、事後処理班、つまりは『組織』の人間と接触している。殺すならそこがベストだったはずだ。

「どうするのよ」

 考えても埒があかない。このまま、されるがままにしていては確実に殺される。報酬はないが今回は命に直に直結する問題だ。

「――殺す」

 男は姿勢を低くしたまま、玄関の方へ近寄った。左手には二階へ続く階段、正面にはドアがある。周りは森であるため、木々が遮蔽物になり、逃げるのには適している。だが、まだ四時過ぎであるため辺りは暗く、走って逃げるのはかなりのリスクを伴う。何より、ドアから出ればどうしたって音が出る。この行為は相手に場所を伝えることに違いない。

「ちょっと! 早く出なさいよ!」

「……考えがある」

 男は賭けに出た。


 8


 家の外。

 木に隠れ、銃で室内を狙う男は想定外の事態に晒されていた。

 二日前、目の前の家で『組織』から受け取った依頼はこうだ。

「この家にやってくる男を殺すこと。その男はお前と同じ殺し屋だ」

 男が『組織』に入ったのはつい半年前のことだ。つまり、これは男の腕を試すための課題。『組織』の勢力は拡大しつつある。その『組織』に残るのは腕の立つ人間だけで良い。淘汰である。『組織』としてはどちらが死んでも構わないのだろう。生き残った方が強者ということで、腕の立つ殺し屋ということだ。

 標的になっている殺し屋については耳にしたことがある。なんでも、仕事はこなすが、金にがめつく、幹部の人間に対してですら絶対に依頼を安請け合いしないという。

 ともかく、家に来た男を殺すそれだけの依頼だったはずなのだ。しかし、実際に家に来たのは男ともう一人。少女を連れているなんていう情報はなかった。

 もっと早くに殺す手筈だったのだが、予想外の事態に様子をみた。そして、発砲した際、標的は偶然にも少女に振り返ったことで狙いを外してしまった。ただでさえ暗いのだ、急に動かれては当たるものも当たらない。

 その後、こちらの存在に気づいたのか、二人は家からでる様子もなく籠城されてしまっている。

 あと一時間もすれば明るくなる。日が出る前に終わらせたい。男は後、十分待って動きがなければ突入すると決めた。


 9


 男と澪は二階にいた。バタンという扉が閉まる音が一階から聞こえた。

 階段を上る音が僅かに聞こえてくる。

「止まれ!」

 二階の部屋から男は、声を上げた。怒鳴ったのでドアを挟んでも階段にいる男には聞こえたはずだ。

 階段を上る音は止まなかった。

「これ以上来れば、この女を殺す!」

 階段を上る音は止まらず、音は少しずつ大きくなる。

「この女は神崎澪。神崎悟の娘だ!」

 足音が止まった。

「お前も『組織』の一員だろ? ボスに聞いてみると良い! 行方がわからない一人娘がいると答えるだろう!」

 階段にいる男の足音は止んだままだ。


「――ボスですか。一つ確認したいことが。えぇ。あなたの一人娘は『神崎澪』という名前で、今行方をくらましている」

 階段から声が聞こえる。電話で裏を取りにいっているようだ。

 今の状況は五分だ。相手も銃を持っている。普通にやってもこちらが生き残れる保証はない。確実に生き残るためには階段の男とやりあうことではなく、澪を使いこちらが有利を取ることだろう。

 階段にいる男が足を止めたと言うことは、やはり『組織』の人間で間違いない。誤ってボスの娘を殺害したとなればただでは済まない。こちらが攻勢の気を見せなければあちらもリスクを負ってまで部屋に突入することはないだろう。

「――裏が取れた。神崎澪を解放してほしい。俺はどうすれば良い?」

 階段から声がする。作戦はうまくいったようだ。

「まず質問に答えろ。俺を狙う理由は?」

「『組織』からお前を殺せというお達しが来た。殺し屋は優秀なものだけで良いという方針だろう」

 勢力拡大に伴う「間引き」。『組織』は力をつけている。つまり、安定へ向かっているのだ。殺し屋は暴力の象徴である。安定した『組織』にとって殺し屋はビジネスの邪魔でしかない。優秀な者が少数いれば良いのだ。

「……事情はわかった。俺はお前を殺す必要がない。消えろ」

 階段を下りる音が聞こえ、最後にバタンというドアを閉める音が鳴った。

「行ったのかしら……」

「……多分な。だが、保険だ」

 男は澪を連れ階段を降りる。この時、澪の首に腕を回し、銃を澪の背に突き付けていた。頭に銃身を当てたいところだが、そうなると澪が何をするかわからない。身体という、風穴があけば死ぬが、即死はしない、そういう部位に銃を突き付けている。

 階段を降り、ドアの前までやってきた。

「ねぇ、あんた。これからどうすんのよ」

「あ?」

「私を人質に取ったら、あんた『組織』の裏切り者になるんじゃないの?」

「問題ない。さっきの男を意地でも殺して、入れ替われば良い」

「入れ替わる?」

「いったろう。俺には戸籍も名前もない。奴も多分同じだ」

 先ほどの男はまだ近くにいる。油断させた奴を殺したあと、顔を判別付かないよう偽装。俺は後に整形で少々顔をいじれば問題ない。殺し屋は仕事柄、顔を覚えられないように整形を行うことがあり、そのことは殺し屋にとって珍しいことではない。これですべて解決する。

 そのうえ、ボスの娘を助けたという報酬まで付く可能性もある。

「ほら、開けろ」

「押さないでよ。開けるって」

 男は後ろから澪に銃を突き付けているので、位置関係から澪にドアを開けさせる。

 澪がドアノブに手を掛けた。

 ゆっくりと捻り、ドアが開いた部分から、日光が差し込む。

 日はすでに昇っていた。

 ドアが大きく開かれ。


 ドアの前で銃を構える男が――。


 男は澪の襟を掴み、後方に思い切り引いた。

 乾いた発砲音が鳴り響く。

 男は胸から、あふれ出る血を感じながら、必死にドアを蹴り締め、鍵をかけた。

「……なんの真似だ!」

「――ボス曰く」

 力を振り絞りドア越しに、外へ向かい声を上げる。


「『娘なんぞどうでも良い。無害だから生かしてやっていただけだ。邪魔をするなら殺してしまえ』とのことだ」


 10


「……何考えてんのよ」

「なんだよ……」

「『なんだよ』って、なんで私をかばったのよ!」

 澪は殺し屋の咄嗟の判断で後ろへ投げられた。

 澪は殺し屋に助けられたのだ。

 殺し屋は胸から大量の血を流し、ぜえぜえと息をしていた。

 殺し屋の胸の位置。もとは澪の頭があった場所だった。

「あんだけ! 生きたがってたくせに! 人を殺めても平然と生きようとしてた癖に! 何よ! 勝手なことして! 私は死ねたのに! 何なのよっ!」

 父が澪に興味がないことは知っていた。わかっていたはずだ。


 でも、心の片隅では信じていたのだ。


 自分の娘に全く関心がないなんてことはない、と。

 だから、思った。

 自分を今後『組織』に入れて、手を汚させるつもりなのだと。


 本当になかった。


 澪の命すら。

 父の関心には値しなかった。

 娘とすらおろか、澪のことを人とすら思っていないのかもしれない。家に住み着いてしまった野良猫のような。

 ただいるだけの「物」。


「全部! あんたが私を早く殺さないから!  だから、あんたは私をかばって死ぬハメになるし、私だって! こんな思いするくらいなら――」

「……むかつくんだよ」

 殺し屋は小さな声で、残った最後の命を振り絞るかのように、口を開いた。

「俺が……ここまで、必死に生きてきたのに。お前は最初から……」

 殺し屋は口から血を吐き、苦しそうになりながらも、話を続けた。

「『死にたい』と。確かに俺のしてきたことは、罪だ。悪だ。だがな――」

「……」


「生きることは決して悪いことじゃない」


 男は腕を動かし、銃を握った。

「生き方を否定されても、生きたことで誰かが不幸な目に合っても……生きること自体は絶対に悪じゃない」

 殺し屋は、澪の眼をしっかり見つめていた。

「もらったんだよ。命を。生きて何が悪い」

「……でも」

「それに、生きていれば何かあるかもしれない。俺みたいなクズが誰かを助けたりとかなぁ」

 男は小さく笑った。

「神崎澪。俺はお前を助けた。命を懸けて。お前は俺を殺して生きるんだ。

 お前は今から俺の屍の上で生きていく。俺は何人もの人を殺して生きてきた。その俺の屍の上で生きる。だから――」

 殺し屋はゆっくりと銃を澪の胸に押し付けた。

「こいつは、三日分の給料だ」

 澪は――。

「あとは好きにしろ」

 殺し屋はそういうと、目をつぶった。

 押し付けた銃から手を離し、その手は床に、力なく落ちた。


 澪の手には銃がある。

 ずっと欲しかったものだ。

 楽に死ぬための。


 リビングルームの窓が割れる音がした。外にいた男は窓を破り、家に入ってきたらしい。

「神崎澪。心配しなくて良い。『楽に殺してやる』」

 男の足音が聞こえる。

 玄関に向かってくる。

 澪を殺すために。

 このために。この時のために。

 父の部屋に忍び込み。嫌なやつと一緒の家で過ごし。

 もううんざりだ。


 ――もう楽になりたい。


 澪はそう思い、男が玄関に来るのを待った。


 ――生きることは決して悪いことじゃない。


 澪は銃を握ったままだった。

 否、放すことができなかった。

 殺し屋の血で濡れていた銃は、澪の手を汚していた。べっとりと。澪の手を離さないように。赤く。赤く。


 男が姿を現す。

「そいつは死んだか。じゃあな、神崎澪」


 銃声が一発だけ、家中に響き渡った。


 11


 家から出た「  」は、二人の命を奪い、今日を、明日を生きていく。

 二つの命の上で生きていく。


 完

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殺し屋の『セイ』 ゆにろく @shunshun415

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